渦の中の女

斉賀 朗数

渦の中の女

 水族館で視線がねっとり絡み合う。当たり前のことだと分かっていたのに、隆一さんにはちゃんと奥さんと子どもがいるんだと改めて理解した。

 奥さんは私よりも年上のはず。それなのに、遠目で見ただけでも私なんかより綺麗で如才ない様子が窺えた。如才ないというよりは、隙のないという言葉の方が収まりがいいかもしれない。子どもの方は、背筋を伸ばし両隣を両親に支えられ、怖いものなんて世の中にはないと思っているように、前に注意を一度も払わずに左右をきょろきょろと見回しながら歩いている。それにプチプラではない、しっかりとした高級感のある服を着ている。

 妙なひりつきを覚えた。

 慎治に「お手洗い行ってくるね」といって、個室に駆け込みすぐにスマホを取り出す。

『こんなところで会うなんてね。ちょっと焦っちゃった』

 メッセージアプリに即座に浮かんだ既読の文字。

『本当に。僕、焦って変な顔になってなかったかな?』

 お互い愛する家族がいるのになにやってんだろう。なんて思わない。洋式トイレの便座の蓋が少し軋む。メッセージを見て自然にふふっと笑った小さな振動が伝わったからだと思う。もうひりつきは消えていた。視界から、隆一さんの奥さんと子どもが消えたのと同じように。

 便座の蓋に座ったまま、どの程度の時間ここにいようか迷った。あと数回だけでいいからメッセージのやりとりをしたい。そんな欲は切り離して捨ててしまわないと、家庭の地盤にシロアリがたかるのに。でも便座の蓋は閉まっていて、欲を捨てて流せるところはここにはない。

『いつもと同じで、かっこいい顔だったよ。大好き』

 また即座に既読の文字。

『雪ちゃんもかわいかった。早く会いたい。大好き』

 お尻の下で便座の蓋がきしきし軋む。さっきより大きい音で。

『次は、二十日?』

 もう返事は来ないかと思ったけど、既読も返事もあっという間だ。

『うん、そうだよ』

 私はしつこいかなと思いながらも、また大好きとメッセージを送る。なんとなく便座の蓋を開けてトイレの水を流すことで、いったん隆一さんのことを頭から流す。トイレの鍵を開けて外に出る一瞬、目の奥にさっき見たスマホの画面が逆流してきた。それがサブリミナル効果みたいに、トイレの前で待つ慎治の顔に隆一さんの顔を映し出す。

「どうした?」

「ママ?」

「うん。大丈夫。なんか水族館寒いから、ちょっと冷えちゃったみたい」

「おなか、いたい?」

 心配そうに見上げる凉子を見る。もう胸は、痛まなくなった。

「ちょっとだけね」

 嘘と欲で塗り固められた私は、女子高生の頃みたいに胸を高鳴らせたまま凉子と手を繋ぐ。流したはずだったのに。隆一さんに会ってしまって、私はいつものママでもいつもの雪でもない、いわゆる女になってしまっている。早く隆一さんに会いたい。

「ちゃんと、手、洗った?」

 慎治の冗談はユーモアの欠片もない。私は作った笑顔でその言葉を流す。前までなら、こういう時に心に小さなささくれが出来ていた。前までは、心の小さなささくれは増えていく一方だった。離婚の原因になるほどではないけれど、小さな不満や小さな喧嘩の原因になっていた程度のささくれ。こんなもの放っておけばすぐに治ることは知っている。それでもささくれがある時はなんだか不快で、出来れば早く解消したくて、ついつい取ろうとしてしまう。そして上手に取れなくて傷が出来ていた。

 そんな時、たいした傷でもないのに優しく治療してくれるのが隆一さんだった。隆一さんと会うとささくれ立った心は、すぐに治る。慎治によってささくれだらけになった心を、いつか傷だらけにしてしまうのではないかと恐れていた私。あの頃の私は、もういない。今は慎治の話に不満があったり不快なところがあっても、受け流すことが出来る。ささくれがないから不満や不快が引っかからない。そうすれば傷も出来ない。不倫は良くないことだと分かっている。でも不倫のお陰で精神や肉体に良い傾向が表れているのを知っているから、もう抜け出すことなんてできるはずがない。慎治と涼子と幸せな家庭を続けるために、隆一さんとの幸せな関係が必要で。隆一さんという存在が必要で。

「ちょっと喉も渇いたし、座って休もう。涼子も喉乾いただろ?」

「うん。りんごジュースのみたい」

「それじゃあ自販機まで競争するぞ」

 慎治は走り出した。

「ずるいずるい」

 涼子は私の手を引っ張って、慎治のあとを追う。慎治が私の体を心配してくれて、休もうといってくれてるのは分かっている。さっきペットボトルのお茶をがぶ飲みしていたから、そんなに喉が渇いているはずがない。なんだかんだ優しい人なんだ。これもささくれがあったら、気付くだけの余裕がなかったこと。涼子はキラキラと笑っていて、慎治も涼子を振り返って笑顔。幸せな家族のワンシーンを、世界中へ否応なしに見せびらかしている。それは間違いじゃない。確かに幸せを感じる。ささくれがないと、これほどまでに幸せを享受出来るのかと本当に驚く。でもささくれがなくなったことで、新たな不安が一つだけ生まれていた。

 今の私自身の姿が、本来の私なのかどうかという不安。いや、少しニュアンスが違うのかもしれない。隆一さんに全てを差し出して、全てを受け入れられて、全身で隆一さんを感じて、隆一さんに女を認められる私。慎治と涼子にご飯を作って二人の舌を満足させて喜び、二人の一日の出来事を聞いて相槌を打ちながら慎治の妻として、涼子のママとして認められる私。どちらの私も私なのに、交わることがない。平行線。女の私。妻でありママの私。いつの頃からか、突然それぞれの私が同時に存在し始めて、全てを壊してしまう瞬間を思い浮かべてしまう不安。でもこれは隆一さんとの関係が崩れることや、慎治との夫婦関係、涼子との親子関係が崩れることに対する危惧ではない。

 私が女であること。

 私が妻であること。

 私がママであること。

 それらが交わった時に、どれかの私自身の姿を蔑ろにしてしまうことに対する危惧。それが実際に起こってしまうと、私自身のどれかを本来の私自身とは違うものとして排他してしまうかもしれない。その時に女として、妻として、ママとして、上手に笑えるのだろうか。嘘と欲で塗り固められた私。

 今、私は上手に笑えていますか?

 尋ねる相手はどこにもいないし、尋ねたところで、それは私にしか分からないのではないだろうか。

 さっきお尻に感じていた便座の蓋が軋む感覚。涼子が飲むりんごジュース。慎治の足下に落ちたポップコーン。私の鞄の中で震えるスマホ。隆一さんの体に圧迫される私の骨盤。全部がぐるぐると、さっきトイレで流した水みたいに渦を巻いて深みに落ち込んでいく。

 でもさっきトイレで流した水が渦を巻いて深みに落ち込んでいったのかどうかを、私は経験からそうだと決めつけているだけで、実際には知らない。


 ぐずる凉子に菓子パンをなんとか食べてもらい牛乳を差し出す。眠たそうに目を擦りながら牛乳を飲む凉子。口の周りについた牛乳を気にせずパジャマを脱ぐ凉子。服に腕を通すときにちょっとだけ引っかかって手こずる凉子。かわいい。だけどそれを、いつまでも見ていられる無限の時間は与えられていない。曲げわっぱに、ご飯を詰める。おかずとの境目になる方を少しだけ斜めにして、葉ものを仕切り替わりにする。形の崩れない大きなおかずを入れる。焼き鮭、なるべく水気を切った肉じゃが。小さなおかず。出汁巻、プチトマト。隙間に紫キャベツの和風マリネ、ロメインレタスと数種類の豆を炒めた名前もないもの。ご飯には梅干しを置いて白ごまを振る。これだけ。でもこれだけっていうのが何日も続くと、これだけではなくなっていく。ありがとうといって欲しいわけじゃない。そんな言葉のためにご飯は炊かないし、水気を切ったり、ヘタを取ったり、わざわざお弁当全体の色のバランスを考えたりしない。ただこれだけに対する価値が暴落してしまうことに、嘆かわしさを感じることがあった。家事の価値は変動が著しい。

 涼子や慎治より早く起きて、洗濯機を回す。朝ごはんを作る。二人が起きてくるのを待つか起こしに行く。ご飯を食べている姿をじっと見ている余裕なんて無くて、ゴミを捨てに行く。二人はまだ朝ごはんを食べている。朝ごはんを作る時に曲げわっぱによそっていたご飯は、炊飯器の中にあった時と違っていい具合に冷めてきている。おかずを詰める。慎治がどこかに旅行に行った時に、どこかで買った手拭いで、曲げわっぱを包む。慎治は忘れ物が多いので、ハンカチやパスケースを持ったかどうかを念のために聞く。この時間のテレビ番組でやっているニュースなんて、仕事終わりにスマホで見れるニュースと大差ないのに、慎治はギリギリまでチェックしてから出勤する。それを玄関先まで見送る。涼子の機嫌がいいと自分で服を着替えて、保育園に向かう準備を始める。でも前日の夜に寝るのが遅かったりすると、ぐずってだらだらとしているので私が着替えを手伝う。子ども向けの番組を見ていてもらう間に、さっと洗濯物を干す。雨の日は洗濯を諦めるか、室内干し。私はどうにかそれらを一通り完了させてから、化粧をする。化粧といってもほとんどファンデーションも塗っていないようなものだし、眉毛だって左右で長さや太さが違うかもしれない。それでも気にしない。いつからか、チークやアイライナーなんて全く使わなくなった。ただ化粧水だけは、いつでもたっぷりと丹念に、乾いた肌へ染み込ませる。そうして仕事で必要なものを入れたカバンを持って、涼子と家を出る。

 ルーティン。いつもの朝。

 慎治はいつもの朝に、私がこなす作業に価値が存在していることを知らないのだと思う。体調が悪くてお弁当が作れなければ、「外に買いに行くの面倒なんだけどな」というだろう。ゴミを出してといってもシンクのネットを替えたり、念のため冷蔵庫の中に消費期限切れのものがないかを確認したりすることもしないだろう。そのくせどちらも、俺が我慢して動けばいいんだろ。といった態度を滲ませる。どこの家庭もそんなものだというのは、ママ友の会話を聞いて知っている。それなのに稀に率先して、今日はいいよ。なんていってきて、褒めて褒めてと表情で訴えかけながら私を見てくる時がある。

 その瞬間、慎治の中で家事に対する価値は突然高騰する。大変な作業をしないでいいんだぞ。といってやった夫という自分に酔う。それは決して私を労ったりした訳ではなくて、自分の価値を高める手段でしかない。適当にありがとうなんていうと、満足そうな顔をする。でも慎治は分かっていない。その分のツケは結局、私に回ってくるのに。ランチに出た慎治がレシートを貰ってきて私に請求してくる金額は、お弁当が一食三百円だったとして一週間分は軽く作れるほどで、その分他の生活費を削るはめになるし、シンクからは不快な臭いがしたままで私がごみを捨てるまでそれは続く。

 でもこれが嫌なわけではない。こんなの私がカバーすればなんとかなる。慎治だって、私の優柔不断に何度だって付き合ってくれている。少しは不満そうに、「早く決めてくれよ」といったりすることはある。でも苛々して私や、涼子に当たったりはしない。どちらかというと気は長いほうなんだろう。ユーモアのない冗談や、本人がいったことにすら気づいていない嫌味をいうことはあるが、それだっていちいち突っかかるほどじゃない。

 今だって慎治のことが好きだ。

 なんてことないはずなのに、これだけの生活の中で少しずつ、これだけがこれだけでなくなっていく。気付かぬ内に、家庭もこれだけのものという風に感じていたのかもしれない。これだけと思ったものの価値は変動が著しい。暴落する時もあれば高騰する時もある。

 家族でいる時?

 涼子と二人の時?

 慎治と二人の時?

 隆一さんと二人の時?

 どの時が家庭の価値が暴落している瞬間で、どの時が高騰している瞬間なのか。私の中には明確な答えが存在してしまっている。だけど、それを思い浮かべるのも、ましてやそれを言葉に出してしまうのも避けなければいけない。私にはどちらも大事で大切で愛おしいから。

 いや、本当にそうなのだろうか。

「ママ?」

 浮かない表情で私を見つめる涼子。色々と考えていたせいで、別れ際のハグを忘れていた。

「ごめんごめん」

 両手を広げると、涼子が胸に飛び込んでくる。

 子ども特有の体温の高さ。その温かさを感じながら、お尻のポケットに入れた携帯電話のバイブに、女としての体の火照りを覚えた。きっと隆一さんからの連絡だ。

「行ってらっしゃい」

 そういったのが私だったのか、それとも涼子だったのか分からなくなる。涼子が私の体から離れていった時にママとしての私というものも私から乖離していってしまって、今ここにいるのは女としての私だけだから。

 このあと、いつものラブホテルで隆一さんと会う。明確な一つの目標に向かって、突き進むだけの私。そこにはなにも介在することはない。私自身であってもそれは同じで、ママとしての私であったり妻としての私であったりは至るところに投げ捨てていかなければならない。そうじゃなければ私の中で一番の特等席に女としての私が陣取ることはできないのだから。

 保育園から離れれば離れるほど、濃密な女の匂いが体の周囲五センチ付近で付きまとう。それが女としての私の、他の私の存在を隠蔽するために必要な作業だということに気付いたのは隆一さんと三回目に会った時だった。セックスが終わった後に、ベッドの脇に散らばったままになっていたスラックスを畳んでいたら「お母さんみたいだ」と隆一さんがこぼしたのを聞いて、家事をする時の所作のようなものが無意識に体から滲んでいたのかとショックを受けた。隆一さんの前では、いくら歳を重ねてきたとはいえ若々しい女でありたかった。あの時に欲しかった言葉は「優しいね」だったのかもしれないけれど、それは欲張りすぎだと自分でもわかっている。とはいっても、せめて「ありがとう」といってほしかった。自分のために衣類を畳む、そんな健気な彼女として隆一さんに認識されたかった。まだ夫や子どもに従属していない、人生を選択する余地のある、少し自分に酔っている初心な女として認識されたかった。そんな思いの強さが、体の周囲五センチに濃密な女の匂いを呼び起こす引き金になったのだった。

 車に乗り込むとより女の匂いが際立つ気がした。密室というには頼りない空間ではあるけれど、この中がプライベートな空間であることには違いない。ここでなら私は、私を見つめ直すことができる。とはいっても女の匂いの充満する今では、見つめ直すのは隆一さんによく見られるためにもっとこうできたのではないかというセックスアピールについてだけ。それだけなのにいつもより気持ちは昂るし、熱く火照る体とは対照的に思考は絶対零度のように冷たく冷静かつ冷徹な判断を仰いだ。判断はいつも的確で、私の中の女の私は、ただの私という個とは確実に別の個であるのは容易に想像できた。というより性欲にたいして箍がはずれた女である私は、妻やママである私とは明らかに違う探究者でそれは私のある意味では本質なんだろう。

 車に乗り込むともう一つ、運転しながらでもメッセージアプリの通知が見えるようメーターパネルの手前にスマホを置く癖が染み付いた。新しい癖。隆一さんと知り合ってからできた癖。女の私としての癖。一つの儀式のようなもので、気持ちを昂らせるのに一役買っている。こうやって本質にどんどん近付いていく。

 研ぎ澄まされていく本質。果たしてそれの行く末になにがあるのか。たまにそんなことを考えてしまいそうになるが、思考することが全てにおいて正しいとは限らないと知っている。たまには思考をかなぐり捨て、愚直に感覚や欲望に従うことが正しかったりすると知っている。とはいっても、正しいことがイコール答えではない。そもそも人生において正解なんてものが存在するという考えをもっているような人間は、傲慢でしかないと思う。誰かにとって正解であったとして、それが他者にとって正解であるなんて考えも。正解がある人間もいるかもしれないが、正解を求めない人間もいれば正解を求めながらそれを知り得ない人間だっているはずだから。それなら自分にとっての正しいを追い求める方がよっぽど健全で、その方がよっぽどいい。これだって傲慢だって分かっている。だからといって傲慢を否定しているわけじゃない。だけど正解を求める限りは、お互いに正しくないという立場になりうる可能性だってある。それならば自分だけでも正しいと信じる方がいい。この考えが百パーセント正解ではないのは知っているけれど、私にとっては百パーセント正しいから。

 今の私の虚構でしかない正しいの結果が集約されたようなピンクに塗り潰された建物。ばかでも分かるようになのか、でかでかと看板に書かれた一番安い部屋の休憩と宿泊の値段。駐車場の方にハンドルを回して手近なところで停車する。ちょうど目の前に停まったミニバンを見て、少女の頃みたいに胸が高鳴るのが分かる。そうして思い出す。

 今からは、慎治のための私じゃなくて、凉子のための私じゃなくて、私のための私であっていいんだと。

 さっきまで感じていた胸の高鳴りは、今や疼きに変わっていて、少女であった感情は、ミニバンの中からこちらに小さく手を振る隆一さんの視線によって、一瞬の内に一回りも二回りも成長して、成熟した女の感情になっていく。私が私であるための、それに。

 シートベルトを外すことすら煩わしく感じてしまう。助手席のバッグを拾い上げる一瞬で済む動作の合間、バックミラーに映る姿で前髪をチェックする。少しくらい巻いてきたら良かったかな。なんて思ってしまったけれど、そんな時間があるなら、少しでも長く隆一さんと会える時間に回した方がましだと思う自分もいて。なにを浮き足だってるんだと思う自分は圧殺する。これは女の私ではない私の意見。そんな意見は、ピンクで塗り潰してしまえばいい。ここではそれが許されるのだから。

 車から降りると、隆一さんも同じように車を降りて手招きをする。いつもと同じスーツ姿だったけれど、先日水族館で見た私服姿を思い出して、いつか私服で会ってくれるだろうかと妄想が膨らんだ。髪型もいつもと同じ。長くもなければ短くもない。特筆するようなところがあるわけじゃない容姿なのに。

「なにい?」

 手招きをしたのは自分のくせに、小走りで近付いてきたかと思うと抱きついてきたり。

「やっと会えたから嬉しくて、我慢できなかった。あっ、おはよう雪ちゃん」

 恥ずかし気もなく、歯の浮いた言葉を口走ったり。

「私も嬉しいけどさ。おはよう」

 あざとく私を見下ろして微笑んでみたり。

「この前、水族館で会っちゃったから我慢できなくて」

 年上だけれど見栄なんて張らずに、年下みたいに甘えてくるそんな姿が愛おしかった。年上の男の人に対して、愛おしいなんて感情を抱くのは失礼だと感じていたのに。隆一さんと出会うまでは。

「どれだけ我慢できないの? でも私も、同じ」

 隆一さんを見上げると、頬に唇を押し当てられる。まだ、私からは返さない。ホテルの一室という、世間から隔絶された二人だけの空間に溶け込むまでは貞淑な女を気取りたい。見栄なんかに雁字搦めになっているのは、私なんだということを思い知ってしまう。だけど、それを優しく解きほぐしてくれると知っているから、雁字搦めのままでいていいんだと、全てを許容されているのだと感じて、より体が傾いていく。隆一さんの方へ。

 ハイヒールなんてしばらく履いていないのだから、駐車場でヒールが立てる音が響くはずがない。響くのは近くの高速道路を走り抜けていく、トラックの荒々しいエンジン音。その荒々しさすら、今は心地良い。自動ドアは音もなく開く。音はしていたのかもしれないが、トラックの音と私の期待の前では微かな存在で、オブラートより薄い膜に他ならない。しかし確かな隔絶を担っていた。隆一さんはスマートに、部屋を選ぶ。なにも見ていないようで、よく見ている。

 初めてラブホテルに入った時、隆一さんはわりと高い部屋を選んでいた。そして部屋を出る時、一人で支払いを済ませて靴を履く背中に、「いくらか、私も出す」と投げかけると驚いた顔をしてこちらを見たのだった。

「ホテル代って、男が出すのが当たり前だと思ってた」

 出してもらえると嬉しい。だけどこの時は、全てを相手に任してしまうのは買われているような気がして嫌だった。対等な関係でありたいと思える時間が、そこにはしっかりと息づいていたと知ってほしかった。いいよいいよと断るその手に、少ないとは分かっていたけど二千円を無理矢理ねじ込んだ。

「ありがとう。これでお菓子でも買おうかな」

 冗談なのか本気なのか、正直どちらでもよかった。二千円を持って笑顔を向けてくる、その屈託のなさに毒気を抜かれてしまっていたから。そして毒気を抜かれた私の目に映る男は、とても愛おしい存在となった。ささくれだった心も少しではあったけれど平静を取り戻していた。

 それからはホテルの部屋を選ぶ時、なにも気にせず選んでいるように見えるほどスムーズに、最初の頃より安い部屋を選んでくれるようになっていた。私がメッセージアプリで、二千円を受け取ってくれたことで対等な関係であると思えた。というような話をしたからなのだろうということは分かっている。でもそれを聞いて、隆一さんの中に私を慮る気持ちが本当に存在していて、それが具現化している証拠がそこにあるのだと知り、なにより嬉しくなって、本物の沼に沈んでいった。

「考え事?」

 受け取った鍵を指先でくるくると回しながら、もう一方の手でエレベーターの扉を押さえている。

「ごめんなさい。考え事ってほどでもないけど」

 エレベーターに乗り込むと、続いて隆一さんも乗り込んだ。四階のボタンが心許ない光を放つ。振り向く隆一さんは、もう鍵をくるくると回してはいなくて。少しだけ意地悪そうな顔をしている。

「旦那さんのこととか考えてたんじゃない? 妬いちゃうなあ」

「ううん。隆一さんと会った最初の頃を思い出してただけ」

「最初の頃と今と、どっちの僕が好き?」

「今の方が好き」

 家では見せない表情に染まっているな。鏡がなくても、それくらいは、分かる。隆一さんも微笑みの下から、欲望の陰が色濃く滲み出す。我慢ができないのかもしれない。私は、それを、満たしたいと願う。エレベーターの壁に背中が当たる。隆一さんの重さが体に伝わり、体の熱が伝わる。唇に熱い吐息がかかる。コーヒーの匂いと僅かに感じる、甘い、チョコレートの匂い。ちいいいんと少し間延びした音に、無意識の理性が働いて密着した体を離した。隆一さんは緑色で開と書かれたボタンを押してくれている。私はいつも神経が一番鋭敏に尖る、廊下に立った。一回りも大きな手で私の手を包んでくれて、一歩、一歩と二人で進む。隔絶された二人だけの空間に近付いていく。体の周囲五センチ付近を取り巻く女の気配は、徐々に隆一さん自身というよりは、隆一さんでなくてはいけないという観念を取り込んでいき、隆一さんという存在を形成していく。私の中に。私の中の、特に女の私の中に。隆一さんという絶対的な存在を作りあげていく。絶対に必要な存在の輪郭を強くなぞり続けて、より濃厚に。

「どうぞ」

 扉が開く。


 いつものように車を運転していて、信号のない交差点に差し掛かる。交差点の直前に停まったトラック。人が飛び出してくるかもしれないと考えているのに、足がアクセルを緩めない。それどころか踏み込んでしまう。スピードが上がる。もし誰かが飛び出してきたら。心臓の鼓動が早まる。影が横断歩道の上に伸びてくる。ブレーキを、早く。早く、ブレーキを。

「そこで目が覚めたんだけど、汗びっしょりで」

「なんか嫌な夢だね。でも今の方が、汗すごいでしょ?」

「もう、恥ずかしいからいわないでよ。シャワー先に浴びていい?」

 尋ねながらも、私はベッドからもう抜け出している。布団の中から、熱気によって再帰した使い込まれたシーツの匂いと、私と隆一さんの汗が交じり合った匂いが沸き立つ。セックスの匂い。心が安らぐ。

「一緒に浴びないの?」

 布団にくるまって、子どもみたいな口調でいう。

「だめ、恥ずかしいから」

 布団の中から聞こえる、けちだなあ。なんて声を聞いて忍び笑いをしながら、浴室に向かった。

 ベッドから抜け出しても部屋は暖かかった。けれど部屋を出ると、温度は階段の段差を一段降りたようにがくっと下がる。でも寒いというほどではない。浴室のノブに手をかけると、背筋が粟立った。開いた扉の先に、もう一段寒さの階段があったから。

 いつも思う。ラブホテルは、やけに寒々しい。室温もそうだけれど雰囲気もそうだ。シャワーを出しても、温かくなった湯が出るまでに時間がかかる。それが現実に返らせる手伝いをしているのではないかと勘繰ってしまう。私たちの幸せな時間を奪おうとしているのではないか。そう思わずにはいられない。

 やっと湯が温かくなってきて湯気が少しずつ浴室内を支配していく。急に視力が落ちたような、そんな錯覚を抱いた。湯気のせいじゃない。しゃがんでいて勢いよく立ち上がったから、軽い立ち眩みが起きたのだった。ふわふわする。ベッドの中にいた時のふわふわとした感覚とは違う浮遊感。足下が覚束なくなっていく。それと同時に浮遊感が急に重力へと変わった。重心が頭の方へと駆け抜けていく。倒れる。そう思ったのに、私は立っていた。過剰に感じた重力は遙か彼方へと飛んでいってしまったのか、それとも元から存在しなかったみたいに跡形もない。

 さっきまっであったものが、なくなるということに恐怖を覚えた。平凡な日常に、なにかが起こるのではないかと錯覚するからなのかもしれない。シャワーから勢いよく流れ続ける湯の温かさがなければ、ラブホテルの浴室にいるのだって真実だと思えないかもしれない。私の中にある本物だったり本当という感覚は、不倫によって少しずつ希薄になっている気がする。それは間違いなく私自身の存在の希薄さに繋がっている。また、今の私自身の姿が本来の私なのかという不安が舞い戻ってきた。私という物質ではなくて、私という精神。私という概念。私を構成するなにか。それらが正しい場所に収まっていないのを明確に感じてしまう。それなのにこの状態をどうにかしなければなんて、全く思えない。隆一さんの存在が大きくなりすぎてしまったから。ささくれを取り除いてくれる隆一さんがいなければ、私は。

 シャワーが床を叩く音が耳障りで、床に目を向けると薄く赤い筋が見える。いつもより早く、来た。来る予感はあった。五日くらい前から腰周りに独特の痛みがあった。それでも思っていたより早かったのは、ホルモンのバランス変化によるものなんだと思う。それがやけに嬉しい。まだしっかり女なんだと思えて。惰性で、周期だけで、それが訪れても私には女の実感が湧かなかった。ただ体が重くて気分が沈んで、いつもよりも神経が過敏になって、家にいるのが辛くなるだけ。自分が嫌になり、家族とのささくれが増えるのはいつもその時で。だからその時には隆一さんと会うことが多い。事前に二人でやり取りをして決めた映画のDVDを借りて見るだけだけれど、それだけの時間がそれだけ以上の価値になる。次は何を見よう。それを考えるだけでも楽しく、いくらでも心が浮き立つ。慎治の好きなエンターテインメント性を重視したような作品ではない、レオス・カラックスやラース・フォン・トリアー、アンドレイ・タルコフスキーのような監督の作品が私は好きだけれど、隆一さんはそういった映画も偏見なく一緒に見てくれる。好みの問題だから比較するのも変かもしれない。それでも見る前からなんか小難しそうだなあ、なんて決め付けてしまう慎治の狭量さに長年目を瞑っていた無意識の自我のようなものが無自覚の内に二人の男を秤に載せてしまう。それは止めることができるのに私は止めない。

 恐れながらも望んでいたから。敬虔な信者のように慎治に付き従う姿を演じている私を批判する私の存在を。

 ささくれの原因が本当は慎治ではないと知っていた。それは私の中にあって、我慢というもので自分を押し殺しているのが原因だと知っていた。でもそれを解決するためには、慎治という人が作り上げた私の理想の姿を崩しさってしまう必要があった。それが怖かった。その時に変わらず慎治が私を愛し続けてくれるのかどうかと信じ切ることができるほど私は強くなかった。築き上げたものを崩し去るのはあっという間だと人はいうが、そんなわけがない。そんなことをいう人種は崩し去ったあとに築き上げたものの瓦礫に圧迫されて命が途絶えてしまうような人種が世の中に存在することを知らない。他人の中に築き上げられる、微かな自分の存在を感知することでしか生きていけない人種がいることを知らない。更にその人種の中でも、その微かな自分の存在を無理に作り上げた結果、自分との差異に違和感を覚え取り憑かれたように不安に苛まれる人種がいることを知らない。

 依存という言葉で一括りにしてしまうのは簡単で都合がいい。でもこれは依存とは別のもので。他人の中に微かでも自分の存在を植え付けるのは生存。そう、それこそが生存なのだ。私の存在は他人の中にしかない。私の中にある私は私の抜け殻でしかない。私の本質は他人によって形作られ、意味をなしていく。だから私は女である自分、妻である自分、ママである自分にこだわり続けている。私の抜け殻はその中から自分という魂を見出そうと必死なのだ。

 だからというわけではないけれど、私はある種盲目でそして欠落している。

 ラブホテルの浴室にある排水溝は穴の空いた鉄板のようなもので蓋をされていて、家にある浴室の排水溝のように水は渦を巻いて流れていかない。ただ穴から水が落ちていくのをじっと眺め続けた。目を逸らさずシャワーを止めてしばらくすると排水溝の穴に流れていく水はなくなった。それを合図にしたように浴室のドアにかけたバスタオルを取り体も拭かずに浴室から出ると、クーラーの冷気が体にまとわりつき温まった体が一瞬で冷えた。


 バックミラーに映るミニバン。それを名残惜しく見つめながらいつもより少し緩慢な左折をすると、ミニバンピンクに塗り潰された建物信号機が順々に形を小さくして消えていく。それが現実に戻る合図だったように私の周囲五センチに付きまとう女の匂いは拡散していって女としての私は鳴りを潜めていく。

 これでまた妻としてママとして頑張れる。

 だけど本当に頑張れているのだろうか。女としての私。そこに時間を割いている以上、私の抜け殻は妻としてママとして活動することが出来ない。本来であればその抜け殻でいつもより手の込んだ料理を作ったり普段滅多に手をつけない場所の掃除や凉子のためにお菓子を作ってあげることも出来るのではないだろうか。

 けれど女である私が構成されることで、隆一さんとの情事によって心のささくれを治癒してくれることで、妻としてママとしての私が円滑に動くことが出来るのだから必要なことであるのは間違いない。

 いやそうじゃない。

 知っている。

 知っていないはずがない。

 私は私の選択を正しいと信じなければならないところまで流されてしまった。今はまだ渦の途中、落ち込んでいく流れの途中にいるだけ。いつ落ち込んでてしまうのかは流されている当人にもわからない。ただ必ず落ち込んでいく瞬間がやってくるという事実だけは知らされている。誰に。自分自身によって。そして落ち込んでいく瞬間は唐突にやってくるはずなのだ。それも、さっき見たラブホテルの浴室の排水溝の中の暗闇の先のように普通は誰も目を向けないような先に。正しいと信じた先にあるのは光でないと知っていながらも、自分を、私を盲信しなければいけない。足掻きながらでもいいから。盲信しなければいけない。そうじゃないと私は私でいられない。

 信号のない横断歩道の手前に止まったトラック。飛び出す影。なにかがぶつかるような音。それはとてつもなく現実感というものが希薄で。アリを踏んだところでそれをいちいち感知することがないのと同じ。慌てて踏んだブレーキから知らず足が離れる。右足のつま先が右に行くか左に行くか迷う。迷っている間に車の前輪がなにかを踏んで車体が揺れる。メーターパネルの手前に置いたスマホが揺れに合わせて滑る。落ちる。足下でスマホが揺れる。無意識に見たスマホにはメッセージアプリの通知。きっと隆一さんだ。自然に右足が右を選ぶ。車の後輪がまたなにかを踏んでいるが前輪の時と違いアクセルを踏んだからなのか車体が浮き上がった直後にタイヤが空転したのかエンジンが唸る。その音で希薄だったはずの現実感が体内に飛び込んできてようやく勘違いではなく本当に人を轢いたのだと理解した。今までに車を運転していてなにかを踏んだ経験なんて潰れたペットポトルや空き缶くらいだったけれど明らかに今の振動や衝撃はそんなものではなかった。バックミラーやサイドミラーになにかが映るのが怖くて力が入る。右足のつま先だけがやけに冷えているのをエンジンから伝わる振動とともに感じる。信号が黄色になっていたのに構わず直進し交差点へ突入した時には信号は赤色。赤色に妙な不安を覚える。呼吸が荒くなっていると脳では判断しているような気がするのに完全に呼吸が止まっていた。一気に体内に溜まった空気を吐き出す。手が震えていた。歯を強く噛みしめていた。右足のつま先で固まっていたと思っていた冷たさが一気に迫り上がってきていた。それなのに女としての私だけはある意味冷静だった。女性器だけは火照りを保っていた。私が今一番会いたいのは隆一さん。こんな状況になって私の中の一番強い存在が女としての私であることを知って笑いが込み上げた。バックミラーに映る赤色。転がるボール。黒いランドセル。私が轢いたのはどう見ても子どもだった。

 同時に慎治が車好きであることを恨んだ。FR車じゃなければ、タイヤの空転とエンジンの唸りは起こらなかったわけで。あの音がなければ、現実感はずっと希薄なままで。それなら「なんだか変だな」くらいの感覚で車を止めて、血を流し、横たわり、跳ねられた衝撃で後頭部を通り過ぎてずり上がったランドセルに隠れた下の顔を確認して、生死の如何を問わず救急車を呼ぶくらいのことはできたかもしれない。

 嘘だ。嘘に嘘を塗り重ねたところで、嘘は嘘のままだ。ずり上がったランドセルの下の顔を、確認するなんてことはありえない。できるわけがない。バックミラーに映った遠くの子どもの姿を見た時に、ランドセルで顔が隠されていて、どれだけ安心しただろうか。表情さえ見なければ、嘘で取り繕える。隠れた表情が轢かれたことにも気付かず笑顔だとしたら。実は学校でいじめられ死にたいと思っていたけれど一歩踏み出せずにいたところだったとしたら。死んで満足だったかもしれない。そんなことがあるわけないと分かっていても本当に百パーセントあり得ないなんて誰も決め付けることはできない。そんな可能性だってあり得てもいいのかななんて。

 嘘と言い訳が堰を切ったように、浮かんでは消え浮かんでは消え、馬鹿みたいなピンクの塊に飲み込まれていく。現実に、いちいち意味なんてものはない。あるのは真実だけ。それなのに、私はそれから逃げてしまって、意味も真実もない世界に自ら迷い込むように、いつも隆一さんと会う時に使うピンクの建物に向かうだけ。車の走る音がやけに騒々しく耳に粘つくわりに世界全体はやけに静かで、バックミラーもサイドミラーも見るのが怖い。後ろを振り返るのが怖い。だからといって、果たして、前に進んでいけるのだろうか。分からない。分からないんじゃない。分かることなのに、それを避けている。子どもを轢いておいて、前に進むなんてことが許されるのだろうか。

 バックミラーにはずっと赤色をした嘘と真実の影が射している。べったりと。べったりと。べったりとべったりとべったりとそこにべったりと赤いそれが。

 信号も赤のままだったが車は前を取らなかった。右足に力を込めてアクセルを踏み込んだ。家に帰らないと。妻としてのママとしての私の仕事が残っている。


 鍵を後ろ手で閉めた。メッセージアプリの通知があったことを思い出した。

『子どもが事故にあったみたいで今日は連絡できそうにない』

 隆一さんからだった。

 赤いランドセル生理女の子ラブホテル慎治水族館で見た隆一さんの家族セックス凉子私がひいた子どもは隆一さんの私の慎治の水族館で見たあの、誰の子どもに私は車でぶつかりその上タイヤで踏み潰したのだろう。

 アクセルを踏み込んだ右足が動きつられるように左足が動き自然と浴室へ向かってそのまま私はシャワーを浴びた。ぬるい水が頭から全身へと流れていき服が体に張り付き重たくそして心を軽くする。

 私のやるべきことは決まっている。

 左手に持ったままだったスマホで電話帳のアプリを開くと保育園に電話をかけた。出る。

「もしもし、コスモスの松田凉子の母です。お世話になっております。すみませんが今日ですねちょっとお迎えが遅くなってしまいそうで。はい。ちょっと時間分からなくて。はい。また分かったらお電話しますので。はい。はい。すみません。はい、失礼します」

 そのまま慎治に。出る

「もしもし。あのね、ごめん。私不倫してた。うん、うん、ごめん聞いて。でも愛してるのは慎治だけ。うん。うん。うん。聞いて。あと私、子どもを轢いた。うん。違うの。違う。うん。聞いて。お願いだから、聞いて。車でひいて逃げた。聞いて。違うの。うん。うん。それも違う。ごめんね。聞いてほしいの、お願い、聞いて。大事なことだから。凉子のねお迎えお願いしたいの。うん。ごめん。なにがなんだか分かんないよね。ごめん、切るね。ありがとう、愛してる」

 慎治の声を無視してスマホの画面をタップした。

 メッセージアプリを開いて隆一さんのアイコンからブロックと書かれたところをタップする。

 電話のアプリを開く。

 一、一、零。

 指が痺れて冷たくなっていく。心臓の音がうるさい。体全体が冷たくなっていくのに、いまだ女性器だけが熱を帯びていて滑稽で声を出して笑ってしまう。

 水が流れていく先を見る。ラブホテルの排水溝の中よりは光が届きやすそうに見える。またそうやって、少しでも自分が正しいことを選択していると盲信しているだけなのかもしれないけれどそれでいい。

 シャワーから流れてくる水の出所がどこかなんて知らないけれど、その水の途中で存在を主張しながらも吸収や希釈によって無慈悲にも姿を消されている血の出所なら知っている。

 それは私だ。

 ただただ私の抜け殻の中で私のどれかの私が反抗的に少しばかりの血を私の抜け殻から垂れ流す。穢れを知らず透明で無垢で多様に動き回る可能性に満ちたものによって、赤く嘘に犯された真実という痛みは吸収されたり希釈されて流れていく。

 でも人というのは流れを受け入れることができないから、私も隆一さんも慎治も涼子もみんな未来に進んでいるように見えて進んでいない。留まっている。本当に大切なものを今の形のままで私の近くに置いておくことはもうできない。でも本当に大切なものを知ることは出来たのだ。

 抜け殻の私でも。

 子どもを轢くことによって。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

渦の中の女 斉賀 朗数 @mmatatabii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ