弐章 かどわかし蔵巡り

壱話 夢

がくんという大きな振動をきっかけに、家は大きく揺れだした。

地震だった。

だから私は、咄嗟に机の下に潜り込み、揺れが収まることを待とうとしたのだ。

が、「火事だ!」と聞こえたからには仕方がない。こちらも火達磨になりたくないので、机を飛び出して、そこら辺にあった雑巾で頭を覆うと、そのまま母の位牌だけを持って大きく揺れる家から一目散に脱出した。


──そこは、地獄だった。


お隣さんの家も、そのまたお隣さんの家も全て、全てが、燃えていた。そして、うちも例外ではなく、既に轟轟と凄まじい勢いでその全身から炎を吹き出していた。

火の粉が飛び散り、私の頬を撫でる。ちりっと小さな痛みが全身を駆け巡った。

「嘘…?!」

全く気付かなかった。いや、気付かないことなんてあるのかと、これは夢ではないかと思い込みたい程に轟轟と激しく燃えている。

でも火の粉が散った時の鋭い痛みが、目が焼けてしまうのではないかと思うくらい熱くて熱くて堪らない熱風が、息が出来なくなるほど濃い真っ黒な煙が私の体を包む度、これは夢ではないと私に囁きかけている。

外はこんな状況だったというのに、もしあのまま家の中に居たら、私も全ての思い出と共に灰と化していたのではないか。ぞおっと、背筋が凍る。

再び大きくぐらぐらと揺れる。今度はかなり長い揺れだった。そのまま立っているのが難しくなって地面に這いつくばる。揺れる度、燃える家々は火と共にはらはらと崩れ落ち、その破片は炭となって消えていく。炎を未だ吹き出しつつ段々その原型を無くしてゆく我が家の姿に、ご近所の姿に、街の姿に、涙が止まらない。

「あやちゃんかい?!」

遠くから声が聞こえた。

いつもお世話になっている、近所の優しいおばさんだ。頭と口元を雑巾かなにかで覆っているが、着物は破れ全身は黒い煤まみれで、よく見るとあちこち血が滲んでいる。

「おばさん!」

おばさんにふらふらな足取りで必死に駆け寄り、そして抱きつく。周りには他に誰もいなかった。自分だけが地獄と化したこの世界に取り残されてしまったようで、怖くて怖くて仕方なかった。

おばさんはしっかり私を抱きとめると、そのまま強く強く抱き締めた。

「よかった、本当によかった……!」

おばさんの大粒の涙が私の頭に落ちる。

「…そうだ、父様と菖人は?!」

腕の中からおばさんを見上げる。

今まで自分の保身に気を取られすぎていたのか、ここで漸く二人が脳裏をよぎる。なんでかは覚えていないが、二人とも家に居なかった。なんとか逃げてくれていると信じたいのだが。

おばさんは、優しく微笑んだ。

「おばさんね、避難所で父様と菖人君に言われてここに来たのよ。菖ちゃんがまだ家に居るはずだって。二人ともお怪我しちゃってたし、何より私も心配だったからね、飛んできちゃったわ。」

その言葉に、足の力ががくんと抜けた。その場にへなへなとへたり込む。

「よかった……本当に……。」

ぼろぼろと涙が止まらずに、土に落ちてそのままじんわり滲んていく。

家族が無事で、本当によかった。

しかし、他にも何か、何かを忘れているような気がする。

なにか、もっと大切なことを。

「それより、避難所に向かいましょ。ここは危ないわ。」

はい、とおばさんはてきぱきと手拭が私の口元を覆うように顔に結び付けた。

無言で頷いて、おばさんの手を借りて立ち上ががり、走る。

走って、走って、息も絶え絶えだったけど兎に角頑張って走った。

そこら中が火の海で、そしてもぬけのがらだった。

そして、大きな丁字路に辿り着く。

「ここを左に曲がってまっすぐ行けば避難所よ!」

おばさんは叫ぶ。うんと頷いて、左に曲がる。見慣れた風景が、火達磨となって通り過ぎてゆく。

しばらく走ったところだろうか。ある風景が目に飛び込んできて、思わず立ち止まった。

それは、一本の大きな梅の木だった。

周りが轟轟と燃え盛っている中、たった一本、その梅の木だけは炎を免れ、青々とした葉を大きくざわざわと揺らしている。

「どうしたの?」

おばさんが私の顔を覗き込む。

……なんてこと。なんでこんなに大事な人を忘れていたのだろう。

足が動かない。

弥生の時、この梅を見て『春だな』と私に語りかけていたあの人の姿が、ここにきて漸く頭の中で再現されていく。

ぽっかりと、記憶の中から消えてしまっていたあの人のことを、姿を、声を、私の知る彼のその全てを、徐々に鮮明に鮮明に、思い出してゆく。

「署長……」

「え?」

そうだ。どうしてもやりたいことを、思い出した。

おばさんに母の位牌を手渡して、くるりと反転、そして駆け出した。足が、漸く動いた。

「ちょっと、あやちゃん?!」

「おばさんごめん、私、やりたいことができた!すぐ、戻るから!」

振り返ってそれだけ叫ぶと、全力で来た道を戻る。

あの丁字路を東に曲がる。

あとは大通りを駆け抜けるだけ。

人々の流れに逆らいながら懸命に駆ける。

どうせ、あの人のことだから無事だろう。避難所以外のどこかに、避難してしまっているかもしれない。なんとかなると高を括って、事務所に留まっているかもしれない。

でも、そんなのなんでもいい。どうだっていい。

「間に合って…!」


署長がどこかへ、消えてしまう前に……!


とにかく全力で走って、走って、そして漸く事務所が見えてきた。

「もう少し……!」

でも、ここにきて、普段から運動を滅多にしない私の体力は、遂に限界を迎えた。

「きゃっ?!」

足がもつれ、そのまま勢いよく地面に体が叩きつけられる。

「いったぁ…。」

口の中にじゃりじゃりとした土の味と、ほんのりじんわり鉄の味。体を駆け巡る数多の痛み。体に力が、入らない。

「あと、少しなのに……!」

手を必死に伸ばす。その手は事務所を掴もうとするかのように、空を握る。

息が出来ない。それでも必死に酸素を体に取り込もうと喘ぐ。体は、一向に動かない。

「立ち上がりたいのに……!」

痛くて痛くて、堪らない。でも私は、こんな所で止まっているわけには、いかない。

全てが、手遅れになる前に。

腕で体を支えるべく、体の下に腕を滑り込ませて力を懸命に入れる。暫く粘って、漸く体を起こすことが出来た。あとは、立ち上がるだけ。


だけだったのに。


「危ない!」

悲鳴にも似た、耳を劈くほど甲高い、大きな声。

地面が唐突に暗くなる。

ゆっくり空を見上げると、真横にあった家が、私めがけて崩れ落ちてきていた。

「あ……」

体は動かない。指一本たりとも動かない。頭は真っ白で、最早なんにも考えつかない。ただ呆然としている間にも、徐々に家だった残骸は、私を貫かんばかりの勢いで、数多の悲鳴を伴って落下してきて、


そして、そのまま私の体に深深と───────。



「起きて。」

ん?

そして─全身をぞわりと駆け巡る、冷気。

「寒っ!」

目が半強制的に開いた。体が反射的に縮こまる。

見上げた先には見慣れた木目の天井に、呆れた目で私を見下ろす見慣れた顔。弟こと、菖人である。その手には、剥ぎ取られた私の掛け布団がしっかりと握りこまれている。

「姉さん、寝すぎです。」

はたまた呆れ顔で言うもんなので、私はゆっくりと体を起こす。

「おはよう。」

「おはようございます。」

全身汗だくかつ少し火照っていたので、今ではこの冷気が心地よく感じる。

みっともないほど乱れまくっていた寝巻きを少し整え、菖人の顔を見る。

「今何時?」

「姉さんが朝餉を抜かないと、学校に間に合わないほどの時刻です。」

なんと。これはいわゆる朝寝坊。

しかし、あれは夢だったのか。試しに頬を抓ってみるも、何も起きない。夢だったのだろう。

にしては、やけに痛みも熱気も現実的で、到底ただの夢だったとは思えない。

(いやほんと、なんだったんだろう…)

「……姉さん?」

思わず考え込んでしまった私の顔を、菖人は訝しげに覗きんこんできた。

長閑な春の日差しが体を包み込み、残っていた眠気が助長されてゆく。しかもあの夢のせいか、全く寝た気がしない。それになんだか、寝不足のせいだかなんだか知らないが、頭が痛い…気がする。そして、眠い。

ならば、私が今やるべき事は一つだけだ。

「…ねえ、菖人。今すぐ、父様にお伝えしてほしい事があるんだけど。」

「なんですか?」

怪訝そうな顔で私を見下ろしている。その完全に油断しきっている菖人の手から、ばっと手を伸ばして掛け布団を取り戻すと、その勢いのまま頭から被って急いで布団に横になり、中に潜り込む。

「姉さん?!」

布団の外から慌てふためく菖人の声が聞こえてくる。布団を掻きむしろうと外から布団を掴もうとするが、私の鉄壁の護りに手も足も出ていない。私を引き摺りだそうと四苦八苦している彼を横目にほくそ笑みながら、私はこう言ったのだ。

「私、今日学校お休み致しますって。」

私は今から、ずる休みをしようと思う。

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撫子乙女の夢想奇譚~謎は妖怪と共に~ しもうさ @Shimousa-15

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