退屈な午後

酒田青

1.犬のセックス、人間のセックス

 退屈になると、私は氷をかじる。毎日、果汁に浸した氷を含んで、思い切り歯を突きたてると爽快な気分になる。氷が口の中で砕ける瞬間を、私は愛している。異物が自らの力で破壊されて無数のかけらとなり、やがては溶けて自分の体を浸透しながら通り抜けていくのだと思うと、この退屈が紛らわされるほどの快感を得られるのだ。

 退屈だ。私はいつでもそう思っている。働かなくても十分に生きていける環境にいる私は、することがない。部屋は掃除しないし、勉強もしないし、親しく行きかう友人もいない。退屈だ。だけど私は何をしようともしない。

 退屈は人間を腐らせるだろう。粗末なベッドの上で大の字になって、私はそう思っていた。人は日に日に腐って、いつか人としての自己意識を奪われて、ただの人形となるのだ。誰もがそうであるに違いない。だって彼らは懸命に歩き、話し、食べ、活動している。皆退屈が怖いのだ。私のようになるのが怖いのだ。

 不意に、小さな羽音が聞こえた。私は首だけをひょいと持ち上げた。私は窓にはめこまれた障子を見つめた。障子紙は枠ごとに全て違う色の和紙で、ステンドグラスのように、四角い模様と色で部屋を飾る。これは私が唯一やった部屋のアレンジだ。この八畳の畳部屋には古い文机とベッドしかない。

「ハナエちゃん、障子を開いてちょうだい。私、お部屋に入りたいの」

 枠の一番下、緑色の障子紙のところに小さな影が見える。私は枕もとのコップから氷を一つ口に入れた。それをがりがりかじっていると、声は甲高くなった。

「また氷を食べてるの? 入れてちょうだいったら」

 私は象のようにゆっくりと立ち上がり、沈香の煙が白く漂う部屋を横切った。まだ青い畳がペタペタ鳴る。氷はあっという間に溶けて舌に染み込んだ。窓にたどり着いてから手をかけるだけで軽い障子は簡単に開いた。この子はこんなに軽いものも開けられないのか。それは当たり前なことなのだけれど。

 鈍色の冷たい空を背景にして、一羽の文鳥がそこにいた。小さな体を縮め、とんとんと跳ねながら私の部屋に入ってきた。白い羽を羽ばたかせ、軽々と体を運び、私の肩に乗る。重みを感じて、私はああ、カナコだ、と思った。

「どうして逃げたの」

 私はカナコの首を撫でながら尋ねた。薄桃色の大きなくちばしはすぐに開いた。

「だって退屈だったのよ。ハナエちゃんはかまってくれないし、その上私を置いていつの間にか出かけてたでしょう。私、この部屋でずうっとぼうっとしてたのよ。ぼうっとすることって良くないのよ。頭の中が不明瞭になって、自分の体がものすごく客観的に見えてくるの。あら、これは何かしら。誰の体かしら。羽根がだんだん不思議なものに見えてきて、どうしてこんなもので私は飛べるのかしらって思えてくるのよ。怖いじゃない。今までこれを使って平気で飛んでいたのよ。奇妙よ。不安よ。恐怖よ。

 そんなことを考えていたのよ。ハナエちゃんが私を一人にするから。だから鳥かごの落とし戸をくちばしで持ち上げて、体をくぐらせたの。障子は開いていたわ。色紙を通さない健康な日光が窓から覗いていたの。素敵だったわ。だから私は外に飛び立ったの」

 カナコはそれだけ言うと私の肩から飛び降りて、文机の上に乗った。私はカナコを追って傍にある座椅子に座った。

「で、今日の私はどうだった?」

 私が静かに尋ねると、カナコは動揺して動かなくなった。

「知ってるのよ。今日ついて来てたでしょう」

「それは、そうだわ」

「どうしてついて来てたの?」

 私はカナコの小さすぎる頭をそうっと撫でた。カナコは身震いをして私を見上げた。真っ黒な目だった。吸い込まれそうな色だ。

「ハナエちゃんと同じよ。外に行ってもやっぱり退屈だから。だからついていったの」

 退屈は私だけではない。当たり前だけれど。カナコは無表情に続ける。

「今日のハナエちゃんは川べりの、段差になった花壇のふちに座ってレースを編んでたわ。あの、いつまでたっても仕上がらない大きな青いレース。ハナエちゃんは、とってもつまらなそうにそれをやっていたわ」


 私は午後になると川原に出かける。河川敷には芝生が敷かれていて、清潔で広い。この辺りでは公園代わりになっている場所だ。お互いにぶつかり合う涼やかな水の音が常にしていて、川原の上の世界よりも冷たい空気がひっそりと漂っている。明るくて暖かい日光が私に照りつけてくるのだけれど、ちっとも暑くない。川べりに吹く風は、とても冷たくて優しい。

 私はひざ掛けほどもある大きな丸いレースを広げ、ひたすら編んでいた。つまらなくはなかった。つまらないことをしているとは思っていたけれど。

 このレースはコースターにもならないし。ドイリーにもならない。何にもならない。ただの退屈しのぎだ。だからこの編み物は、ただただどんどん大きくなっていく。退屈が凌げればいいのだ。それさえできれば退屈の恐怖から逃れられる。もしかしたら、このレースは私の退屈そのものなのかもしれない。

 私は魔法瓶に詰めていた大きな氷を取り出して口に入れた。新品の氷は舌に張り付き、無理にはがすと私の舌の表皮ごと外れた。かじるたびに私の皮膚が口の中を回る。何だか愉快になってくる。

 厄介なピコット編みに苦心しているときだった。黒電話を真似た音で携帯電話が鳴った。あいつだ。すぐに分かった。

「もしもし」

 電話に出ると、相手はうれしそうにしゃべりだした。

「君、今どこにいるの。家にはいないみたいだけど」

「もう掛けてこないで。そう言ったはずだけど」

「今日は朝からずっと君の部屋を見ていたんだ。あの障子紙、厄介だよな。中が良く見えないんだ。君が出かけるとき、開けていったから君の小鳥が飛んでっちゃったよ。いいのかな。まあ、小鳥だもんな。また買えばいい。

 まあとにかくさ、今日僕は君を見失ってしまったわけだ。どこにいる? 教えてくれれば後で猫をあげる。二十万したペルシャだ。君が喜ぶだろうと思ってさ」

「もう電話しないで」

 そう言って電話を切った。そしてばらばらになってしまったパプコーン編みをやり直すことにした。しかしすぐに電話はかかってきた。

「何?」

「僕の精液をあげる。だから電話を切らないで」

 私はまた電話を切った。電源も落とした。きっとあいつは何度もつながらない電話に掛け続けるだろう。そして私をどこまでも探すのだ。

 私がまたレース編みに戻ろうとすると、激しい息遣いが聞こえてきた。先ほどから橋の下でいちゃついていたカップルが、最後の段階に達したのだろう。湿っているだろう芝生に横たわり、服を着たままで交接を繰り返していた。私が見えないのだろうか。見えていてやっているのなら、それはとても愚かな行為だと思う。

 だって、お前たちは獣になったのだ。醜怪なけものだ。

 女の方の繰り返される声も甘ったるくて気味が悪いが、もっといやなのは男が何度も女の耳元にささやきかけているその声だ。女を更に悦ばせようと卑猥な言葉をつむぐ。とても不気味だ。自己陶酔の世界に入った人間を見ているのが怖い。自分は素晴らしい場所にいるのだと信じている彼らが怖い。どうしてそんなことを信じられるというのだ?

『私が男好き? あんたが処女だからそういうんでしょ。私が誰とやろうが、私の勝手よ』

 私は音を立てずにレースを畳み、小ぢんまりしたバッグに詰めて、川原を離れた。背後から川の流れる静かな音と、女のあえぎ声が聞こえる。香水を買おうと思っていた。それも、強すぎて失神しそうなくらいの麝香の香水を。

 コンクリートの階段を上がって雑然とした住宅街に出てみると、気温が高くなっていて、そのせいか私は気分が明るくなった。ここは安全だ。人のセックスなんて見なくていい。私は一つも不安にならなくて済む。背伸びをしながら見上げると、心臓の形をした赤い風船が、誰かの手から逃れて空を漂っていた。

 歩道の上で、子供たちがアルマジロでサッカーをしていた。丸くなった、茶色くて大きな生き物は誰のものだろうか。図体の大きい少年に蹴り飛ばされ、僅かに転がる。そしてへばって体を広げる。そこに少年たちが群がって背中を蹴る。するとアルマジロはまた丸まって、身を守ろうとする。

 この子供たちの残酷さはどこから来るものなのだろう。大人なら躊躇することを、彼らは平気でやってのける。不思議だ。不思議だけれど、何てひどいことを、という憤怒の情は湧いてこない。時々思うが、私はまだ子供のままでいるのかもしれない。退屈なのは、ちゃんとした子供でもなく、ちゃんとした大人でもないから、相応しい遊びが見つからないせいなのだ。私は、中途半端な世界にいる。ここを抜け出せる手だては、無いものだろうか。

 少し行けば今度は少女たちがお葬式ごっこをやっている。男の子が殺してしまった解剖された蛙、巣から落ちた雀の雛、踏み潰してしまったバッタ。彼女たちは植物のない植木鉢の土の中にそれらを詰めて、宗教なんてものを一つも分からないで十字を切る。アーメン。

 彼女たちの優しさもまた、理由のはっきりしないものだ。もちろん彼女たちも子供の一部で、残酷ではあるのだけれど、度々こういった優しさを見せる。だけど私は分かっている。昔は少女だった私は、彼女たちが繊細なのではなく、一瞬の気まぐれな親切心に翻弄されているだけだということを知っている。

 私は少女だった頃から少年と少女が嫌いだった。彼らは群れを成すのが得意で、集団であるほど強い態度を取った。優しさも残酷さも集団で行われた。私は一人で蟻の巣に水を注ぎ込む、一人ぼっちの転校生が好きだった。私は彼女を見つめて、いいものを見つけたような気がしていた。だけど彼女はすぐ、いなくなった。集団という嘘、友情という嘘の中に溶け込んでいった。私は寂しさに打ち震えた。

 あなたは嘘に生きるのですか。私を置いていくのですか。

 その時、女の子の一人が叫んだ。

「やだ、見て」

 少女たちが顔を赤らめながらキャーっと叫んだ。犬屋敷と呼ばれる粗末な家の玄関外で、白い犬の上に茶色い犬が後ろから覆いかぶさっていた。上に乗った犬はリズミカルに腰を振り、巻いた尻尾が揺れていた。

「交尾してる」

 すると少年たちがサッカーを止めて駆け寄ってきた。私は彼らが通り過ぎていく時の風を浴びて、とても不安になった。人間の匂いがする。なりかけの人間の匂い。数年後にはセックスをする人間の匂い。

 子供たちは輪になって犬の交尾を眺めていた。とても楽しそうだった。ちょっかいを出したり、つぶさに観察したり、この交接を滑稽なものとして見ていた。

 私はというと、冷静にこの光景を眺めていた。私は歩きながら子供たちの周りを迂回して通り過ぎ、ついでに犬の頭を順番に撫でた。彼らは必死な顔をしていた。笑ってしまうくらいに。

 交尾する犬の頭を撫でる私を、子供たちは警戒心をみなぎらせながら、それでも面白そうに見ていた。私は彼らの目にどう映っただろう? だけど知ったことではない。犬の交尾は、滑稽ではあるが美しい。それが分からないなら、彼らはやはり子供だ。

 しかし、犬のセックスを許せても、何故私は人間のセックスを許せないのだろう。

 私は子供たちの視線を浴びながら、繁華街への道を歩いていった。

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