最後の約束

野森ちえこ

おわりにするために

 バスからおりる人間を出迎えるように、少年はいきおいよくベンチから立ちあがった。降車口を見る目はどこかすがるような、切実な色をたたえている。

 しかし、その望みは叶えられなかったらしい。数人の客をおろすと、バスは余韻もなく走り去る。あからさまに肩を落とした少年は、崩れるようにまたベンチに腰をおろした。


 最後にバスをおりた吉田よしだは、なぜだかとり残されたような気分になって、意味もなくぐるりとあたりを見まわした。ガソリンスタンドにチェーンのレストランにコンビニ。都会とはいえないが、特別田舎というわけでもない、ありふれた地方都市の一角。今さら確認するまでもない。毎日かよっている道だ。


 なぜ少年に声をかける気になったのか、吉田自身よくわからなかった。しいていうならば、彼があまりにも打ちひしがれているように見えたから――だろうか。バスから最後におりた吉田を見て、少年は非常にわかりやすくがっかりしていた。正確には、吉田が少年の待ち人でなかったからなのだろうが、それでも申しわけなく思ってしまうのが吉田という人間だった。


「こんばんは」


 高校生くらいだろうか、少年ははじかれたように顔をあげた。


「あ、ごめんね、ぼくは吉田明男あきおっていいます。となり町のデパートで働いてます」


 吉田のふくふくとしたまるい顔とからだは人に警戒心を抱かせにくい。とはいえ、もう夜も遅いし、見ず知らずの中年男にいきなり話しかけられたら、さすがに警戒するだろう。そう思った吉田は、少年に名刺を渡して、写真入りの社員証も見せた。

 差しだされたから思わずといったように名刺を受けとった少年は、名刺と社員証と実物の吉田に視線をいったりきたりさせて、最後にしげしげと両手で持った名刺をみつめた。


「名刺なんて、はじめてもらいました」

「人生初の名刺かー。となり、座っていい?」

「……どうぞ」

「ありがとう」


 人ひとりぶんくらいのすきまをあけて、吉田はちんまりとベンチにおさまった。


「誰を待ってるのか、聞いたらまずいかな」

「……それ、もう聞いてますよね」

「あはは、そうだね」

「たぶん、元カノです」

「……たぶん?」

「遠距離なんです。でも、しばらくまえから連絡がつかなくなって……今日が、彼女とかわした最後の約束の日だから。今日こなければ、それがこたえなのかなって」


 吉田はついまじまじと少年を見てしまった。肌はつるんとしているし全体的に線も細い。高校一、二年生かと思ったのだが、もっと上なのだろうか。

 吉田の視線に気がついた少年が苦笑する。


「これでも、二十歳はたちです」

「あ、そうなのかい」

「今日、なったばかりですけど」

「誕生日だったのか」

「はい」

「じゃあ、今日の約束って……」


 口に出したそばから吉田は後悔した。聞くまでもないことだ。いいおとなが、こんな傷に塩塗りこむようなことを――と、心のなかで頭を抱えていると、少年のような見た目の青年は気にしたふうもなく、あっさりとうなずいた。彼女とは高校からのつきあいで、大学進学を機に遠距離になったのだという。


「ふだんはぼくが会いに行くことが多かったんですけど、誕生日だけは彼女が会いにくるって約束だったんです」


 すでに過去形になってしまっていることに、彼は気がついているのだろうか。


女々めめしいですよね。わかってるんです、もうダメだって。それでも、今日がおわるまでは納得できないっていうか……したくないっていうか……やっぱ、女々しいですね」


 人の彼女を悪くいいたくはないが、ずいぶん残酷なことをするものだと、吉田は静かに憤慨していた。心変わりはしかたがない。人間だから、そこは責められない。しかしそれならそれで相手にはっきりと別れを告げてやるべきだ。それが人としての、せめてもの誠意ではないだろうか。


 頭を冷やせとでもいうように、ポツポツと空から水滴が落ちてきた。


「夜でも、お天気雨っていうんですかね……」


 ぼんやりと空を見あげた青年がつぶやいた。なるほど、きれいな半月が浮かんでいる。


「あ……行ってください」


 はっと我に返ったように、青年は吉田を見た。


「ぼくは、大丈夫ですから」


 青年の言葉にはこたえず、吉田はおもむろに通勤カバンから折りたたみ傘をとり出した。尻をずらして少しだけ青年との距離をつめる。


「おっさんとあいあい傘なんてぞっとしないだろうけど、がまんしてね」


 差しだされた傘と吉田を交互に見た青年の口もとがぷるぷるしている。笑うのをがまんしているのだろう。これは、チャンスかもしれない。


「……お人好しだって、言われません?」

「あんたのお人好しにはつきあいきれないってフラれたことならある」


 吉田がまじめくさってうなずくと、青年はぶはっと吹きだした。


 よかった。笑ってくれた。きっかけはなんだっていい。笑いも涙も、人間の強い感情は、心のなかのとても近い場所にある。

 だから、思いっきり笑えたなら――


「あれ……」


 ポロポロと目からこぼれだしたものに青年が戸惑っている。しかし、吉田はそっと胸をなでおろしていた。

 かなしい時はちゃんとかなしまないと、いつまでもおしまいにならない。男だから泣いてはいけないなんて、そんな時代はそれこそとっくにおわっている。


 男の子が泣いたって、いいじゃないか。


 吉田は気づかないふりをして、まえを向いたままバカ話を続けた。

 青年はまるめた背中をふるわせている。

 最終バスが、近づいてきた。



     (了)


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最後の約束 野森ちえこ @nono_chie

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