Impressions ~インプレッションズ~

 ライブの間中、彼女は魅入られたように潤ませたその瞳で、ステージの一点を見つめていた。


 曲が始まれば時が止まったかのように身じろぎ一つせず、曲が終われば放心したまま拍手を送る。それをライブの終わりまでずっと繰り返していた。


 ライブが終わる頃には、グラスの氷はすっかり溶けていて、けれど薄まったカシスオレンジに口をつける彼女は、いつまでも夢見心地といった風だった。

 きっとあの時の彼女は、薄まったカクテルの味なんて、気にもしていなかったんだろう。


◇ ◆ ◇


 3限が始まった頃、部室に入る。私物の楽器やら、譜面立てやらで足の踏み場もないような中を抜け、奥の分厚い扉を開ける。そこにはさっきまでの汚さが嘘のように、小奇麗なスタジオになっている。

 その奥にある年季の入ったドラムセットに座る。感覚を確かめがてら軽く叩くと、メトロノームに合わせて基礎練を始める。


 そのまま15分ほど叩いていると、スタジオの扉が開いて後輩のリョウマが入ってきた。


「サニー先輩、お疲れ様っす」

「おう、お疲れー」


 本名はリョウマじゃないんだけど、新歓で坂本龍馬好きと言っていたからそのままあだ名がリョウマになった。本名は忘れた。

 1年の中では比較的練習している方で、同じドラムで定演も近いから、最近はよく質問される。


 挨拶だけ返して、基礎練を再開する。リョウマは近くの椅子に座って、暫く俺の練習を眺めていた。

 

「先輩、スイングでもっとおかず入れたいんですけど、なんカッコいいのないですかね?」


 基礎練を1セット終えたところで、リョウマが声をかけてきた。


「スイング? 俺もあんま得意じゃないからな」

「いや、先輩のめっちゃうまいじゃないですか!」

「そうでもねぇよ。スイングなんて大学入って覚えたから、全然慣れねぇし。

 んでテンポどんくらい?」

「160くらい? ですかね」

「早いな。それでおかずもっていうと、なかなか厳しいっしょ?」

「そうなんすよ。キープが精一杯で」


 話しながら、160くらいでなんとなくスイングを叩きながら、手癖で覚えているフレーズを叩く。。

 フィルインおかずなんて普段は無意識にやってるから、いざ教えてくれと言われると悩む。


「こんなん?」

「おー! カッコいいっすね! どうやってるんですか?」

「この場合は2小節前からきっかけ入れるんだけど——」


 そこで再び部室のドアが開いて、彼女——椎名しいな沙織さおりが入って来た。


「お疲れー」

「あ、リンゴ先輩お疲れ様です」

「リンゴお疲れー」

「あ、サニー。今日の放課後、練習お願いね」

「はいはい、了解ー」


 手をひらひらさせて返す。別にリンゴも念のために声を掛けただけなんだろう。こっちの気の抜けた返事にも特に気にした様子も無く、持って来たケースからサックスを引っ張り出した。


「今から個人練?」

「うん。もしかしてこれからバンド練?」

「いや、なんも入ってないけど」

「先輩が個人練なんて珍しいっすね」

「まあ——たまには、ね」


 少しバツの悪そうな顔をしながら、リンゴはサックスを構え、チューナーを注視しながら管に息を入れ始める。

 その表情は、まるで先週とは別人のように真剣だった。


 何が彼女をそこまで変えたのか。そんなもの——ライブでの彼女の姿を見ていれば、サルでも一目瞭然だったろう。


* * *


 放課後のバンド練が終わり、スネアのスナッピーを緩めて立ち上がると、軽く伸びをする。

 他のメンバーもそれぞれ片づけ始める中、彼女だけが一人——まだ練習を続けるつもりのようだった。


「リンゴ帰んないの?」

「うん。もうちょっと練習してく」

「もう8時だよ? だいじょぶ?」

「家そんな遠くないし、適当に帰るから平気」


 それを聞きながらまた椅子に座り、下ろしたスナッピーを上げ直して、また軽く叩き始める。

 そんなこっちの様子を見て、リンゴがサックスから口を離す。


「サニーも残ってくの?」

「もうちょいだけね」

「おや? 何やら怪しげな雰囲気が——」

「ならサラも一緒にやってく?」

「い、いえ……。お二人でごゆっくりどうぞ」


 サラに茶化されても気にする様子も無く、リンゴは練習を再開した。


 みんなが帰った後、特に喋ることも無く30分程練習した。

 少し喉が渇いて、部室を出て自販機で飲み物を買って戻ると、リンゴもサックスを置いて休んでいた。


「今日は随分熱心なのな」

「まあね。定演近いのに先週のスタジオ練、酷かったし」


 その言葉が嘘だとすぐに分かる。けどそんな嘘、別に目くじら立てるようなことでもないのに、なんでか少し気に障った。


「嘘つけ。あのライブ見たからっしょ?」

「やっぱ分かる?」

「あの時のお前見て気付かないのは、植物か昆虫レベルでしょ」

「うっさいわねー」

「一人だけなんかトランス状態だったし」

「何それ。めっちゃ恥ずいんだけど」

「ま、あのサックスの人、うまかったもんな。美人だったし」

「ね! めっちゃカッコよかったよー」

「何? 惚れたの?」

「いやいやいや! 私そういうんじゃないですから」

「どうだか。

 ああ——けど確かにあれは、ファンっていうより信者って感じだったな」

「それって惚れてるより重症っぽくない⁉」

「むしろ手遅れって感じだったな」

「何よそれ」

「ま、いいからそろそろ帰ろうぜ。バスなくなっちまうし」


 そう言って、ぶつぶつ言うリンゴと片づけを始める。リンゴに背を向けてドラムセットを片づけながら、


「だっせ。女に嫉妬かよ」


 我慢できずに、つい小さく自分に毒づいた。


◇ ◆ ◇


 日曜の昼下がり。外は秋晴れのいい天気だというのに、わざわざ窓もない地下の薄暗い密室に見知らぬ人同士が籠り、酒を飲みながら楽器を打ち鳴らす。自分もそんな不健康極まりない集団に交じって休日を過ごしていた。


 そろそろドラムソロも終わりが近い。念のため管楽器フロントに目で合図を送る。相手が軽く頷き、ソロが終わるとメロディを吹き始め、曲はラストに向かって行く。若干ピアノが遅れ気味だけど、お気楽なセッションなんだしあまり気にしないことにする。そのまま打ち合わせ通りラスト2小節を3回繰り返して、曲は終わりへとなだれ込む。

 曲が終わるとまばらな拍手が起こり、それを聞きながらステージを降りて席へ戻った。

 頼んでいたカシスオレンジを口に運ぶが、粘りのある甘さが口中に広がって、すぐグラスをコースターに戻した。


 ここは家の隣駅から少し歩いたところにあるジャズバー。今の時間は本来営業時間外だが、たまにこうしてセッションを開催している。家から近いし、チャージも安いので、練習がてら度々参加していた。


「そうしましたら、次の方ステージまでお願いします。

 えっと、フロントは宮城さんと榎本さん。ピアノが泉さんで……」


 進行役の店員が次の演奏者を呼んでいく。


「ドラムは……沢渡さん、お願いします」


 呼ばれた次の演奏者がステージに上がり、曲決めと構成を確認する。


「今モード練習してて、”Impressions”いいですか?」

「モードですかー。苦手ですけど頑張ります。イントロはどうします?」

「ドラムからお願いいできますか?」

「じゃあ8小節適当に叩きますよ。テンポはどれくらいで?」


 すると曲を提案したサックス奏者が指を鳴らし始める。


「こんぐらいですかね?」

「了解です。アドリブは普通に行きます?」

「途中で掛け合いとか振るかもですけど、順番は普通で行きましょっか。終わりはカデンツァで持っていくので……」


 そんな風に2分程で曲の構成を決めていく。どうもみんな慣れてるっぽい。

 打ち合わせが終わり、各々軽く音出しして感覚を確認すると、すぐにスピード感のあるドラムイントロが始まった。


 話している時の雰囲気通り、全体的にうまかった。

 モードってのはよく分かんないけど、苦手と言っていたトランペットのソロもカッコよかったし、ピアノもさっきより明らかに慣れた動きだ。

 けど何より、ドラムがまるで別物だった。さっき自分が叩いていたものと同じとは思えない程音の抜けが違う。それにあんなに速いテンポなのに複雑なブレイクを、いとも簡単に決めていく。


 けど聞けば聞く程、どうもあのドラムの叩き方には聞き覚えがあるような気がした。

 そしてその違和感は、ドラムソロに入って聞こえてきた変なリズムを聞いて確信に変わった。


――そうだ、先週行ったジャズバーでライブしてた人だ。


 前に聞いた時もうまいと思ったけど、改めて聞くとやっぱりプロ並みだ。素直にこんな風に叩ければと思う。


 曲が終わって、さっきより明らかに大きな拍手が起こり、それを聞きながら演奏者が各々の席へ戻っていく。

 その中のドラマーを目で追い、荷物とカシスオレンジのグラスを持って席を立った。一人で来ているっぽいので、近くの席に座って声をかけた。


「お疲れさまです。めっちゃかっこよかったです!」

「お、ありがとー」


 グラスを合わせてお互いにグラスの中身を少し口に含む。


「あの、先週”サー・ルドルフ”でライブしてた方ですよね?」

「お! そうだよ。見に来てくれてたんだ」

「はい。友達に誘われて」

「偶然だね。わざわざありがと。

 あ! もしかして前の方で3人で飲んでた学生っぽい子?」

「あ、それです!」

「やっぱり。

 その時一緒にいた女の子からメッセ来ててさ。べた褒めされててうちのサックス、めっちゃ喜んでたよ」

「多分リンゴって名前じゃなかったですか?」

「あ、そうそう! リンゴちゃん」

「あいつもサックスの人、めっちゃカッコよかったってずっと言ってますよ」

「それ聞いたら、あいつまたデレデレしそうだなー」


 そう言うと、そのドラマーはグラスに残った酒を一気に煽った。


「えっと……サワタリさん、でしたっけ?」

「そうだよ。沢渡さわたり敏行としゆき。敏でいいよ」

「あ、俺は滝崎たきざき陽也はるやです。大学ではサニーって呼ばれてます。

 それで敏さんってその——プロなんですか?」

「いやいや全然! 昔一瞬プロまがいのことしてたけど、すぐやめちゃったよ。実力なかったし」

「その腕で実力不足なんですか⁉」

「プロは厳しいよ。俺ぐらいの奴、ごろごろいるしね」

「そんなことないですよ。俺敏さんぐらいうまい人、初めて見ました」

「んな大袈裟な」

「それでお願いなんですけど——敏さんってレッスンとかやってませんか? 俺、敏さんにドラム習いたいんですけど」

「俺に? 講師とかやったこと無いけど」

「じゃあ時間のある時でいいんで、ドラム教えて貰えませんか? レッスン代もちゃんと払うんで」

「まあ……別に構わないけど」

「っしゃ!」


 思わずガッツポーズが出た。


「けど俺結構我流なとこあるし、変なクセ教えちゃうかもよ?」

「だいじょぶです。俺自身人に習ったこと無かったし、敏さんのドラム教われるなら、是非お願いします!」

「じゃあいいよ。日程とかまた連絡するから、連絡先教えて貰える?」

「はい!」


 嘘じゃなく、今まで会った中で初めて習いたいと思えたドラマーだった。

 確かにもっとうまい人だって世の中にはいるだろうけど、やはり生で聞いた中では、敏さんが今までで一番だった。


「じゃあ俺今日これから用事あるから、先帰るわ。後で連絡入れるから」

「はい! 宜しくお願いします!」


 次の曲が流れる中、敏さんは席を立って足早に店を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コルトレーン・シンドローム @nowhere_and_nowhere

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ