垓下の戦い ~しかし四面楚歌ははじまらない~

たかぱし かげる

西楚覇王四年十一月、項王率いる楚軍は垓下に於いて漢連合軍に包囲された。そして夜は更ける。

ツッコミ無用の垓下の戦い


 軍は、かん軍の中にあって、黒い塊のようになっていた。


 とばりの中では松明がぱちぱちと音を立てている。明かりはそれひとつきりだ。漢軍の篝火かがりびがあまりにも明るく、楚軍までもが照らされている。


 項羽こううは入り口に腕を組んでもたれ、遠い外の漢軍をにらんだ。


 今楚軍は、漢軍ひいては諸侯の軍によって囲まれている。敵の数は数える気にもなれないほどだ。


 それに引き換え、今の楚軍は兵も少なく飢えと疲労に生気を失っている。

 夜風に耳を済ませても、楚軍は死んだように静まり返るばかりだ。


 項羽は腕を組んだまま、夜空を見上げた。


 漢軍の篝火は天をも焦がさん勢いだが、しかし、天は未だ昏くそこにあった。


 この気丈な若者は、まだ大丈夫であると思った。


 今まで負けたことはなかった。幾重に取り囲まれようとも、相手は弱い寄せ集めである。

 楚軍を今一度立て直しさえすれば。


「大王!」


 従兄弟の項壮こうそうが飛び出してくる。天を仰いでいた項羽は項壮を見遣った。彼の顔は赤い篝火に照らされてなお蒼白だった。


「……どうした?」


 泡を吹きそうな勢いで項壮がまくし立てる。


「大王! 今年度の決算がなんど計算しても大幅な損失です!」

「……え。え、なに?」


 項羽は体ごと向き直り、思わず聞き返した。


「え? 損失? え、今年度? え、うそ。だって。え、めっちゃ戦ってめっちゃ勝ったじゃん? え? 一回も負けてないのに? 損失? 意味分かんないんですけど」


「確かに、我ら西楚は百戦百勝しました。でも……多方面への遠征で戦費がかかりすぎ……」


「え、え、え。え、だって。勝ったから。勝ったからさ、ちゃんと利益回収したじゃん?」


「えっと、その。確かに勝って一時的に占領して収益は得られましたが。ほとんどが未回収の売掛金うりかけきんだったので。そのあと韓信に取り返されて、……貸し倒れました」


「かし? え、かしだおれ? かしだおれちゃった?」


「はい。ほぼ。全て」


「か、貸倒かしだおれ引当金ひきあてきん、は?」


「ぶっちぎりました」


 項羽が別の意味で天を仰ぐ。が、すぐにひらめいた。


「……大丈夫だ。俺たちには故郷という資本がある。本社に帰りさえすれば、すぐに株主会開いて、利益準備金を取り崩せる。俺、筆頭株主だから! 株、80%持ってるから!」


「……大王、それは、根本的解決になりません! 現金がないと」


「うう。や、でも。赤字なんだから法人税はかからない……んじゃ?」


「そうですね。でも消費税と法人住民税はかかります」


「! でもまぁ、現金と預金をかき集めれば……?」


「あと月末に買掛金かいかけきん未払金みばらいきんの支払期限と部下の給料と源泉徴収げんせんちょうしゅうした所得税納付とすいのローンが来ます。あ、騅の購入費用は車両運搬具しゃりょううんぱんぐなんで、減価償却げんかしょうきゃくです。一括で費用に落とせません」


「な、なんだと……仲買人ブローカーの話と、ちがう!」


 項羽が呻く。


「大王、ここは……騅を売りませんか……?」

「だ、ダメだ! それだけはダメだ」


 睨み合った二人の間に沈黙が流れる。もうどうしようもないのか、そんな思いにとらわれる。


「いや、まだだ。まだ俺は諦めない。項壮、うちの頼れる顧問税理士を呼んでくれ!」


「……顧問税理士の范増はんぞうじーさんは、大王がこの間クビにしたじゃないですか。いまうちに税理士はいません」


「っ!」


 遠い漢軍の篝火を瞳に映し、項羽はイライラと舌打ちをした。


「ってか! なんで俺だけ! こんな目に遭ってる!? なんで漢軍は困ってない!? あいつらも俺と同じぐらい戦争してるじゃないか!」


 理不尽ではないか。漢軍もまた楚軍と同じように戦い、そしていつも負けてきたのだ。項羽以上に赤字にあえいでいなければおかしい。なぜあんなにも篝火を贅沢に燃やせているのか。うちは一本なのに!


「……あくまでも噂ですが」


 項壮が暗い顔で声を潜める。


劉邦りゅうほうの野郎、部下を家内制奴隷かないせいどれいの呼称に落とし込んでむりっくり身内にして、扶養控除ふようこうじょ使ってるらしいですよ」


「はぁ!? ふ、扶養控除!?」


「で、幹部はみんな青色専従者あおいろせんじゅうしゃ


「青色専従者!? ってかちょい待ち! え、あいつ、個人事業なの!? 一国経営してて、個人事業なの!?」


「……らしいですねー。漢の国内生産で結構な利益を上げてるのに、所得税は鐚一文びたいちもん払ってないらしいです」


 項羽が絶句する。が、すぐに「でも」と声を上げた。


「だって、戦費は? あいつだって遠征だろ?」


「遠征は韓信かんしんとか他所よそに委託してますからね」


「い、委託!? え、でも本店支店会計、だろ!?」


「いえ。ずいぶん前に韓信を斉王に任命したじゃないですか。もうあの頃から韓信は独立会計らしいですよ」


「え、ええーまじでー。独立許したんか!」


「はい。でもあの時劉邦はでずいぶん阿漕あこぎに稼いだとかなんとか。ま、とにかく。個人事業ですしね、連結会計れんけつかいけいとかしてないでしょう」


「……じゃ、なんで皆で仲良く俺を囲んでるんだ、畜生が」


 わけが分からない。項羽の理解を超えている。不気味な笑顔を浮かべつつ頬を引き攣らせた。


「……さぁ? よっぽど色のいい報酬でも提示したんじゃないですか」


「そ、そうか。やつらの狙いはこの俺の、西楚せいそ覇王はおうか」


「まぁ、首というか。大王所有の80でしょうね」


「え、そっち?」


「大王、法定相続人いないじゃないですか」


「や、まぁそうだけど。俺的にはっちゃんに遺すつもりだけど」


 今も帳の中にある、愛しい美人ひとの顔を思い浮かべる。

 かつて彭城に置き去りにしたがために怖い思いをさせたことがあり、それ以来彼女を守るため片時も側から離したことはない。なお、全く同じ理由で、項羽の大切な80%株券も今ちゃんと懐に入っている。


「うーん、内縁ですからねぇ」


「う、だって、戦で忙しかったから。つい婚姻届書く暇がなくって。でも息子だっているぞ!」


「ええ? 息子?」


「うん。隆ね」


「……いつの間に。というか大王、認知してます……?」


「う、だって、戦で忙しかったから。どっちにしろ血が繋がってればいっかなーって」


「……今から入籍……いやでも敵地の役所が受理してくれるかどうか。……せめて。せめて、正式な遺言書でもあれば……」


「え、え、え。正式な遺言状? え、行政書士? 弁護士? 司法書士? もう、どれでもいいから連れて来て!」


「……ですから。行政書士(范増)も弁護士(范増)も司法書士(范増)も大王がクビにしたでしょ」


 項羽は幾度目かも分からぬ天を仰いだ。どんよりと昏い空には星ひとつ見えない。


「嗚呼! 天が俺を滅ぼすのか!」


「……天の所為にすな!」



垓下の戦い ~しかし四面楚歌ははじまらない~  たぶん、完

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垓下の戦い ~しかし四面楚歌ははじまらない~ たかぱし かげる @takapashied

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