4.市役所
銀色の四角い箱。市役所は高く聳え立っていた。その前に、人だかりがあり、中には血まみれの男が倒れていた。腕が変な方向に曲がり、頭からは血が溢れている。血のせいで顔が見えず、年齢が分からなかった。ガードレールに突っ込んでつぶれた車がそばにあり、人々はざわざわと騒いでいた。誰も男に応急処置をしていなかった。死んでいるからだ。
「アーメン」
少女たちは輪の中央にいた。真顔で、あるいは笑顔で、死体を見つめている。お葬式ごっこだ。
彼女たちの優しさは、優しさではない。優しい自分を作る、自己形成の過程にある彼女たち。これは自分を作ろうとする作業に他ならないのだ。彼女たちは大人になるだろう。当たり前のプログラムに従って。そしてセックスをするだろう。
ざわめきを後に、私は成人証明書を取り扱っている部署に、エレベーターに乗って向かった。エレベーターは私を高く運んでいく。このまま空まで連れて行ってくれないだろうか。そんな気分になる。でも、必ず止まってドアは開く。
成人証明書の部署は、がらんとしていて、空気が生ぬるかった。ただ奥のほうに二人、人がいた。女の質問に、男が困ったように受け答えしている。やけに密着して、気持ち悪い。私はつかつかと歩いていって彼らのところに行った。驚いたことに女のほうは三十代くらいで、男は私と変わらないくらいだった。女はどんなタイプの女が好き? と甘ったれた態度で聞いていた。男のほうはいち早く私に気づいたらしく、こんにちは、と挨拶をした。
「そんなにセックスしたいの? そんなにセックスが好き?」
私はいきなりそう尋ねた。女は驚いたように私を見た。
「セックスをして、何になるの? 子供を持つ方法ならいくらでもあるわ。それなのにどうしてセックスをしたがるの?」
「さあ……」
女は気味悪そうに、そして怒り気味に私を睨んでいた。
「成人証明書を持って、市役所の冷凍室に行けばいくらでも子供はもらえるのだもの。セックスなんか必要じゃない」
「あなたは変なのよ」
女は笑った。
「大人になったらセックスをするものなのよ。子供が出来るかどうかなんて関係ない。それが当たり前なの。あなたは大人じゃないわ」
「大人よ。二十歳だもの。成人証明書をちょうだい。ちゃんと保険証は持ってるから」
「残念ねえ。大人にしか上げられないから、セックスできない子供には上げられないわ」
「子供だってセックスはするわよ。さあ、成人証明書をちょうだい」
「ほら、墓穴を掘った。大人も子供もセックスする。あなたはしない。それってあなたが異常だという証明じゃない? そんな人にはあげられません」
彼女は余裕を湛えた笑顔でそう言った。私はこぶしを固めて震えていた。私は普通ではない。彼女も言っていた。普通じゃないから何にもできない。役立たず。仲間はずれ。
彼女は言っていた。
『あんたは一生そのままよ』
でも、子供だけは生みたい。
男性職員が近づいてきて、私の保険証を持って行った。そして女の職員が彼に話しかけるのをぼんやりと見ている間に、私の成人証明書は出来ていた。
「冷凍室は地下二階です」
澄んだ声で、男性職員はそう言った。私は小さな証明書を持って、エレベーターに向かった。
寒い。歯の根が合わないくらいだ。冷凍室は広く、天井は高く、女たちが大勢いた。皆が何かをほおばっている。大きな氷の塊だ。
高くそびえる氷の山があった。ブロック状の氷が、ピラミッドのように積み上げられているのだった。
女たちは獣のように氷を貪った。お互いにぶつかり合い、罵り合い、蹴ったり殴ったりしながらより良い氷を探していた。私は寒さで震えながらそれを観察していた。
「成人証明書はお持ちですか」
入り口のカウンターにはコートを着た職員が数人並んでいた。私はもらいたての成人証明書を見せた。彼らは群がって私の証明書を見た。寒すぎて機械が使えないので、確認のためには自分の目に頼るしかないのだろう。
責任者らしい眼鏡の男性職員が頷いて、証明書は返された。私は彼に声をかけた。
「いつもこうなんですか」
「いつもこうですよ。彼女たちはより良い子供を得たいものですから。さあ、あなたもどうぞ」
そっけなく追い払われた。私は仕方なく獣たちが群がるピラミッドに近づいていった。凍った床はやけに靴音を響かせた。しかしピラミッドに近づくにつれて、それは女たちの騒ぐ声にかき消された。
私は後ろからそうっと氷を見た。一つ一つの中にはとかげのようなものが入っていた。頭は大きくて、尻尾は巻いている、小さなもの――人間の胎児。女たちは凍った胎児を食べている。ここは、堕胎された胎児を保存しておく場所なのだ。ユリエの胎児も、きっとここにいる。
私は隙間を探した。氷に触れる隙間を。しかしどこにも無かった。女たちはそれぞれ縄張りを持っていて、私は近づこうとしては威嚇された。そんなに子供が欲しいのだろうか。私は不思議に思った。私も子供が欲しい。だけどこれほど熱心にはなれない。
私はピラミッドの周囲をぐるぐる周った。冷凍室は四角くて、隅に半分に割れてしまった氷の塊があった。中の胎児も真っ二つで、食べるには躊躇された。仕方が無いのでそれを避け、更に何周も周って、私はとうとう床にさびしく転がっている一粒の小さな氷を見つけた。太った女に踏み潰されそうになっているところを、私はあわてて救った。立ち上がって、天井の電灯の光に中身を透かしてみる。胎児はまだ未熟なおたまじゃくしのようで、どう見ても人間ではなかった。
私の、赤ちゃん。
私はためらわずにそれを口に持っていった。唇に触れ、歯に触れ、舌に触れ――、私はそれを噛み砕いた。砕けたそれは私の口腔の温度で溶け、胎児の破片が舌に触れた。私はそれをしばらく舌に乗せた。味はしなかった。そして、溶けて出来た水と共に、ごくんと飲んだ――。
「ハナエちゃん、今日は市役所に行ったわね。どう? 妊娠できた?」
カナコが無邪気に尋ねる。
「うん、ついでに産婦人科に行ったら、妊娠二ヶ月だって」
「良かったわね」
「ええ」
私はようやく妊娠した。セックス無しで。とても幸せだった。この子供と私は奇形な親子関係を持つだろう。子供はスリをするだろう。お葬式ごっこをするだろう。アルマジロを蹴るだろう。ただ、セックスはしないだろう。
「ねえ、どうしてそんなに子供が欲しかったの。妊娠なんかしたの」
文机の上でカナコが首をかしげる。私は答えない。
私は彼女を思い出していた。私を裏切り、集団に溶け込んでいった幼い彼女。左手の小指の無い彼女。大人ぶって強烈な麝香の香水を学校につけてきた彼女。中学生の時からセックスを繰り返し、高校生の時に出来た子供を虐待死させて刑務所に入れられてしまった彼女。『あんたは普通じゃない』と私に言った彼女。親友だった、彼女。妊娠するまで気づかなかった。私は彼女を愛していた。
セックスを嫌悪したのは彼女のせいだ。退屈なのは彼女に会えないせいだ。私は泣いた。慟哭と言っていいほどに激しく泣いた。
「どうして泣くの、ハナエちゃん」
カナコが悲しそうに言った。私は悲しくなかった、と思う。だけど涙はぼろぼろと流れた。
おなかに宿ったあの氷の胎児は、彼女がいつか堕胎した子かもしれない。彼女が初めてで最後の堕胎をしたのは確か妊娠二ヶ月の頃だったから。彼女は泣きながら子供を降ろした。とても悲しそうだった。だから次の子供を産んだのだ。それなのに彼女はその子の細い首を絞めたのだった。
私に宿ったこの胎児がもし彼女の子だったら――、私はこの子を彼女の好まない育て方をしてやろう。私は彼女と違って、計画に沿うのに疲れて、殴ったり、罵倒したりしない。あの青い像のような、奇形な家族になるのだ。それはきっと、無意味で、子供にとっては地獄のような人生だろう。二歳で自殺したら、上等だと思う。
「カナコ、私が妊娠したのはね」
かごの中でえさをついばんでいたカナコが振り向いた。私はバッグから青いレースを取り出して、ゴミ箱に捨てた。あいつは確かに中のものには触れていないらしく、大きなレースの畳み方も同じだった。ただ、胡蝶蘭の香水は麝香の香水と入れ替わっていた。
「退屈だったから。それだけよ」
私は香水の箱を開けて、紫色の瓶から麝香の匂いを体に噴きつけた。それはセックスの匂いがした。
《了》
退屈な午後 酒田青 @camel826
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