2.子供がほしい
アーケード街は混んでいた。息苦しいくらいに人間の匂いがした。息の匂い、足の匂い、汗の匂い、経血の匂い。頭痛を抑えながら歩いているうちに、いやなものを見つけた。
「待ってたよ」
下着店の入り口に、あいつはいた。やせていて、背が低くて、額が狭い、そして蛇のようにしつこい、私のストーカー。私はこの男を見るたびに背筋が凍る。この男の目的ははっきりしている。はっきりしているからこそ私は避ける。私は用もないのに下着専門店に入った。すると驚いたことに一緒に中に入ろうとするのだ。
「下着店だけど」
「彼氏が一緒に入るくらい……」
あいつの手が私に伸びる、その瞬間に私は逃げた。ドアにぶつかり、人にぶつかり、あいつを置いて走った。アーケードは長く続いていた。怪訝な顔で振り向く人々をよそに、汗がじわじわと湧いてくるのもかまわずに走った。横断歩道を渡り、食べ物屋の続く道に入った。ラーメン屋の生ぬるい湯気が顔に被さってくる。飲み屋が連なっているが、昼間だから誰もいない。ここで捕まったら、あいつに捕まったら、セックスしなくちゃいけない。そんなことを漠然と思った。
幸い、あいつは追ってこなかったようだ。私はゆっくりと、こわばった足を揉み解しながら歩いた。しばらく歩くと服屋やアクセサリー屋が連なる通りに出た。ほっとした。女ばかりだ。しばらく歩くと、靴屋と服屋の間に、ピンク色の外壁の小さな店が見つかった。
店に入る前からむっと甘い匂いがしていた。ドアは始めから開いており、安売りのティーン向け香水が脇のワゴンに並べてあった。中に入ると匂いはますます強烈になり、女の匂いも濃くなった。初めて入る香水店だが、品揃えはよさそうだった。
麝香の香水が欲しかった。思い切り強くて下品だと感じるくらいが丁度いい。何故そんなものが欲しいのかが全く分からなかったが、私はどうしてもそれを身に付けたかった。
ブランド物の高い香水から見ていく。形は様々だ。シンプルな瓶、四角い瓶、丸い瓶、ハート型の瓶、シュールな形の瓶。形と共に、様々な色がある。対象年齢が高くなるほどに、瓶の色は透明になっていくような気がした。でも麝香の香水は、毒々しい色の瓶に入っているのに決まっている。強烈な甘い匂いをさせて、主張しているのに違いない。
思い出してみれば、あの匂いは誰かがつけていたものだ。とても美しくて上品な、左手の指が一本だけ無いあの少女。『いい匂いでしょ』私は清潔な彼女のその匂いを敏感に嗅ぎ取り、どきどきしながらも違和感を覚えていたことを覚えている。
何故、そんな匂いをつけるの? 汚いよ。止めてよ。
私は子供のころ、雑貨屋の香水コーナーであれが麝香の香水の香りだと知った時、欲しくて仕方なくなった。彼女の香りを身に付けたかった。彼女のようになる。いや、――彼女になる。
だけど今は違う。私は彼女のようにはならないと決意している。だけど麝香の香水は探す。矛盾している。何故か、分からない。
香水はなかなか見つからなかった。今は春で、薄着になってきているから麝香のような強烈な香りは置かないものなのだろう。店内も花や果物の香りばかり漂っている。
瓶に詰めた脱脂綿の香りを次々にかいでいる時、新婚らしい夫婦がいた。お互いに体に触れ合い、性的な視線を交し合っている。私はこういう夫婦を見ても、他の人のように幸せになることができない。気味が悪い。そう思うのだ。
『あなたはできないものね。普通の人ができることを、あなたはできないものね』
不意に甦った台詞。私は胸がうずいた。かいでいる香水の香りが分からなくなるくらいの苦しみだった。
「ねえ、何をそんなに一生懸命探しているの」
話しなれた幼い声が耳に届いた。子供が話しかけたのかと思って辺りを見回したが、誰もいなかった。夫婦に取り残されたベビーカーだけが、目に付くものだったが――。
「何を探してるの」
髪の毛も僅かな、瞼の腫れた丸々とした赤ん坊が私に尋ねた。
「……麝香の香水」
赤ん坊はニヤニヤ笑った。
「フェロモンの香水かあ。何に使うの」
私は口を結んで首を振った。何のことだか分からない。それにこんなに小さな赤ん坊と会話することが、とても奇妙なことに思えた。
「僕のこと変に思った? 大丈夫、僕は天才児なんだよ。何だってしゃべれるさ」
赤ん坊は相変わらずニヤニヤと笑いながらそう言った。
「ねえ、僕は母のお腹の中にいるとき、とても期待していたんだよ。外はどんな世界だろうって。君は覚えていない? あの期待感」
赤ん坊は丸々とした小さな手で自分の頭を撫でる。あどけない表情だ。
「だけど残念だったなあ。僕は失望したんだよ。この世界に。皆愚かなんだもの。馬鹿と馬鹿が作った世界に、この僕が住んでいられると思う? 僕は大人になっても他人にぺこぺこしないし、言うことを聞かないし、女房とセックスするために目配せをしたりしない。でもそこまで徹底してやっても不満だろうなあ、と思う」
彼の両親が近づいてきた。私がベビーカーにかがみこまずにじっと立って彼らの子供を見つめていることが、不安に思えたのだろう。母親が私を睨んでいる。
「聞いたんだけどさ、僕は英才教育を約十年受けなければならないらしいよ。だからその前――二歳くらいの時かな――自殺しようと思う。手段は考えてある。自殺には見えないやり方だ。新聞には載らないよ。だから君も知りようが無い。だけど僕は他人に人生を操作されたくないんだ。フェロモン香水もつけたくないよ。
さあ、君はどう思う?」
そこまで聞いたところで、彼の母親がベビーカーをひったくった。彼はぐらぐらと体を揺らしながら、無邪気そうにニコニコ笑っていた。二人の大切な天才児は、両親の程度に合わせて、母親の買った香水をいい匂いだね、と褒めたり、父親にパパは優しい夫だね、とおだてたりしていた。両親たちはそれがとても誇らしいようだった。周りの人々は珍しげにそれを見ていたので、母親はますます興奮気味に赤ん坊に声をかけた。
去り際に、赤ん坊は私に手を振った。じゃあね、バイバイ。そう聞こえた。彼の声は耳に残った。頭の中をこだました。
手を夫婦と赤ん坊が去ると、店内は静かになった。あの天才児は、この店にはちょくちょく来るらしく、店員は淡々と接客を続けていた。ただ、一人の中年の女が彼らの後姿を羨ましげに見つめていた。
結局私は胡蝶蘭の香りの香水を買った。あの赤ん坊が言ったことのせいかもしれないが、実際見つけた麝香の香りが思い出以上に強烈すぎたということもある。見つけた瓶は紫色で、匂いは動物の匂いだった。買わなくてよかった。私は胡蝶蘭の涼しげな香りに満足して、大通りに向かって歩いていった。
大通りの交差点でも、お葬式ごっこは行われていた。少女たちは手を合わせ、目の飛び出した猫の死体を街路樹の根元に置いて、そこを祭壇にしていた。猫の顔はつぶれていて、腹部から腸が飛び出していた。この気味の悪いものを、少女たちは静かに拝んでいた。私は顔を背けながら歩きだそうとした。
その時突然、私は手が千切れるような錯覚を起こした。気がつくと、私のバッグは手から離れていた。小柄な少年の走る背中が見える。手には胡蝶蘭の香水の入った私のバッグが握られている。スリだ。私は追いかけた。そばにいた男が彼を捕まえようとしたが、少年がすばしっこすぎて彼には無理だった。私は追った。他の人々も追った。だけど結局、少年を捕まえることはできなかった。
今日は妙に退屈しない日だ。私はそう思った。
家に帰ると、私はくたくただった。だからベッドに大の字になって、沈香の落ち着いた甘い香りをかいでうとうとしていた。財布には数千円しか入っていなかったけれど、様々なカード類があの中にはあった。編みかけのレースもあった。諦めがつかないものが多すぎた。
私は確信していた。あれも子供の遊びの一つなのだ。子供の遊びは無邪気で残酷だ。そのくせ妙に計算高い部分がある。あれはちゃんと目的があってやったことだ。私の金は彼らのものになるだろう。そしてゲーム代にでもなって消え去るだろう。つまらないものだ。子供自体は、私を退屈させないが。私は新しく氷をかじった。
ああ、退屈だ。子供が欲しい。
突然、そんな思いが起こった。私自身、びっくりした。子供を手に入れて、私はどうするのだろう。あんなスリごっこや大人顔負けの嫌がらせに満ちている彼らを手にして、どうなるというのだ。
『だって、退屈がまぎれるもの』
彼女がいつかそう言った。確かにそうだ。だけど――私はセックスがしたくない。獣になりたくない。あえぎ声を出したくないし、異物を体に入れたくない。
子供は欲しい。だけどセックスはしたくない。
忙しい考えを頭の中で泳がせながら氷をかじっていると、そこにカナコが帰ってきた。緑色の障子紙に影が映っている。彼女に相談してみたらどうだろう。私は口の中に冷たいものを含みながらのろのろと象のように歩き、色のうるさい障子へと向かった。
「ほうら、私は一つ残らずハナエちゃんのことを知っているのよ」
語り終えると、カナコは自慢そうに胸を張った。私はゆるりと微笑むと、カナコの頭を撫でた。
「でも、考えていることは分からないでしょう?」
カナコは不安そうに体をあちこちにやった。
「どうしたの。ハナエちゃん。スリにあったこと? ストーカーのこと? 赤ちゃんのこと?」
「本当に全部知っているのね。ううん。私、子供が欲しいと思って」
私がそう言うと、カナコは金切り声をあげた。
「何言ってるの!」
「だって、欲しいものは欲しいんだもの」
私は口を尖らせた。カナコは興奮気味に小さな翼を羽ばたかせた。
「嫌よ。私ハナエちゃんがセックスをして、子供を生むなんてこと絶対に嫌」
カナコは本当に悲しそうだった。だけど私は鼻で笑った。
「セックスなんてしないわ」
「じゃあ、どうするの」
カナコが私を凝視する。
「子供は、市役所で貰ってくる」
「市役所?」
「保存してある胎児をもらえるのよ。良いでしょ」
「それって……」
「そういうこと」
それきり黙って、私は布団にもぐりこんだ。カナコは言葉を失って、しばらく文机を離れなかった。呆然としているようだった。しかしやがてぱたぱたとささやかな羽音をたてて、卓袱台の上の鳥かごへ入っていった。私はそれを見てから、電灯の灯りを消した。まだ七時だった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます