紅葉の錦、有明の風

玉鬘 えな

三舟の才の子



 “三舟さんしゅうさい”という言葉がある。


 平安の世に栄えた藤原家のうち、北家小野宮流の流れを汲む四条大納言・藤原公任ふじわらのきんとうの才能を称えたものだ。

 それは時の権力者であった入道・藤原道長ふじわらのみちなが大堰川おおいがわにて舟遊びを催したおりのこと。

 三つの船を用意し、それぞれ漢文の舟、管弦の舟、和歌うたの舟、とした。居並んだ客分たちのなかから、その道に優れている者を適した船に乗せてく趣向となった訳だが、その際この公任に対してだけ、道長自らが「どの舟に乗るか」と尋ねた。どれに乗っても遜色のない実力の持ち主である公任からは「和歌の舟に乗りましょう」と、答えがあった。

 そうして舟上、公任は朗々と和歌を詠み上げ、人々の賛辞を欲しいままにしたのである。にもかかわらず後になって、

「やはり漢文を作る舟に乗るべきであった。そしてこれぐらいの度合いの漢詩を作ったならば、私の名声もさらに上がることになったであろうに」

などと残念がったのだという。

 一つのことに秀でているだけでも稀なことであるというのに、この男はそのように何事にも優れ、さらに出自も申し分なく立派だ。輝かんばかりの自信に満ちあふれ、その姿はまことに非の打ち所もないような方――。


 それが、定頼さだよりの父親である。


 公任は長男である定頼を、ことさらに可愛がっていた。

 良家の子息であり、一流文化人の血を受け継ぐ定頼はその父の期待を一身に受け、しかしながらその眼差しに応えて幼い頃から見事な多才ぶりを発揮した。公任も、「これがもしもよそさまのお子であったなら、さぞ羨ましい思いをしたことであろう。私はなんと素晴らしい息子に恵まれたものか」と高らかに吹聴してはばからない。

 音楽、読経、書道……くわえて親王家の息女であった母親譲りの美貌を備え、見目も麗しい定頼は誰からも愛される輝かしい少年時代を過ごしていたのである。


 ――とは、あくまでも世間的な見地であり。





賢子かたこ!」


 元服もまだのわらべの頃、定頼とも名乗る前だった鬢頬びんづら結いの少年はある日、幼馴染みの藤原賢子ふじわらのかたこの邸を訪ねた。当時の貴族の屋敷では主流の、築垣に花を咲かせた門前で庭先の梅の花枝を折り取る。そこに、持ってきた文をくるくると手早く括りつけ、妻戸口つまどぐちから姿を現した少女に戯れに投げかけた。

 まだ額髪も短い薄紅の頬、柘榴の汗衫かざみに切袴姿の賢子は、まで歩み出てそれを受け取り、大きな瞳をくるくると動かして彼を見返した。

「なあに?」

「開けてみな」

 かさかさと賢子が文を開くと、中に走り書かれていたのは古歌が一首。


 『筒井つの 井筒にかけし まろがたけ

       過ぎにけらしな 妹見ざるまに』


 この筒井筒つついづつの和歌というものは、伊勢物語にある幼馴染みの男女が大きくなって結ばれる筋書きの話に登場する。

 幼い頃、ともに井戸の井筒と背比べをした私の背は、もう井筒を追い越してしまったようだ、あなたに会わないうちに――と、男から女へ、会いたいと求める恋心を乗せて歌った和歌。

 つまり彼は実際に幼馴染みである賢子に対し、わざわざ花に添えた口説き文句を寄越してきたのである。

 生真面目な賢子は頬を赤らめ、梅の枝を握りしめた。

「もうっ、悪ふざけはやめてっ」

「筒井筒ごっこ。面白いだろ?」

「こ、こういうことは、面白がってすることじゃないもんっ」

「返歌は?」

「へ? 返歌?」

「恋文には返歌がつきもの。さあさあ、早く早く」

「恋文って……じょ、冗談なんでしょっ」

「冗談じゃないって言ったら?」

「え……?」

「伊勢物語の女みたいに、『君ならずして誰かあぐべき』って答えてくれるのかな?」

「え、ええっ!?」

「なんだよ賢子、反応が悪いなぁ」

「そ、そんなこと、急に言われたって……」

 あたふたと困惑して返答に窮した賢子を見やり、ふと、少年が笑みを消した。切なげに眉尻を下げて目を潤ませる。

「そんなに、嫌だった?」

「え!」

 あからさまに肩を落とし、しゅんと憔悴した風を見せる幼馴染みの様子に、賢子はいよいよ狼狽してあわあわと言葉を紡ぐ。

「そ、そんな、嫌とかでは……むしろその、わ、わたし……わたしも……」

「――なーんてな」

「…………え?」

「賢子はすぐ本気になるなあ」

 言って、少年はかかと笑う。賢子はきょとんとして、目を幾度か瞬かせた。

「や、やっぱり、戯れなのっ?」

「恋の駆け引きはいつだって戯れみたいなもんだって、父上のご友人が仰っていたそうだぞ」

「そ、そんなこと……」

「まだまだお子様だなあ、賢子は」

 なおも笑う彼に、賢子はぷっと頬を膨らませた。


 ――そう、少年の頃の定頼は実のところ、絵にかいたようなお坊っちゃん育ちの父親とは一線を画し、なかなかに悪戯好きでいくらもじくれたところのある性分だった。


 けたけたと軽妙な笑い声を上げ続けている幼馴染み。じっとりと恨めしげな視線を投げつつ、賢子も控えめに抗議を開始する。

「そんなこと言うなら、あなただってっ」

「なんだよ?」

「ご自分で和歌も作らずに古歌の引用だけの文だなんて、習いたての童みたいですっ」

 思わぬ反撃に、今度は彼のほうがふくれ面を見せる番だった。

「そうか?」

「そうです! やっぱり、恋の醍醐味は和歌による駆け引きでしょ。男女が即興でやり取りをする手練手管。華麗な言葉の応酬……!」

「……ああ、お前の母上が書いたかの有名な・・・・・物語みたいな?」


 賢子の母は、以前は中宮に仕える名の聞こえた女房であった。その召名めしなを紫式部という。世に有名な源氏物語の作者である。

「そ、そうです! 仮にも三舟の才と名高い大納言さまのご嫡男が、古歌の引用ばかりではかっこ・・・がつかないわ」

「三舟の才か……」

 あからさまにうんざりした様子で、少年は盛大に息を吐いた。

「――なあ、賢子」

「はい?」

三舟の才の子息・・・・・・・が、下手な和歌を披露したら、どうなると思う?」

 ぴくり、と動きを止めた賢子がわずかに瞠目する。それから、手に持ったままの梅の花弁に視線を落とした。

「――お気持ちは、わかるわ」

 名のある親を持つ子ども。それは賢子にも、共通した境遇である。

「正直なところ、下手を打つより尻尾を巻いておとなしく退散したらいいんじゃないかと思ってる」

「……それが良いかどうかは、わたしにはわからないわ」

「お前の母上は口うるさくないからなあ。物語を書いてくれとか、言わないだろ?」

「まあ、それは……言いませんけど」

 だろ、と少年が首を傾ける。そのうらめしげな様子は整った顔立ちに似合わず、ちょっと、情けない。

「こちらはもうすぐ元服なんだ。それが済んで叙爵じょしゃくされれば、宮廷への出仕もすぐに始まるだろう。でも本音を言えば……」

「本音を、言えば?」

「…………ちょっと、怖い」


 もっと幼い頃は、大いなる父の誉れは尊敬と羨望の対象でしかなかった。

 父の光輝は我が光輝。自分からそれを嬉々としてひけらかすようなことさえも、あったかもしれない。

 だが年を重ねていくにつれ、父と自分はそれぞれが個であり、違う人間なのだと気づいた時。

 自分がいずれ、父と同じ家名を継ぎ、父と並び立っていかねばならない存在なのだと気づいた時。

 大いなる誉れは足の下、地中深くより根を張りそびえ立つ巨大な壁と成り果てた。

 その肩にのって見る景色は高く遠く素晴らしかったが、ひとたび越えるべき壁となればそれは厳然と立ちはだかる障碍しょうがいとなる。


 ――なによりも、周囲の期待を裏切ってしまうことの、なんと恐ろしいことか。

 すっかり重たくなってしまった空気にもう一度息をついて、少年は軽く頭を振った


「――なーんてな」

 いつもの軽い口調に誘われて、賢子が顔を上げた。少年の瞳を探るようにじっと覗きこむ。

「冗談だ」

 言って、彼はすいと口角を引き上げ、ちらりと笑った。


 それはいつのときにもよく見せる彼の癖、であった。

 余裕のたっぷりとある男の、そして人に対し常に優位である男の、それからほんの少し斜にかまえた姿勢で世を眺めていた彼の。その象徴たる微笑であったように、賢子の眼には映っていた。





 冗談だ、という言葉は彼にとってはなんとも役に立つ言葉であった。

 嘘か真か判然とせぬことをほのめかして言うことで人が惑い、こちらをうかがうように見上げてくる。そこへこの言葉をもって麗しい笑みを見せると大抵の人間は喜んでくれた。

安堵とともに目を和ませ、親しみの籠った色を滲ませて彼を受け入れてくれる。


 もちろん、女を口説くのにもおおいに使えた。

 平安の世の習いに従い、男は多くの女を狩りに出掛けるべきものと、元服を済ませた後の定頼は心得ていたが、彼のように姿形の優れた者は時として気取っているだけのつまらない男として認識されてしまうことがあるもの。

 だがこのやり口ならば、彼は無邪気な仔犬のようにするりと女の懐に忍び込み、さらには眠る母性本能をさえ存分に引き出して、驚くほどに女の心を彼に惹き付けた。名高い名家の姫君や恋上手な女房たち、そのどれに対しても、効果は抜群であった。

 彼の最大の魅力といえるところ――そしてある意味では少々、いや多分に厄介なところは、その行動が意図したものではなかった、ということだ。

 それは定頼というべき人間性そのものであったし、彼は自身の利というよりは、そうすることでまわりの人々が喜ぶ顔を、ただ見たかっただけなのであった。


 だからおそらく、それは彼の強力な武器となりえたのだ。あるいはもしかすると、免罪符のような。


 彼は女子おなごに非常にもてはやされた。

 その決して意図的ではない自然なあどけなさが女心のどこかしらに引っ掛かり、そのうちに誰も彼もが、定頼は自分が見守っていてやらないといけないのではないかと思い始めてしまうらしい。

 親心にも似た特別な意識を持ち始め、気にかけ、そのうちに訪れを甲斐甲斐しく待つようになる。そうして誰もが、いつのまにやら彼がいない夜に胸がつぶれそうになってしまっている自分に気づくのである。


 定頼はいつも、文のやりとりには古歌を引用した。数多くの浮き名を流した名歌人・在原業平ありわらのなりひらをはじめ、その業平の再来とも言われるほどの才覚の持ち主であった藤原実方ふじわらのさねかたらの、艶やかな名歌をよく拝借した。

 その場に応じた有名な和歌でまわりを喜ばせ、自分もひとときの充足を得る。それで充分ではないかと、ずっと、そう思っていた。






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