3.ユリエ
「私、今日も空を飛んでいたいわ」
次の日の昼食の後のことだった。カナコが言うので、私はすぐに障子を開いた。紙のステンドグラスは、強い太陽光に圧倒されて色が薄れた。さっぱりとしたやや冷たい風が吹き込んできた。カナコは飛んでいかなかった。ただかごから出て、卓袱台の上にとんと乗っただけだった。
「行かないの?」
「ハナエちゃんは行かないの?」
私は身分を証明するものを探していた。しかし昨日盗まれてしまったバッグに全て入っていたらしく、一つも見つからなかった。自動車免許証も、健康保険証も。私は初めてあの子供スリが憎くなった。激しく憎んだ。私の邪魔ばっかりする。奴らは、私が子供のときから私に思い通りにさせてくれない。
私は仕方なく、保険証を発行してもらうために市役所に向かうことにした。そのついでに子供を貰えばいい。
私が襖を開いたのを確認すると、カナコは意を決して窓から飛んで行った。身軽なカナコは、とても美しかった。私は窓から体を乗り出した。今日もいい天気だった。水色の空を、ちぎれ雲が苛立つくらいのんびりと流れていた。
私は魔法瓶の入った黄色いバッグを提げ、氷をかじりながら、美術館に向かった。別に何の用事も無いのだが、子供をもらう前に、なんとなく何か変なものを見てみたかったのだ。
広い玄関に入った瞬間、私は圧倒された。天井まで届きそうな巨大な青いオブジェが目の前にあった。木でできていて、人間の形を意識しているような気がする。よく見れば、手もあり、足もあり、頭、というより球体がある。しかし、球体は三つあり、大きな一つ以外は腕の位置にある。どうやらこれは人間ではないらしい、と思って説明書きを見たところ、これは『親子』という題名で、人間だという。
ずいぶん奇形な家族だ。べったりとくっついて、離れようとはしない。この子供はきっと集団に溶け込めないだろう。子供らしい感情を持ち得ないだろう。私と同じように。私が子供を持つなら彼らくらいの奇形な関係になりたい。くっつきあって、依存し合うのだ。
そんなことを考えていると、視界に幽霊のようなものが映った。誰かが私の斜め後ろをすっと通り抜けていったのだ。振り返ると、彼女はじっと床を見ながら歩いていた。十七歳くらいのとてもきれいな少女で、筋の通ったやや高すぎる鼻を床に向けて、少し腰を曲げた姿勢で進んで行く。手には白い毛糸玉を持っていて、彼女の長い栗色の髪が絡みこんでいた。私は彼女を目で追った。彼女は大分大きくなった毛糸を地面から巻き取りながら、美術館の玄関を出て行った。
「手伝おうか?」
私は思わずそう言った。少女はそれを無視して、歩道に続いている真っ白な毛糸を巻き取っていた。
私は玄関を出て彼女を見つめた。とてもか細くて、とても挑発的な格好をしていた。黒の胸元の開いたTシャツと、お尻がはみ出しそうなショートパンツ。もちろんセックスの匂いがぷんぷんした。私の苦手とする女だった。しかし私は彼女と話がしたかった。
「こうやってね、巻き取ってるのよ」
彼女が私に話しかけた。私たちはずいぶん遠く離れていたので、私が彼女を追って、横に並んだ。彼女は毛糸を巻き取りながら歩いた。よく見ると毛糸は歩道の上にどこまでも続いている。
「毛糸を?」
「馬鹿」
彼女はけらけら笑った。しゃがれた声だった。
「地面を巻き取ってるのよ」
「そう」
「地面を巻き取るということはつまり、地球を巻き取るということなの。もうなくなっていいんじゃないかって思うのよ、ここ」
「へえ、じゃあ地球は大分小さくなったかしら」
「いいえ。大きくなるばかり。いつか膨張しすぎて破裂するんじゃないかしら」
「それも良いんじゃない?」
「駄目よ。私が私の手で、少しづつすり減らしていくんじゃなきゃあ」
「そうね。ところで、私、子供を持とうと思うのだけど、どう思う?」
私は一種の実験的な質問をした。彼女はどう返してくるだろうか。少し期待した。彼女は黒々と化粧した目できょとんと私を見た。
「良いんじゃない?」
「あ、そう」
私は肩透かしをくらった。
「子供なんてさ、あんたみたいな病的な女に育てられちゃえばいいのよ。愛しすぎてぼろぼろにしてしまうようなタイプよね。あんた、病気でしょ」
私は少し考えて、答えた。
「そうね。きっと病気だわ」
「気にすること無いわ、私も病気だから」
「何の病気?」
それを聞くと、彼女はにやりと笑った。毛糸玉をぽんぽんと下腹部にぶつける。
「セックス狂って病気」
私は吐き気がした。それでも我慢をした。
「私、毎日セックスするの。理由は分からない。多分男たちが毎日セックスしたがるからよね。それに時々お金をくれるから。
頭からつま先まで舐められて――変なところを舐めるのが男は好きだけど、耳を舐められるのが一番嫌だわ。歯を磨いてない奴に息を吹きかけられるのなんて最悪。おえっ。買ったばかりの化粧水の瓶を突っ込まれたり、洗ってない相手の体を舐めたりするのも嫌。化粧水を使いたくなくなるし、口の中に残ったつばを飲み込めなくなる。
だけどあれだけは好きよ。男のあれを入れられること。気持ち良いから。あんたもそうでしょ。乱暴に入れられるほど陶酔できるでしょ」
私は彼女をひどく嫌悪していた。こういう話を一本調子に、平気な顔で続けられることに驚いた。彼女はそんな私に気づいたらしく、口を斜めにしてこう言った。
「大丈夫。もう飽き飽きなの。うんざりしてるのよ。セックスはもういや。第一体力も精神力も消耗するのよね。病気はうつされるし、毎日毎日体が汚れていくのが分かる。それに何回堕胎したか分からない。ほんとに……」
彼女は泣き出した。私はそれを無表情に見つめていた。彼女の足は止まっていた。彼女は大きな毛糸玉を抱きしめながら号泣していた。黒い涙がポツポツと落ちた。
「セックスなんてもうしないわ」
「私もしない」
「子供も欲しくない」
「私は欲しいわ」
彼女は汚れた顔で私を見た。醜い黒い模様が頬にできていた。
「市役所で?」
「ええ」
「なら、私が堕胎した赤ん坊、貰ってくれない?」
「いいわよ」
彼女は微笑んだ。私はぎこちなく笑った。彼女は子供を欲しくないが私は欲しい。この約束が成り立つなら、それはとても丁度いい。私は彼女のことが少し好きになった。彼女も同じ気持ちでいてくれているような気がした。
「ユリエちゃんじゃない」
不意に声がした。気持ち悪い声、そう思った。中年の男が私の背後から彼女に話しかけている。いやらしい笑顔を浮かべて。
「久しぶり」
ユリエは作ったような明るい笑顔で男に擦り寄った。媚びた猫みたいに。
男はとても嫌な顔をしていた。歯は恐らく磨かれていないし、きっと脂性だ。鼻も曲がっている。ユリエはこんな男と知り合いなのだろうか。
「友達?」
男が私を見たので私はすぐに目をそらした。
「違うよ。さっき会ったばかりの人」
『違うよ。ハナエちゃんなんて友達じゃないよ』
私は口を結んで彼らを見た。お互いに媚びながら、どうでもいい会話をしている。二人は「デートをする」ために連れ立っていくことにしたらしい。揃って歩き出した。
ユリエは男と腕を組んで、私にバイバイ、と手を振った。そのついでに毛糸をぽいと地面に投げ捨てた。毛糸は新しいアスファルトの上をころころと自由に広がっていく。
「結局のところはいざという時になるとどうでも良くなっちゃうのよね。赤ん坊も、耳に息を吹きかけられることも」
彼女は明るい声でそう言った。私はじっと毛糸玉の行方を追っていた。男が興奮した面持ちで彼女の腰を抱いた。
そうか、そういうものか。私はじめじめした感情にとっぷり浸かりながら不本意な納得をした。セックスなんて、どうでもいいことなのか。
私にはできない。心の底から拒否してしまう。私のような人間は何人いるだろう。きっと私一人なのだ。私しか、いないのだ。
私は美術館に戻って、オブジェの周りにある椅子の一つに腰を掛けた。そこでぼんやりしていた。奇形の家族の像を眺めながら。私も奇形だ。人間として、奇形なんだ。
隣の椅子に誰かが座った。誰なのか、私はすぐに分かった。
「君を探すのに少し苦労したよ。下宿先は男子禁制だし、君は携帯電話を持たなかったからね」
私は驚いて彼を見た。彼は楽しそうに笑っていた。何故、携帯電話のことを知っているのだろう。
「今日も君は障子を開けっ放しにして出て行ったね。小鳥が飛んでいくのを見たよ。逃げたんじゃなかったんだね。そのあと君は下宿先を出て行った。走って、どこか見えないところを歩いていった」
私は民家の裏にある細い路地を歩いていったのだ。彼に見つからないように。
「君は子供が欲しいんだって? それなら僕の精液をあげるのに。市役所なんかで貰わなくてもさ」
私はぞっとして立ち上がろうとした。その瞬間、腕をつかまれた。彼の手のひらはぬるぬるしていた。精液だ。私は悲鳴を上げた。長くてか細い悲鳴だった。
彼がぎょっとして手を離した。私はオブジェの監視員の冷たい目を無視して走り出した。彼はすぐに追ってきた。そして昨日と違って、私は捕まった。腕を再びつかまれ――あのぬるぬるしたものはただの汗だと私は気づいた。
「ねえ、セックスをしようよ」
「いや」
私は腕を振り払った。彼は赤ん坊をあやすように、優しい笑顔を浮かべていた。
「セックスをしようよ」
「どうしてそんなことばかり考えてるの」
「君が好きだからさ」
「好きなら消えて。どこかに消えて」
「消えないよ」
「憎いのよ。あなたがとても憎い。この世に存在している、そう思うだけで嫌」
私がそう叫ぶと、彼はショックを受けたようだった。青ざめた顔を私に向けたまま、手を離した。
「君は僕が嫌いなの」
「好きだったわ。だけど今は嫌い」
私は泣いていた。怖いのか、悲しいのか、分からなかった。
「あなたは嫌な雰囲気がないから付き合ったのに、セックスのことを言い出したから」
「だから嫌いになったの」
「そうよ、嫌いよ」
私は彼と付き合っている。今も、現在進行形で。だけど、別れられないでいる。何故なのか分からない。
彼からは未だにセックスの匂いがしない。だけど彼はセックスをしたがっている。私は怖かった。セックスをするということが、今ここに、目の前に存在することが怖かった。
「君はセックスが怖いんだろう。なら試してみようよ。本当は大丈夫なのかもしれない。それに僕も自分がホモセクシャルじゃないことが分かるかもしれない」
彼が苦痛に満ちた顔でそう言うと、私は驚きのあまり逃げようとするのを止めた。彼の言ったホモセクシャルという言葉が、とても不思議な響きで私の中をかき回した。
「ホモセクシャルなの」
「違う、と思う。だって君が好きだから」
「ホモかどうか確かめるためにセックスしたかったの? 私が嫌がっているのを分かりながら?」
「それは」
「私はセックスしないわ。セックスしないで子供を持つの。あんたなんて必要ない。あんたの精液も必要ない」
彼は黙り込んでいた。そして持っていた紙袋の中から何かを取り出し、すっと差し出した。昨日子供にすられた私のバッグだった。私はそれをひったくった。出来るだけ彼の指先に痛みが走るように。
「取り返してくれてありがとう。中身には触ってないわよね」
「いや、少し」
彼は無表情に言った。私は激昂した。
「汚いわ」
「財布が盗まれてないか確認しただけだよ。それくらい平気だろう」
「恋人だから?」
私は彼をあざけり笑った。彼は傷ついた顔をした。だけどもう関係ない。
「もう、今日で本当にお別れよ。セックスはしたくないし、昨日私は市役所で子供を持とうと決心したの。お別れするしかないわ」
「子供の父親にはなれない?」
彼は切なそうに言った。私は言下に否定した。
「なれない」
彼は黙っていた。いつまでも黙っていた。あまりにも静かなので、私は彼の横を通り過ぎ、市役所に向かって歩き出した。そして、新しいほうの魔法瓶を取り出し、中から氷を取り出した。口に含むと少し溶けていたらしく、水の匂いがした。奥歯で噛む。がりりといい音がして氷は砕けた。私は爽快な気分には、なれなかった。パタパタと、カナコが私を追う音がした。
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