いちばんのりの、女の子

みずみやこ

いちばんのりをたどって

 その孤独な男は、住む所がありませんでした。

 男はいつも、森の中、雪をいちばんのりで踏んでいました。

 でも、今夜は…ちょっと違う。



 ❄︎❄︎❄︎



 大きなため息をついて、生きている事を示しているような白い煙を見つめたら、改めて森の暗さに気付かされた。

 巨体を覆う茶色の毛皮を着た、森の熊と錯覚しがちな大男は、いつもの様に森を彷徨っていた。道に小花が咲く春も、若葉が揺れる夏も、葉が鮮やかに色づく秋も、雪が深く積もる冬も。彼は休む事なく、永遠に続く森の中、彷徨った。


「…?」


 ざく、ざく、と、いつも一番に雪に後をつけていた男。男はいつも後ろを振り返らないが、何故か今日はくるりと、自分が歩いてきた道を振り返ってみた。

 そして、彼はまた、地面を見る。

 やっぱり、あった。

 小さな小さな、小動物が付けたような足跡が。男の足跡の何分の1だろうか? 男はうんと唸って考えた。その足跡は、木々が生い茂る右の方向から伸びて、向こうの方向へ伸びている。まさに、男が今向かっているこの道だ。

 人生で初めて、いちばんのりを抜かされた男は、驚きなのか不可解なのか、またため息をついて歩みを再開した。


 男は下を向いて、大きいけれど細い体で雪道を歩いて、気が付いたら、足跡の方向をじっと見つめていた。そして、それを辿っていた。冷たい夜の空気を吸うと、鼻がツンと痛む。それでも、小さな足取りは軽く見えた。男は真似して、ちょっとだけスキップしてみた。どすん、どすん。…違う。もっと、そうそう、この粉雪みたいにふわふわって……

 ちょうど雪が降り始めた頃、男は試行錯誤を繰り返して雪の上を飛んだ。小さな足跡が、少しずつ新しくなっているのが分かった。


 チリン、チリン…


 あっ、この音はなんだろう?

 何もかもが初めてで、少しばかり老いた男は息を弾ませながら耳を澄ませた。正面の、暗闇の方向から、熊避けの鈴よりも軽やかで甲高い音色が聞こえてきていた。


 チリン、チリン…


 男は音を立てて走り出しそうになるのをぐっと堪えて、抜き足差し足で小さな足跡を塗り替えた。

 規則正しく鳴る鈴の音は、まるでこの森の昼間、鳴き出す鳥達の声の様。男は体を揺すって、目を閉じて、音をゆっくり追いかけた。鈴の音は、着実に近くなっている。

 すると次第に、さくっ、さくっ、と、軽やかな足音も聞こえてきた。新雪を踏む音と、軽やかな鈴の音。男にとっては、まるで冬の森の演奏会に参加しているような、そんなメロディとリズムの様だった。


 そんな音楽と、わずかな温もりが、自分の体にあたってしまいそうなほど、その「女の子」に近付いてしまった男は、びっくりして目を開けた。


「〜♪ あっ、 おじちゃん! こんばんは!」


 男の膝の高さにも満たない小さな白い女の子は、振り返るやいなや男に挨拶した。男はきょとんと、にこにこ可愛らしく微笑む女の子を見つめて、夢の中にいる様にふわふわと、「こんばんは」と答えた。

 女の子の足元には、その足の大きさと釣り合う大きさの足跡が新しく付いている。男は、全てが解決したと思って、「きみだったんだねえ」と呟いた。


「なにが?」

「この足跡だよ。きみが、いちばんのりだったんだねえ」

「ああ! ほんとだ」


 女の子は納得した様に、腕を組んでうんうんと頷く。女の子は雪の色と真反対の、黒く長い髪を風になびかせた。彼女は髪の毛以外、全部白色に統一していて、暖かそうに着込んだコートやニット帽は、親からの愛を感じる。


「…きみは、なにをしているの?」


 男は自然と、声を低くして訊いた。女の子はうさぎの尻尾の様にもこもこなニット帽を耳までひっぱって、寒そうに鼻を鳴らし、なんでもない様にふんとすまして言った。


「おうちに帰るんだよ」


 わたしはえらいお姉さん、ということを証明するように、女の子はえっへんと胸を張った。


「…ひとりで?」

「うん! 向こうの森で、友達とかまくら作りしてたの、それでね、ひとりでおうちに帰るの」


「…そうか」


 男はすこし表情を厳しくして聞いていたが、女の子の元気な笑顔を見て、にこっと微笑んだ。

 二人は何にもなかったかのように、いつも通りの足取りで道を進んだ。


「…おじちゃんって」

「?」

「わたしのいのちのおんじん?」

「えっ?」


 女の子は目を見開いて、頭上に立つ顔色の悪く、しかし優しく笑っている男を見上げた。男は首を傾げて、頭をかいてとぼけてみせた。


「どういうこと?」

「だってっ、おじちゃん、前、わたしの事助けてくれたでしょっ?」


 女の子はぴょんぴょんとスキップする。男が慌てて追いかけようとすると、女の子はあははっと笑って立ち止まり、くるりと振り返った。白い雪が月光を浴びて光を放つこの空間に、女の子の白い肌が良く映えた。


「この森のの深くに、おっきいくまがいたの」


 それでね、と、歯を見せる。


「昔、おかあさんとはぐれちゃって、ひとりでいたらね、そのくまがわたしのことを食べようとしたんだって!」


 後でおかあさんから聞いたんだよ、と、何故か誇らしげに、武勇伝らしきものを語る女の子。男は醒めた目で空を見た。


「でもね、わたしは食べられなかった。

 だって、おじちゃんが助けてくれたから!」

「…」


 男は、女の子の瞳を再度見て、それから微笑んだ。


「…そうだったね」


 男の瞳は茶色く、光があまり差し込んでいなくてもきらきら輝いていた。光が差していた。

 その光は、いつでもこの女の子を写していた。



 ❄︎



 家はすぐそこで、二人がしばらく歩くと、ぼんやりと街灯の明かりが見えてきた。女の子は楽しそうに飛び跳ねて、遂には男の手首を両手で持って引きずるように連れて行った。二人が走ると、距離は歩くよりももっと早く縮まる。家の明かりがもうすぐそこだった。


「そーだっ、おじちゃんっ、わたしんち、くる?」


 女の子は息を弾ませ、長い髪を振り乱した。

 家がない男は、一瞬迷って口を開け、それから閉じて、首を振った。


「ううん。遠慮するよ。きみにはおかあさんがいるでしょう?」

「うん……そうだけど…」


 女の子のニット帽が飛んでいきそうになったので、男はそれを大きな手でとって女の子の小さな小さな頭にぽんと乗せた。


「ほら、もうおうちだよ。あったかくして、ご飯食べて、寝るんだよ」

「…おじちゃんは?」

「…きみのともだちだよ」


 男は、振り返った女の子の瞳に、にこっ。ほほえんだ。

 女の子はつられて、魔法にかかったかのように、笑った。



 森の中に一軒佇む、小さなログハウス。

 暖炉の炎のような暖かいオレンジ色のガーデンライトが、花壇のそばで光っていた。

 女の子は吸い込まれていくように、扉を開いて暖かいおうちの中に入って行った。


 女の子は、それでも男の姿を見ていた。


「バイバイ」


 男は毛皮のジャケットの袖を振った。



 ❄︎



 女の子が玄関に入ると、びっくりした様子で飛び込んできたおかあさんが、ぎゅっと女の子の小さな体を抱きしめた。


「遅かったじゃない!」

「……」

「どうしたの? ほら、お風呂はいろ…––あら? 頭に何か…」


 女の子の白いもこもこなニット帽の上に、茶色い毛皮が付いている。おかあさんはそれをつまんでとって、それから飛び上がった。


「熊?! あなた、熊に出会ったの?!?」

「…え?」


 俯いて黙っていた女の子は、顔を上げて、その毛皮をまじまじと見つめた。その瞳が、だんだんと光を帯びていく。おかあさんは不思議そうに、女の子の顔を覗き込むと、女の子はきゃっきゃはしゃいで自分の体を抱きしめた。


「…くまのおじちゃん、ありがとっ」




 ❄︎❄︎❄︎




 熊はいつも、ひとりでした。

 ひとりで森にいました。

 ときたま、元気でかわいい女の子にであいます。

 その女の子は、いつでもいちばんのりに、雪を踏んでいました。

 でも、ふたりはいつも会うと、いっしょにいちばんのりになっていました。

 女の子は、雪をいっしょにふむたび、

「ありがとっ!」って、言いました。

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