手品師と煙

南風野さきは

手品師と煙

 川に抱かれて佇むその街は、青灰の石の組み合わせでできていた。川を底として盛り上がる地形そのままに石造りの家々が積み重なっている。宅地の連なる丘には――誰かの屋敷の庭なのだろう――緑が点在し、石塊から彫り出された街のそこここに瑞枝が挿されているようでもある。敷地を区切る壁と壁の間に挟まれて、ところどころで草根の重石となりながら、石段の道は網目のように宅地を縫っていた。

 初夏の鋭さを先取りした陽光が降り注ぐ。青灰の石畳が照り輝く。川面を撫で、水の香を乗せた風が街路を走る。淡緑の若葉がきらめきを撒く。

 低地から高地へと吹き抜ける風は、街の心臓たる広場につながる大通りを駆け、ショウウィンドウとショウウィンドウの間から裏通りへ、裏通りから丘の上を目指す石段へ、石を足場とする細い階を街の頂へと吹きあがる。やがて、森のような庭と石段を隔てる壁にぶつかって、そこにわだかまっていた紫煙を巻きこみながら、風は動きをとめた。

 風と衝突して渦巻いた紫煙の蓋を割って、新たに立ち昇った紫煙が青空に伸びていく。紫煙のはじまりは、首を捻るようにして街を見おろしながら壁に背を預け、石段に座りこんでいる男の指が挟む煙草だった。

 石の連なりでできた上り坂の途中にある木陰にひたりながら、男は紫煙を燻らせていた。男の背中と壁の間に挟まれてクッションにされているのは――男の制服ででもあるのだろう――無造作に丸められた、くたびれた白い外套だった。男が背凭れにしている壁に貼られたポスターは剥がれかけていて、宙に浮いた隅を風にばたつかせている。風雨に晒されて色褪せたそのポスターは、旅の劇団の興行を報せていた。

「一服ですか?」

 頭上から降ってきた声音に、男は街に落としていた眼を坂の上へと移した。

 大きな紙袋を抱えた人の影が、音も無く、滑るように石段を下りてくる。影の持ち主は小柄で華奢な若いひとで、鳥の骨のように軽そうだった。星空のような目が、高いところから、くたびれた白をとらえる。腰をおろしたままの男の前で身を屈め、よくとおることだけが確かな、高くも低くもなく、やわらかくも硬くもない声を、そのひとは響かせた。

「頼まれた買い出しをこなそうとしていたら、宿に帰れなくなってしまったんです。道をお尋ねしてもよろしいですか?」

 属するところの曖昧な、とらえどころのなさから幻であると錯覚しそうになるそのひとに、せせらぎのようにさざめき濃淡をゆらめかせる緑陰が覆い被さる。頬の白皙に陰を踊らせるそのひとを見上げ、逆光ゆえに生まれた陰よりも暗いひとがたの影に、男は眩そうに目を眇める。

 木陰に凝った影が、両の口の端を吊り上げ、笑う。

「なごみのひとときに無粋であることは承知の上で」

 夜に響く鈴の音のような声が、男の耳朶を撫でる。不愉快そうに男は顔をしかめたが、諦めたかのように嘆息し、崩れることのない微笑へと向き直る。

「どこに行きたいんだ?」

「広場まで。そこまで行ければ、あとは覚えています」

「それなら、この坂をくだっていくと大通りにぶつかるから、そこを右に曲がって、まっすぐだ」

 目の前にある紙袋に印刷されている店名を、男は指さした。

「大通りは、広い道だからすぐにわかるはずだ。その店がある通りのことだ」

 星空の目をしばたたき、そのひとは首をかしげてみせた。

「もしかして、お買い物を済ませた時に、そのまま道沿いに引き返せばよかったんでしょうか」

「そうなるな」

「脇道があったから、近道だと思ったんですよね。大きな道が混雑している時に、地元の方が抜け道にする類の。狭い道だったし、なんとなく、広場にならつながっていそうな気がしたんですが」

「はずれだったな」

「迷路につながっていました」

 答えを得た側が苦笑しながら身を起こす。答えを与えた側は、階を成す石で紫煙のたなびく燃えさしの火を揉み消して、取り出したマッチ箱に燃え殻をほうりこんだ。

 焦げたマッチ棒と燃え殻と、紫煙の名残を閉じこめた小箱を指さして、迷いびとは問う。

「甘いもの、お好きですか?」

 問いを発した唇のかたどる無邪気な笑みを、男は睨めあげた。問う者の笑みが深くなる。

「こちらの店をご存知だったので。わたしのような者は立ち寄った土地の有名店をめぐるのも楽しみのひとつなのですが、遠方にも轟くような名声を得た店ならば、土地の方にも愛されているのではないかと」

「好きな部類ではある」

 そのことで職場じゃよくからかわれるんでな、と、男は気まり悪そうに眼を逸らした。甘いものを食べるひとときは至福です、と、迷いびとは左手を差し伸べた。眼前に突き出された手のひらに男は困惑する。

「箱を」

 うながされるまま、困惑したままに、差し出された手のひらに男はマッチ箱を載せた。迷いびとは箱を軽く握ると、手首の返しのみをバネとして空高く放り投げる。箱の軌跡を追うために男は首を仰け反らせた。男に木陰を落としている枝葉の間を抜け、箱は空を目指す。緑を透かした陽と緑の隙間を抜けた陽の斑に肌を染めながら、ドーナツ型の煙が忽然と箱の進路に現れるのを、男は見た。呆けた顔で煙を眺める男の目に、煙の穴を通り抜け、投げあげられた頂点から落ちてくる箱が映る。

 小鳥が射落とされたかのような鋭さをもって、箱は迷いびとの抱える紙袋の中に落下した。

 宙に浮いていた煙は風に散じ、影も形もない。

 迷いびとは紙袋の中に腕を入れ、指先の感触をもって、落ちてきた箱を探しあてる。探し出された箱は親指と人さし指でつままれて、男の眼前へと運ばれた。

「お手を」

 言われるがまま、呆けたままに、ぎこちない仕草で男は顔の前に両手を持ってくる。手のひらを上に向けて揃えられた手にマッチ箱が置かれ、箱を置いた者の親指が、一度だけ、箱を叩いた。

「お仕事の息抜きをしていたのでしょう。道を教えてくださった御礼と、休憩の邪魔をしてしまったことへのお詫びです」

 男の手のひらの上でひとりでに箱が開き、無数の蟻が這い出すように、中からチョコレートやキャンディの粒が溢れてくる。きらびやかな彩りの紙でひと粒ずつ包まれている甘いものが、男の手のひらに湧き重なる。陽光を弾く包みで踊るのは、迷いびとに抱えられている紙袋の文字と同じものだ。あきらかに狼狽している男を眺めながら、一歩、迷いびとは退いた。悲鳴のような声を、男があげる。

「あんた、手品師か?」

「そんなところです。わたしが何をしているものなのかは、丁度そこに貼ってあるのですが」

 笑みを含んでいることだけはたしかな、指の間を抜けていく土塊のような声を響かせる迷いびとは、男が凭れていた壁に貼られている、剥がれかけのポスターに眼を投げる。

「ご都合が許すようであれば、ぜひ、おいでください」

 星空の目の見据える先を追いかけて、男は身を捩る。壁を仰ぐ男の背後で、昼夜をつぎはいだようなひとがたの影が、カーテンコールさながらに深く身を折った。

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手品師と煙 南風野さきは @sakihahaeno

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