雨の中の一秒

仲咲香里

雨の中の一秒

 次のバスが来るまで後三分。


「ね、ねぇ、りつ!」


「ん? 何?」


 わ、もう普通の顔さえまともに見られない。


「あー、えーっと、また雨、降って来たねっ」


「だなー。もっと、こっち来れば? そこ濡れるだろ」


「うっ、うん……」


 隅に咲き誇る青と藍を重ねた紫陽花が、屋根からの恩恵を受け損ねて風と雫に揺れる二人だけの高校前バス停。私は遠慮ぎみに一歩、中央に寄った。梅雨らしく朝から断続的に降り続く雨に絡まる髪が嫌で、本当はこれ以上近付きたくないのに。その辺の女子の事情も汲んでよね。


 そんな私の様子に短く息を吐いたりつが、おもむろに自分のネクタイの先を鼻に当てた。


「なあ、紗英さえ。俺のネクタイ、雨に濡れるとなんか甘い匂いすんだけど」


 いきなり何の話? 思わず見返した。

 せっかく一時間は粘ってバスを何本も見送って、やっと二人きりになれたのに。ここでこんな風に話せるのはもう最後なのに。他愛もない話はもういいよ。私は本当は、ずっと言えずにいた本題に入りたい。


 でも、甘い匂いは、ちょっと気になる……。


「何それ? そんなことあるの? クラスの男子もお父さんが言ってるのも聞いたことないよ」


「ホントだって。ちょっと嗅いでみ」


「えー?」と半分不審に思いつつ、律が胸の前でピラピラさせてるストライプのネクタイに顔を寄せてく。甘いって何だろう?

 生徒が十人もいれば屋根下からは溢れちゃうバス停の中で、一歩、二歩、律との距離が縮まって、三歩目でネクタイを捉えると、律がネクタイから手を離した。


「え?」


 律の胸の定位置に戻ったネクタイに上を見上げる。こんな角度から律の顔を見たことなんて無い。息が止まった。


「なーんて。バス来るまでそこにいること」


「あっ、えっ? あれ、甘い匂いは……?」


「ぶっ。だから嘘だって。純真だなー、紗英は」


「なっ、騙したのっ? ヒドイよ、律!」


 真っ赤になった私を可笑しそうに笑う律の腕を思い切り叩いてしまった。

 わ、触っちゃった。顔もだけど手も熱くなってくる。

 ていうか、律って絶対女慣れしてる。実際モテるし、女子にばっか囲まれてるしっ。


「やっぱ、紗英と話すと楽しいわ。今日で最後って、なんか寂しいな?」


 ほら、そういうこと平気で言うし。


「き、今日は一日中女子に泣きつかれて嬉しそうにしてたの、私、知ってるよ」


「嬉しそうは誤解だって。紗英にいつ呼び出されるかドキドキしながら待ってたのに」


「嘘っ! 今だって全然ドキドキしてる人の顔じゃないじゃんっ」


「えーっ、元々こういう顔ってだけなのに。傷付くなー」


 いつものノリ。いつもこの調子でからかわれて、ドキドキさせられてたのは私の方。なのに。


「嘘だったら一緒にバス見送ったりしないよ。でも、さすがに次のバスで帰らないと。紗英が帰り遅くなると心配だし。今朝から様子おかしかったのも、紗英がバスに乗らずにいたのも、俺に話があったからなんだろ?」


 普段調子いいくせに、肝心な時には真面目な顔するとこ。もし二人きりになれたらって密かに賭けてた私なんかの、実は人のこと良く見てる、そういうとこ。


 やっぱり気付いてたんだ。


「あ……、じゃ、じゃあ、バスの中で言うねっ」


「何? もったいぶられると、なんか怖いんだけど」


 言ってる間に、もうバスが見えて来た。念願の二人きりの時間だったのに、ほとんど話しもできずに終わっちゃった……。


「いいでしょ、別にっ。あ、でも、隣……座っていい?」


「そんな大事な話なら、隣に座らないとできないじゃん」


 そうやってまた心の中読んだみたいにサラッと微笑まれて、律の前で平静保てる女の子っているのかな。知ってるよね。バスの座席って結構狭いんだよ。隣の人に触れないようにするの、すごく気を遣うんだよ。

 律とは、前後別々の座席でしか乗ったこと無かったよね。


「先、どうぞ」


 開いたドアに向かって、律が笑顔で手を差し出す。レディファーストか。そういうとこ。


「……なんか、やだ」


 思ってもないのに、制服のスカートの後ろを押さえてジトっと律を見てみる。


「はあっ? ちょっと、待て。俺のことどんな目で見てたわけ? ありえねー」


「いいから、先に乗ってよっ」


 一瞬雨に打たれてパタパタと水玉模様の広がる肩から、不本意な顔で一段ステップを上る背中を目で追う。最寄り駅まで律と一緒に乗れる最後のバスだね。明日からはお互い別々の学校。どうせなら、眩しくて律を直視できないくらい晴れ渡った空なら良かった。


 運転手さんと私の目が合って、私は手と頭を同時に振って乗りませんの合図を送る。


 これくらいの嘘、別にいいよね。隣の席でなんて、言えるわけない。


 バス停の屋根を打つ少し強まった雨音にも負けない胸の鼓動が、私の内側から主張してくる。それを感じるのは、私だけなのかな。


 ドアの閉まる音に律が慌てた様子で振り返り、閉まり切る直前、


「好き……っ!」


 律に一番伝えたかった言葉を送った。目を見張る律の顔は、何に対する驚き?




 ずっと期待してた。

 私にだけ一人称、僕から俺に変えて話すから。私だけに名前呼ばせてくれるから。

 連絡先交換してくれたら、優しくされたら、二人きりになるの待ってくれたら。


 私のこと、名前で呼んでくれたら。


 そんな思わせぶりな駆け引き、恋愛初心者の私からしたら好きになれって言われてるのと同じなんだから。好きって言えって言われてると思っちゃうんだから。

 律も本当は、私の気持ちに気付いてたんでしょう?



 ゆっくりと離れてくバスの、ドアから一番近い席の窓越しにある律の顔が、雨に煙りそう。

 水滴の向こう側の律の口が動いた。最初に形作ったのは、


 お、の形。


 俺も? だよね?


 続く、え、の形。


 俺も。なんだよね?


 次は? 次が、お、なら。そうだったらいいのに。そうだったらどうしよう。足が震えそう。


 この間、一秒の何分の一だろう。希望と不安と期待が目まぐるしく入れ替わる感情の波に、傘を持つ手がより一層冷たくなる。




 バスが完全に走り去って、解放された緊張感から私は堪らずその場にうずくまった。

 短く震えたスクールバッグの中のスマートフォンは誰から?

 律?



 今はまだ見られない。



 教育実習中のたった二週間で、恋に落ちることってあるんだね。そんなの物語の中だけだと思ってた。



 同じ大学の彼女の存在も、彼女との写真も隠されたことなんてなかったけど、それでももしかしたらって明日から続く幸せを勝手に想像しちゃってた。


 いつか、忘れられる時が来るのかな?


 二週間で高ぶった私の気持ちに答えてくれた、たった一秒程の『ごめん』の顔。

 苦しそう、に見えた。



 この水溜りの雨水が全部私の涙と置き換わって、雨が止んで、雲が切れて、澄んだ空に虹が架かって私が笑顔になれるまで。


 もう一度、先生って呼べる時が来るまで、時間が欲しい。

 時間を下さい。

 時間さえあれば……。



「もう、どっちも呼べないよ……」



 雨も、大人も、曖昧な態度も、彼を好きになっちゃった自分も、全部キライ。

 この想いごと、彼との思い出ごと、綺麗に洗い流せたらいいのに。



 だから、パシャパシャと止まない雨の中を駆けて来たこの足音が、せめて誰か、別の人のものでありますように。

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雨の中の一秒 仲咲香里 @naka_saki

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