紅葉錦に舞う






「定頼さま、今宵もおいでくださるなんて、嬉しいですわ」

 とっぷりと月も沈みいくある夜半。女は定頼を迎えるために開けておいた半蔀まどの内、御簾みすをたくしあげてうっとりと微笑んだ。

 今宵も? さあて前にここへ来たのはいつだったかな、などと悪戯に考えながら、定頼は招き入れられるままに女のつぼねへと入る。蘇芳菊すおうぎくの衣に指貫袴さしぬきばかまの若々しい彼の出で立ちに、女はほうと溜め息を漏らした。

「夜はもう肌寒くなってまいりましたわね。さあどうぞ、もっと奥のほうへお越しくださいませ」

「へえ。今宵はいきなり率直なお誘いなんだね。寒さは女の人を大胆にさせるものなの?」

「あら。もう嫌ですわ、定頼さまったら」

 くすくすと女が忍び笑う。定頼も薄く笑みながら、優美な空薫そらだきの香る室内をねだるように奥へと促した。簀子縁から近いこの室内は、確かに少し肌に寒い。囲いのある奥のへやへと早々にしけ込んでしまおうとの算段だ。

 定頼よりもいくつか年長の女はゆるりと、甘やかすように彼の腕を抱いた。仕方のない方ね、と夜闇に落ちた囁きに、定頼はじんわりと目を細めた。


 色恋は楽でいい。この界隈でなら、障壁を気にせずにふわふわと漂っていられる。そこは自分のやり方が一番効果的に働く方面であるともいえる。

 彼はまるで水を得た魚のように、ぬる湯の夜を泳いで渡った。いくつもいくつもの水平の夜を越え、月影の下の彼の心はかろうじて気楽であった。――気が楽である場を求めてさ迷った挙げ句であるのだから、当然なのかもしれなかったが。


 女が紙張りの戸に手をかける。するすると引かれる白い明かり障子をじっと見つめていると、ふいに外縁のほうから咳払いが聞こえた。


 ぎくり、と女が慌てて振り返る。定頼はあえてそちらに目をやらず、やれやれと天を仰いだ。

「先客があったようだな」

「中納言さま……」

 定頼よりも一回りも年嵩の男は女の古くからの恋人である。もともと三者ともに理解した上で遊んでいるのだから、今さら面倒くさいことにならなければいいのだけど、と定頼はぼんやり考えた。

「誰かと思えば昨今、光源氏もかくやとお噂の新進気鋭の貴公子どのではないか」

 定頼の願いも虚しく、御簾の向こうからは貫き刺さるのではないかと思うほどぎしりと刺を含んだ物言いが続く。女はすっかり顔色を変えてしまっている。

 ああ、と定頼は人知れず息を吐いた。熱くなった湯の居心地は、なんとも最悪なものだ。

「あの、中納言さま、今宵は……」

「お若い方は行動力があるものだ。そして恐れを知らぬ」

「違うのです、私は四条の大納言さまのご子息である彼と、お和歌うたのお勉強を……」

「和歌?」

 は、と男が鼻で笑った。

「なるほどそうか。三舟の才のお血筋はさぞ優秀であろうからな。私にもぜひ、ご指南いただきたいものだ」

 ぷつり、糸の切れるような合図があった。

「いいえ」

 女の手を振りほどき、すいと踵を返した定頼に、女が驚いて目を見開く。その行動にではない。彼が、彼女が今まで見たこともないような、冷えた顔色をしていたからだ。

「大切な恋人との逢瀬おうせをお邪魔するわけには参りません。私はこれにて失礼します」

 息継ぎもせずに淡々と言い切って、するりと御簾をくぐる。簀縁すのこえんに出るともちろんそこには中納言が立っているので、そこは扇で顔を覆いつつ、やり過ごして場を後にする。

 誰と目を見交わすことも、言葉をやり取りすることも、もはや彼には億劫でしかなかった。





 翌朝の勤めの最中さなか、中庭に面した渡殿ろうかで呼び止められる。かって知ったる声は苦情の響きを含んでいて、定頼はため息混じりに幼馴染みを振り返った。

「なんだ、賢子か」

「なんだじゃないわよ。それに宮中では、その名を軽々しく呼ばないでって、いつも言ってるでしょ」

「はいはい。それで? なんの用、賢子?」

 裳着もぎを済ませ、かつての母と同じく藤壺の中宮に仕える身となった賢子だが、いまだ定頼とは気安い間柄のまま。よく遊んでいた頃を思えばずいぶんと大人びたものだが、こうして眉間に皺を寄せて詰めよってくる姿は、むかし口喧嘩をしていた頃と寸分違わない。

「わかってるくせに……。またやっちゃったの? 彼女、落ち込んでたわよ」

「あーあー、その話か」

 大袈裟に手を打ってみせると、賢子はふうと唐衣からぎぬの肩を落とした。いやいや、と定頼は申し開く。

「またっていうけどな、いくらなんでもあんな修羅場はそんなに踏んではないよ」

「修羅場かどうかは知らないけど。わたしが言いたいのはそっちじゃなくって」

「おや、違うの?」

 違うわ、と賢子はじっと目を覗きこむ。見透かされそうな心地がして、定頼は誤魔化すように首を傾げた。

「……あなた、お父上さまの名前を出されるとすぐに別れを切り出すのよね」

 やや密められた彼女の声に、定頼は曖昧に笑って返す。ぴんと弾いてしまった睫毛を、見咎められないように。


「そんなことないさ」

「どうしてそんなに頑なになるの?」

「だから、そんなことは――」

「ある。なにもそこまで、固執することもないんじゃないの」

 あくまでものらりくらりやり過ごそうとする彼を許さず、今日の彼女はなおも食い下がる。定頼はいらいらと、手に持った中啓を鳴らした。

「……余計なお世話だ。放っておいてくれ。君は相変わらず、なんておせっかいなんだ」

「なによ。これでも心配してるんだから。――ねえ、わたしは思うのよ。三つのうちのどの舟に乗ることになっても、あなたにはあなたの世界が、きっとあるって」

 へえ、と定頼は苦々しく笑って片眉を上げた。

「ならば君にもあるってのかい? 源氏物語よりも立派な物語が?」

「……どうして、そんなふうにしか言えないの?」

「同じことだろう」

 悲痛な色を浮かべた瞳を、頬を歪めてめ返す。そもそも、と吐き捨てるように言葉を続けた。

「立ち向かう必要なんてあるのか。壁があるなら迂回すればいいし、風が吹き付けるなら飛ばされてどこへでも流されていけばいい」

「――意気地無し」

 賢子がぴしりと言った。何を、と眉根を寄せてみせるが、絡みあったままの瞳がうるうると見る間に潤んで彼の言葉をさえぎった。

「あんたはただの、弱虫よっ」

 投げつけられた涙声のつぶてに打たれ、声を出すこともできないまま。毒気を抜かれて立ち尽くし、駆け去っていく後ろ姿をただただ、黙って見送るしかなかった。





 ときにくだんの中納言とは数日の後に、図らずも再会する羽目になってしまった。

 今上帝きんじょうていが大堰川へ行幸みゆきなされるにあたり、名だたる貴族たちが供奉ぐぶの列を成すことになった。定頼も、父・公任とともに参列していたのだが、そこにの男も名を連ねていたのである。

 定頼からしてみれば過ぎた事象でしかなかったものだが、彼にとってはどうやらそうではなかったらしい。

 主上おかみは秋の紅葉を存分に楽しまれ、さあ方々かたがた、和歌を寄進せよとの段になる。そこですかさず、中納言が定頼を名指しして推挙してきたのである。

 宮廷への出仕はまだそれほどに長くなく、官位もまだ低い。これほど華やかな場での、ましてや御前での朗詠ろうえいなど、経験があるはずもない。

 すべて承知の上で、中納言はあえて指名してきたのだろう。あわよくば、定頼の失態を目の当たりにして嗤ってやろうとの腹積もりであろうか。ちらりと横目で見やると、にやりと歪められた眼とかち合った。


 公任の視線を感じる。辞退などできるはずもない状況で黙して思案する愛息に、期待と不安に満ち満ちた重苦しい眼差しを向け続けている。

 さわさわと、周囲の空気も落ち着かない。何にも恵まれた美貌の貴公子の初陣ういじんともいうべき詠歌を、今か今かと手ぐすねを引いて待ち構えている。華やかでありつつも無責任で軽やかな人々の渦。


 風の強い日だった。

 定頼はさて、と息を吐く。


 この場において、失敗などというものが果たして許されるものだろうか。

 完璧な父。完璧な息子。それがまかりとおっている今、完璧な和歌うたを作り上げられねば地を這うことになる。

 評価は恐ろしい砦のようだ。成功すれば高みを見せてくれるけれども、ひとたび足元を誤ればまっ逆さまに転がり落ちる。

 ――父にも、認められない。


 和歌など、往年の名歌をそらんじていればかたがつくではないか。当意即妙とういそくみょうなど、その場にそくしてさえおれば既存の作で充分にことたりる。


 この期に及んでもまだ、引用でどうにかならないものだろうかと、必死で思考を巡らしてみる。

 いずれにせようまくやらねば、この盛り上がった空気に水を差してしまうことになるだろう。それよりも何よりも、父の劣化版だと嗤われる結果になるのは死ぬことよりも恐ろしく思えた。


 ちらりと、意気地無しと罵った幼馴染みの顔が脳裏に浮かぶ。その目尻に浮かんだ涙の色も。――だが。

 だがそれでも、己の知識と才をひけらかすのに忙しい連中は好きにはなれないし、そんなもので優劣がつけられてたまるか、と奥歯を噛みしめて顔を上げた。


 その時だった。

 風が一際はなはだしく、どうと吹いた。


 嵐山の山おろしは力強く、唸りを上げて大堰川を震わせた。峰の紅葉もみじを打ち鳴らすように叩いて、どどうと駆け抜けていく。日の光を受け、いっせいに手を振るようにしてちらちら、ちらちらと紅い葉が飛んだ。赤に黄に、明滅しては澄み渡る空を舞い遊ぶ。

 定頼は我を忘れ、その光景に目を奪われた。


 ――紅葉、ああ紅葉。その赤錦で覆い尽くされたこの流れに、さらにまだ赤い雨を降らせているのか。


 戯れて踊り、光り滲み、注いでは充ち、流れて、溢れて。

 秋に輝く陽光は教えてくれた。流れは水ばかりではない。色も音も光も、言葉さえも流れて景を彩る。

 それは心の模様さながら。

 温度をともない熱を帯び、そして心の奥底に眠る泉から涌き出てくるのだ。後から後から溢れ出してきてとどまることを知らない。


 ――そうだな、賢子。私には私の、世界があるな。

 技巧も知識もいらない。己を作ってきたもの、そして己の心の命じるままに、ただ思いを込めて紬ぎ上げればいい。

 紅葉の錦は赤々と燃えるように美しい。その下に隠れる川の流れは鮮やかにはるか。

 みなの驚いた顔が見たい。ねえこれを見て、と幼子おさなごのように声高く教えたい。花が綻ぶように喜ぶ様子さまを見たい。そうして父の、幼馴染の自慢気な顔が見たい。

 そうだ。ただそれだけで、和歌うたは詠めるのだ。

 それはこの自分自身。自分のありよう、そのもの。

 飾ることはない。喜んでもらいたい、伝えたい、楽しんでもらいたい。そんな気持ちさえあれば。――ただそれだけで、和歌は詠めるのだ。


 居住まいをただして、定頼はすうと大きく息を吸った。


「『水もなく 見えこそ渡れ 大堰川――」

 ――今日の大堰川は見渡す限り、赤々とした錦に覆われていて、まったく水がないなぁ。


 やきもきと見守っていた公任がさっと顔を青ざめさせた。これはもはや、駄作と言わざるを得ない。

 大堰川には滔々とうとうと満水がたたえられているし、川を詠むならばそのさまを表してこそ。それをよりにもよって、水もなく・・・・とは。

 同様にして周囲の人々にもざわざわとさざめきが起こった。さてこれはいかに、とそこかしこで囁き交わす。

 定頼は構うことなく、朗々と続けた。


「峰の紅葉もみじは 雨とふれども』」

 (峰からの紅葉が雨のようにとめどもなく、こんなにも降り注いでいるというのにね)


 わずかな間のあと、意表を突かれた人々の間から、怒涛のごとき喝采が巻き起こった。

 上の句で惑わせておきながら、下の句で冗談だよ、と目配せをするような。

誰も彼もが親しみを込めて、そんな定頼の和歌を受け入れたのだ。主上さえもが頷きながら破顔され、近侍の公卿がたもあっぱれと手を打ち鳴らしている。

 公任もほくほくとした顔で周囲の賛美の声に応えているらしい。ついでに中納言の口惜しげな様子もちらりと視野の片隅に映る。


 定頼は大きく肩を揺らし、胸いっぱいに大気を吸い込んだ。沸き立つ歓声と感慨とともにその身に沁み入ってきたのは、しっとりと柔らかな川辺の風。

さても芳醇で清らな、秋晴れの匂いだった。





 その日の夕刻、定頼は何とはなく賢子のもとを訪ねた。いてもたってもいられず、幼馴染みの顔を何故だか少しでも早く見たくなったからだ。

 吹きやまぬ強い風の一日に、我ながら少し高揚しているのかもしれない。まるで童のようだ。なんとも、格好がつかない。

 そう考えもしたが、足は自然と彼女の局のほうへと向かってきてしまった。

 簀の子縁に立ち、ふと思い至って懐から薄様うすようを取り出す。真っ白なそこへさらさらと文字を書き付けるや、丁寧に折り畳んで結び折る。

 頃合いもよく、夜風がさらりと御簾を揺らした。賢子は外に立つ定頼の姿に気がついたらしい。

 こちらへとやってきて簾をたくしあげた幼馴染みに、誇らしげに結び文を手渡す。驚いて目を瞬く彼女に、彼は口角をくいと上げて、新作だぞ、とうそぶいてみせた。

 

『吹く風を いとひもはてじ 散りのこる

        花のしるべと 今日はなりけり』

 ――吹く風を一方的にいとうたりはするまい。だって今日は、今もあなたの胸に散り残った花がどこにあるか、その場所を教えてくれる道案内しるべになるのだから。


 ……なーんてな。










             【了】

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紅葉の錦、有明の風 玉鬘 えな @ena_tamakazura

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