詩人のはなし

南風野さきは

詩人のはなし

 その街の印象は灰色だった。

 透きとおっているわけでもなく、霞んでいるわけでもない。曇っているわけでもなく、ぼやけているわけでもない。透明度はひどく高く、彩度だけがひどく低い。そんな灰色が、晴れていても曇っていても、その街を覆っていた。

 私がその街を訪れたのは、春のはじまる、薄ぼんやりとした日のことだ。その街で仕事を見つけたから、その街に住んだ方が何かと都合がいいだろうと思った。それだけのことだ。だから、私は手頃な物件を求めて不動産屋の扉を叩き、こちらの条件を並べ、独身男性の住居に適した部屋の候補を挙げてもらい、では内覧を、という流れで、とある物件に赴くこととなった。

 車の助手席から、私は流れてゆく街並みを見る。ハンドルを握る不動産屋は、中年で、小太りな、青灰の目を持つ男だった。

 この街に住んでしばらく経った今だから言えることだが、不動産屋の目に凝っていた色は、街を包みこむ彩りそのものだった。街にとって、海は近しい位置にあったが、波音が聞こえるほどではなかった。時折、湿った風が潮の香を運んでくるが、街にとって、海とはその程度のものだった。それでも、天候に関係なく、街を覆う色彩が薄ぼんやりとしているのは、多分に海の影響ではあった。大気の中を歩いているにもかかわらず、水の底を泳いでいるように錯覚させるだけの潤いを、海は街にもたらしていた。

 物件を探していたその日、空は雲ひとつなく晴れていた。そこには、陽の気まぐれによって緑や橙がゆらぐ、猫の目めいた青灰が滲んでいた。滴り落ちてきそうな空は、それこそ、巨人の腕をもって支えてもらわねば、地に崩れてきてしまいそうだった。

 カーブをやりすごすために、不動産屋はハンドルを切る。

「これから見に行くのは、いい物件ですよ。大家は気さくだし、近くにいいパブもある」

 不動産屋のことばは正しかった。鍵を持参してきた大家は白髪の老人で、骨格という緻密な造形を服でくるんでいるかのような矮躯を、溢れんばかりの温厚さで包んでいた。佇んでいるだけで穏やかさを広めてゆくその老人は、奢ったところのない、親しみやすいひとだった。

 大家と不動産屋は飲み友達でもあるらしく、仕事中というよりは遊び仲間といった雰囲気で、話は進んでいった。物件の前で待ち合わせた私たちは、挨拶と打ち合わせを済ませると、二階の部屋に足を運んだ。案内された部屋は、キッチンなどの水回りの向こうに寝室とリビングのある、私には充分すぎる部屋だった。

 内覧を済ませ、私たちは部屋の外に出た。大家が扉の鍵をかけていると、ひとりの青年が階段をのぼってきた。しっかりと地を踏みしめているにもかかわらず、なぜか、ゆらりとした足取りで、地の底から這い上がってくるような印象を覚えた。

 それは、私と同じほどの年齢の青年だった。長身で、細身の、白にちかい半端な長さの金髪を無造作に束ねた、シャツとジーンズというラフな服装とはちぐはぐな印象の革鞄を手にした青年だった。青とも緑ともつかない彩りの目が、宙を彷徨っている。焦点を結んでいないわけではないその眼は、亡羊としているようでもあり、確信に満ちているようでもあった。

 私たちの傍らを通る際、青年は微笑を淡くたゆたわせ、優雅に会釈をしてみせた。完璧なる被造物はかくやという造形に、私は息を呑んだ。理想を模した大理石の彫像が、ほのかな熱と、ささやかな息遣いをもって、筋繊維を駆使し、稼動している。たとえばベルニーニの彫像が、月桂樹に変じゆくダフネに追い縋るアポロンが、私の目にその瞬間を灼きつけたとしたら、その残像は青年のそれと違和感なく雑じりあうに違いない。その肌には蝋のやわらかさと大理石の透明が、繊細さとすべらかさが、生々しく、白々しく、冷ややかに、あでやかに、宿っていた。

 隣の部屋の扉の前で、青年は立ちどまった。そして、鞄から鍵を取り出し、扉をあけ、その中に姿を消す。

 私の眼を追ってか、大家が声をかけてくれた。

「この部屋の隣に住んでるあの人は詩人でね。有名だから、あなたも名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかな」

 そうして告げられた名は、さして文芸に興味のない私ですら、聞き覚えがあるものだった。それほどまでに有名な詩人であったから、もっと齢を重ねているものと思っていたが、蓋をあけてみれば、同年代であるようだ。胸をよぎった感情は、羨望か嫉妬か、判然としないものだった。まったくの違う領域で名を馳せているにもかかわらず、そのようなものを抱くとは。尊敬でもすればいいものを。我ながら呆れてしまう。

 だが。

「やつれてましたね」

 それは、率直な感想だった。風貌そのものについてではない。青年から抱いた印象そのものについての感想だ。

 不動産屋が、意外そのもの、といった顔をする。その傍らで、大家が目を眇めた。

 わずかな沈黙の後に、大家は唇を持ち上げる。

「彼は、妖精に魅入られているのかもしれないね」


+ + + + +


 この街は鮮やかさを欠いていた。

 僕は、この街を、けなしているわけではない。海に近く、潤いにくすんだ、透きとおった色にまどろむこの街は、僕が生まれ育った街に似ている。海を隔てたところにある故郷とこの街はよく似ているから、街を歩いていると、初めて出会った景色であっても、郷愁めいたものを抱いてしまう。

 ただ、故郷と同じように、この街には鮮烈さが足りない。

 道を歩いていると、時折、ほのかな生臭さに漠然と胸がざわつく。近く嵐がくるだろうという不安が、本能として、首をもたげる。常にというほどでもなく漫然と、風は海の欠片を運び、それを嗅ぐ度に、幻聴たる潮騒が湧いた。海の欠片が掻き立てるぐらつくような不安定さを僕は愛していたし、目にすることはなくとも恩恵を受け、潜ることはなくとも共に斃れる。共生であり寄生でもある、おぞましくうつくしい妄執が、この街と海の間にはあった。

 階段をのぼっていくと、矮躯の老人と小太りな中年男性と、同世代であろう、ひっそりとした佇まいの青年と擦れ違った。老人が大家であることはすぐに判った。中年男性が不動産屋であることも、階段をのぼっていく間に思い出した。もうひとりは見覚えがない。隣の部屋の新しい住人だろうか。

 疑問を抱いたまま――詮索するようなことでもなかったので――僕は三人に会釈をし、無難に傍らを通り過ぎた。

 自宅の鍵をあけ、扉の中に入る。キッチンを通り抜け、ソファとテーブルの区画以外は積み重なった書物でいっぱいなリビングの床を踏む。ソファの横となり、今の僕の正面にある窓は閉まっていたが、寝室の窓は開いている。蜜のように優しい、棘を孕んだ風が、頬を撫でた。

 鞄をソファに投げ捨て、僕は寝室へと足を向けた。

 街も、部屋も、翳っている。街路樹も、人も、翳っている。空も、海も、灰色だ。 

「ただいま」

 半開きだった寝室のドアを、そっと、押し開ける。

「ごめん、遅くなった。打ち合わせが長引いてね」

 ふわり、と、薄い影を重ねるレースのカーテンが、潮風を孕んでひるがえった。

「そう怒らないでくれよ、これでも急いだんだ」

 寝室に溢れる薄闇は、ひどく優しい。

 一歩、ベッドに近づく。そこには彼女がいる。

 ベッドに近づく僕を見上げながら、彼女は不機嫌そうに頬を膨らませた。シーツの皺に埋もれるように横たわる彼女の爪先が、僕の太腿を蹴る。僕は苦笑した。

「何を拗ねているんだい?」

 靴を脱ぎながら、彼女を窺う。彼女は膝を抱き寄せ、ちいさく丸まった。花の香が鼻腔をくすぐる。乳と蜜をかためたかのような白い肌が、薄闇に浮く。やわらかく、かぐわしく、弾けるような肉が、可憐な女のかたちをもって、僕を見つめていた。きっと、彼女の肉は、あまいのだろう。鮮やかさの欠けた景色の中で、唯一、淡くひかるのだから。  

 問いかけるような目が、僕を映している。

「決まってるじゃないか」

 この灰色の街において、彼女だけが生彩を撒いている。

 僕がベッドにとびこむと、丸まったままの彼女はボールのように弾んだ。スプリングの軋みが聞こえなくなる頃には、僕の耳もとで、彼女はくすくすと笑っている。しなやかな背中を抱き寄せると、彼女の手が、僕の頬を挟んだ。砂糖菓子をねだるような目で、彼女は僕を見つめてくる。だから、僕は、彼女の欲しがるお菓子をあげた。

「僕は、君を、愛しているよ」

 彼女の唇はやわらかく、心地よい倦怠はまどろみの底へと僕をひきずりおろす。


* * *


 ぼやけた視界の中で、エニシダの錘が回る。ふわりとした塊から指先が繊維を導き、糸を縒り、回転する軸が、それを細く縒り、糸として紡がれたものを巻き取っていく。

 目に見えるものは次第に輪郭を鋭くし、それにつれて僕の意識もクリアになっていった。それは、うたたねの底からひきあげられるかのような、泥を掻き分けて大気を求めたかのような、思考における倦怠感を伴うものだった。

 あらためて手許に眼を移すと、糸を紡ぐ指が見えた。荒れていて、皮が厚く、細い。僕の指も似たようなものではあるが、これは、どこからどう見ても女の指だ。

 僕は困惑する。指先は糸を紡ぎ続ける。

 足もとを見おろすと、褪せた色の服を纏うまるみを帯びた肉が――なだらかに膨らんだ胸と、椅子に座る脚を覆うスカートが――ささくれた板張りの床に影を落としていた。これは、どこからどう見ても女の身体だ。

 僕は混乱する。指先は平然と糸を紡ぎ続ける。僕は息を整えようとしたが、そもそも、女は息を乱してなどいなかった。

 感覚と思考の、精神と肉体の齟齬に、脳が掻き毟られたようなぐらつきを覚える。混乱が高じて興奮を連れてきたのか、困惑が高じて苛立ちを導いたのか、それすら判然としない。ただ、吐き気とは違う、それでも、悪心としか言いようのない、きもちのわるさが僕を襲う。ためしに眉間に皺を寄せようとしたが、女の身体が僕の仕草をなぞることはなかった。

 音は聞こえる、匂いはない。糸を紡ぐ指先の、毛糸をつまんでいる感触もない。

 僕の意思をもって女の身体を動かすことはできないが、その代わり、女の見ているものをそのまま、僕は目にしていた。

縺れた褐色の髪が、女の肩口から零れ落ちる。

 ここでも景色は鈍色だ。

 最も大きな家具であるテーブル全体を照らすのに手燭の炎で事足りる小さな家も、すべらかな木目の椅子などひとつもない粗末な小屋も、四隅に夜を残した屋根に葺かれた萱の裏も、すべてが翳っていた。

 板戸が開く。女の眼が、指先から離れる。板戸から男が家に入ってくると、女は微笑んだようだった。

「おかえりなさい。漁はどうだった?」

 女の無邪気な問いに、男はちいさな箱をテーブルに置いた。それは、紅い宝石が嵌めこまれた、藻に埋もれていてすら精緻な彫りをうかがわせる、輝きを帯びた小箱だった。

 女が出迎えたのは、ひどく、無愛想な男だった。大柄で、筋骨逞しく、陽に焼けた肌をした、荒々しさを寡黙さで包んだ男だった。それが男の常であるのだろう。何事もなかったかのように、女は首を傾げる。

「これは?」

「網にかかった」

 男を見上げ、女は目をしばたたく。男は女に背を向けた。そのまま、奥の部屋へと歩いていく。寝室だろうか。

「最近、不漁続きだったからな。持って行くところに持っていけば、いくらかの金になるはずだ」

 歩を進める男の背に、女は声を投げた。

「この前、司祭さまにわるいものを追い払ってもらったでしょう。だから、あの時の御礼として、教会におさめたらどうかしら」

 男の歩が停まった。男は息を詰めたようだった。それとも、女の純真すぎる提案に、呆れているのか。

「わたしなら大丈夫よ。あなたがいれば、しあわせだもの。あなたの妻であれることが、わたし、とても嬉しいの」

 無垢でしかない微笑みが、可憐に、きらきらしく、女を彩った。

 男が寝室に姿を消すと、女はふたたび糸を紡ぎ始めた。

 女がしばらく錘を回していると、女のものでも男のものでもない、声がした。

「ねぇ」

 少年のような、やや高い、純朴な声だ。

「ここから出してよ」

 女の手が停まった。その指先から垂れた錘は、回転の残滓に踊っている。

「蓋をあけてくれるだけでいいんだ。簡単なことだろう?」

 女の眼が、一点に定まる。声は、小箱の中から聞こえてきていた。

「ぼくのことが好きだといってくれたじゃないか」

 懇願を、哀願を、愚直なまでの素直さをもって、声は言い募る。小刻みに、女の歯の根が鳴った。

 なんてきらびやかな小箱なのか。灰色の世界において、唯一、鮮やかに輝いている。それが、こんなにちいさな箱であるとは。

 私の感嘆をよそに、女は髪を振り乱し、両手で耳を塞いだ。

 明らかに取り乱している。女が撒き散らしているのは、怖れと、罪悪感と、後悔、だろうか。この声の持ち主を、女は知っているのか?

「わたし、は」

「何がいけないんだい? 応えてくれたじゃないか。ぼくのことを、好きだと、いってくれたじゃないか」

「そんなはずないわ、そんなはずないの」

「だって、あの子は。あの子は、司祭さまが遠くへ追い払ってしまったはずじゃない!」

 女の手から錘が滑り落ち、床を転がる。転がっていた錘は、女の傍に歩み寄っていた男の足に当たり、停まった。

「どうした?」

 その佇まいから察することは困難だったが、気遣いが、男の声には滲んでいた。

「なんでもないわ」

 両腕で己を抱きすくめ、無理に息を整えながら、女は床を見つめる。

「なんでもないの」

 緩慢に面を上げた女は、己を見つめている夫に、ぎこちなく笑ってみせた。

次の日も、女は糸を紡いでいた。

 小箱は麻袋に入れられ、何重にも縄で縛られ、家の隅に置かれていたが、突然に騒ぎ出したりすることはなかった。

 女は糸を紡ぐ。細く細く糸を縒り、間断なく錘は回る。

 同じ動作を繰り返すうちに、やがて、女は夢に溺れてゆく。


* * *


 わたしは手をつないでいた。

 誰かと手をつないで、暗く、足場の悪い道を、走っているようだった。

 何かから逃げているのか、何かに追われているのか。それは判らなかった。ただ、わたしが手をひいている誰かの、怯えと焦躁だけは伝わってきたから、その感情だけは確かなことなのだろう。

 ここは森だろうか。樫やエニシダが、月光ですら貫けないほどに、生い茂っている。夜であることだけは確かな森だ。

 どうして、わたしはこんなところにいるのだろう。どうして、わたしは誰かのひいて走っているのだろう。そもそも、わたしは漁師の夫の帰りを待ちながら、家で糸を紡いでいたはずではなかったか。

 絡み合う枝葉の下を走るわたしたちの姿を、樹木の切れ目から射しこんだ月光が、一瞬だけ浮き彫りにする。

 わたしが手をひいているのは、十五をこえた程の、長い赤の髪をひとつに束ね、大きな目をした、愛らしい少女だった。そして、ちらりとだけ月光に濡らされたわたしの手は、すべらかな肌で、骨ばった、指の長い手だった。

 これは、男のひとの手だ。

 わたしは愕然とする。

 目線を落とそうとして、それができないことに気がついた。そういえば、これだけ森が深いのに、草の匂いも、土の匂いもしない。握っているはずの少女の手はやわらかいのであろうに、感触など微塵もなかった。

 そして、もうひとつ、気がついた。

 こんなにも走り続けているというのに、息苦しくも、脇腹が痛くも、ない。わたしの目であるところの肉体が、息を弾ませているにもかかわらず、だ。

 これはどういうことなのか。

「休憩しよう」

 それは、青年の声だった。肩で息をしながら、気遣わしげに、少女を抱きよせる。少女の目に映っていたのは、細身の、修道士だった。喘ぐように息を吸い、少女を抱いたまま、青年は苔むした岩に背をあずけた。

「ここまでくれば、だいじょうぶ?」

「いや、まだ、修道院の敷地内だ」

「じゃあ、はやく、もっと、遠くに」

「そうだな。もっと、もっと、ずっと、遠くへ」

 少女の指先が、青年の背凭れとなっている岩に伸びた。

「これ、石像だわ」

 青年の唇が歪む。

「異教の英雄の像、だよ。我々にとっては石屑同然のものだ」

「でも、あなたは、これを石屑と見なすものを棄てて、わたしと一緒にいようとしてくれているのでしょう?」

 大きな目が、青年のそれをのぞきこむ。青年は眼を逸らし、視界の隅にちらついた灯へとそれを転じた。森の上、夜空の下に聳え立つその建造物は、教会か、修道院であるようだった。

 それらの領域の常として、創造主の威光に裏づけられているがゆえに、昼も夜も灯が絶えることはなかったが、踊るようにゆらめく灯は、どこか、翳っているかのように見えた。

「後悔、してる?」

 舌先でとろけるような声が、青年の耳朶を打った。

「苦しみこそが、すべてから、わたしたちを救ってくれるのよ。そう教えてくれたのは、あなたじゃない」

 強張った腕に絡まったまま、聖女のように高潔で、淡くひかるような微笑を、少女の唇はかたちづくった。

「あなたは、誰かのための苦しみを、悦びと涙することができるのではなかったの? あなたは、誰かに見放されてしまうことを、赦すことができるのではなかったの? それとも、報われることを望んでいるの? 認められることを望んでいるの? 忘れられることが我慢ならないの? 同情してほしいの? 理解してほしいの? 好意がほしいの? 愛してほしいの? 誰でもいいから、心を寄せて欲しいの?」

 くすり、と、少女はわらった。

「滑稽だわ」

 石の腕が、青年の背中から伸びた。軌跡の残滓に燐光を撒きながら、赤の髪がたなびく。青年は瞠目し、一歩だけ離れたところに立つ少女に腕を伸ばした。微笑む少女の胸の先を、青年の指先がかする。

 青年が石屑と呼んだ像は、その腕をもって修道士を絡め取り、その石の胸に異教徒を埋めていく。

「これからだけを、信じていればよかったのに」

 微笑む少女の目の前で、動き出した像の重みに地が軋み、陥没と崩落の土砂に、石像は夜空を仰ぎながら沈んでゆく。


* * *


 潮の香が意識をくすぐった。

 瞼をこじあけると、目の前に彼女の顔があった。ひかりそのものであるかのような目が、じっと、僕を見つめている。

 ここは僕の部屋で、僕のベッドで、灰色の街で、彼女は世界の彩りだ。

「夢を見ていたよ。漁師の妻になったり、修道士になったりしたんだ。どうしてそんな夢を見たんだろうね」

 薔薇の蕾めいた唇が、かすかに動いた。意識のほとんどを眠りの世界に置き去りにしたままであることは自覚していたけれど、それでも、微笑みをうかべてしまう。

「うん、そうだね。これでまた、ひとつ、詩がうみだせそうだ」

 気怠さに負けて、瞼を落とす。

「もうちょっとだけ、眠ることにするよ」

 スプリングが軋んだ。やわらかくあまやかな唇の感触が、首筋にひろがる。

 そうして僕は、再び、夢の海へと沈んでいった。


+ + + + +


 引越しの数日前、新聞を広げていた私は、そこにあった記事に目をしばたたいた。

 引越しの前日、書類確認等を済ませ、これから住む部屋の鍵を受け取った私に、不動産屋は渋い顔をした。

「どうやら、相当、衰弱していたらしいですよ。お客さんと物件を見に行ってから、ひと月と経っていないのに……」

 引越しの日、様子を見に来てくれた大家に、つい、訊いてしまった。

「あの、お隣の詩人さんは?」

 すると、大家は隣の部屋の扉を見つめ、やるせなさそうにかぶりを振ってみせた。

「あの青年はね、きっと、妖精に連れてかれてしまったのさ」

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詩人のはなし 南風野さきは @sakihahaeno

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