1話 あなたの手
長いトンネルを抜けると、視界が開けた。あまりの眩しさに目を細める。
細めること数秒、ようやく明るさに慣れ、眼前に広がる絶景を目の当たりにする。辺りを山に囲われ、その中に寂しく、それでも悠然と佇む小さな村。
車に揺られはや3時間。この閉鎖的な空間にはるばる都会から引越してきた。というのも、父さんの仕事の関係上仕方のないことだった。──こんなところに仕事があるのか心底疑問に思うところもあるが、あえて聞かないようにしている。
後続には引越センターのトラックがついてきている。到着するなり作業を開始できるような算段だ。
「見えてきたわねー」
後部座席に座る母さんが助手席の背もたれに顎をのせる気配。生まれてからこのかた助手席を死守してきた僕には振り向かなくともわかるという変わった能力が備わっていた。
「あと10分ぐらいだな」
長時間の運転にもかかわらず、疲れを一切見せない父さんはむしろ笑顔だ。
手に持っていたスマホに視線を落とす。時刻は既に3時を過ぎていた。これから到着して荷降ろしを終えるのは4時半頃だろうか。だとしたら村を見て回るのは明日になりそうだ──。
〇〇〇
「ご利用ありがとうございました!」
重労働のあとだというのに元気いっぱいの引越し業者を見送り、家の方に向き直る。
3LDKの平屋、さらにそこそこ大きな庭もついている良物件で、両親も即決したという。集落から少し離れているという難点はあるが、僕も気に入っている。
「さ、荷解きしちゃいましょ。夕飯早く作りたいからキッチン周りのものから解いてちょうだい」
そう言われ『キッチン』と書かれたダンボールの口をどんどん開けていく。母に「この食器はどこ」だとか「これは」などと聞きながら一通りキッチン周りのものの荷解きを終える。
と、そのタイミングで。
「こんばんは」
来客があった。どうやら女の人のようだ。
「はーい」
母さんがパタパタと玄関に小走りで向かっていく。その背中を目で追っていると、
「ほら、手止まってるぞ」
父さんに催促され、いつの間にか止まっていた手を再び動かす。どこか聞き覚えのある声だが、思い出そうとしても思い出せない。
ただの気のせい、か。
しばらくして母さんが戻ってきた。その頃にはほとんどのダンボールが解体されていた。
「ごめんなさい、つい話が盛り上がっちゃって」
謝罪をしている母さんはどこか落ち込んでいるように見える。──謝罪しているのだから当然か。
これから夕飯を作るとなるとしばらく暇な時間ができそうだった。ふと僕は言葉にしていた。
「じゃあ外行ってくる。夕飯までまだ時間あるでしょ?」
「そうねー⋯⋯わかったわ。気をつけてね。冷えると思うから上着を忘れずにね」
「うん」
上着を羽織り、家を後にした。
〇〇〇
周りにあるのは田んぼだらけの家の前の道をしばらく歩いていると、ようやく集落にさしかかり、そして小さな公園が左手に見えてきた。どこか昭和風な雰囲気に僕は魅了され無意識に公園へ入っていた。
全ての遊具が錆びついていて、そのうち滑り台は特に酷かった。小さな砂場ももうしばらく遊ばれていないのであろう。せめてもの慈悲か雨風が優しく撫でつけ、綺麗に
紅の空を眺めながらブランコに座った。
どこまでも紅く、そして涼しい夕日はこれから訪れようとしている空虚な闇に必死に抗っているようにも見えた。ぎぃ、というブランコの軋む音も相まって一層虚しい気持ちにさせられた。
と、そこへ。
「こんにちは、というより、こんばんは、の方が正しいかしら」
声の方を向くと、1人の少女が立っていた。
肩よりも少し長いくらいの茶髪で、華奢な体躯ながらも胸部は年相応に膨らんでおり、その体躯と相まって一層強調されている。長丈のスカートと上は黒のカーディガンを羽織っていた。
しかし、それよりもさらに目を引くものが彼女にはあった。
──目だ。
左右で異なる色をした目。どちらも淡い色をしており、右が赤、左が青になっている。──
それでもなお、僕が言葉を発することができたのは先に話しかけられたから、そして何より聞き覚えのある声だったからかもしれない。
「え、えーと⋯⋯君は確かさっき⋯⋯」
「そうよ。さっきあなたのお母様とお話させてもらったわ。改めてよろしくね」
「うん、よろしくね⋯⋯」
そこで僕の意識は再び彼女の瞳に縛り付けられた。
「⋯⋯どうしたの?そんなに私の顔を見つめて」
言われて初めて気づく。
──僕の意識は彼女の瞳ではなく、彼女自身に釘付けになっていた、と。
「ごめん、なんでもないんだ」
見透かされているようで怖い。それでも僕は平静を装って淡々と話した。
「僕の母さんとは何を話してたの?」
「大したことじゃないわ。単なる挨拶。私、あなたの通う高校の生徒会長やってるの。いろいろと話すこともあるのよ」
「そうなの?」
何をそんなに話す必要があるのだろうか。素朴な疑問だ。
「ねぇ、握手しましょ」
と、僕の質問の答えとは到底思えない返事が来た。むしろ要求だ。
「いいけど⋯⋯」
そしてお互い手を握る。細くて柔らかくて、温かい手に僕は自分の手汗が心配になった。
「⋯⋯ありがとう。何度目かわからないけど、でも、改めてよろしくね。廉くん」
そう僕の名前を告げて彼女は手を離した。
翌朝。僕の両親はそそくさと出勤した。ただ1つだけ気掛りがあった。
「廉、くれぐれも無茶するんじゃないよ」だの「最終的に帰ってくるところはいつもここだからな」だの、今生の別れまでとは言わないがそれなりに長い別れでもするかのようなセリフの数々に僕は首を傾げていた。と、そこへ。
「おはよう、廉くん」
昨晩とは全く違った印象を与える少女が玄関に立っていた。
「おはよう」
先月店先に並んでいた僕の通う高校の学校指定の男子生徒用の制服。その隣にあったものを彼女は着ていた。紺色も似合う少女だ。
そこで僕は気づいた。
「そういえば、きみの名前、まだ聞いてない」
「あら、そうだったかしら?」
言葉でそう言ってても顔は本当のことを言っている。そしてそれをわざとやっている──。理由はわからないが。
「私の名前は
「⋯⋯覚えた。ありがとう」
その名前が自然と頭にすっと入ってきて、そして落ち着いた。不思議な感覚に困惑しながらも会話は続く。
「実はこのあと、生徒会の集まりがあるんだけど、廉くん顔出してみない?」
「え?なんで僕が?」
「ほら、あなた転入生じゃない。何かと生徒会の面倒になりそうだし、一応、ね」
とは言うものの、僕は納得できなかった。僕は頭をかいた。
「うーん⋯⋯遠慮しておくよ」
「そっか⋯⋯」
落ち込む彼女の顔は本気だ。でもそんな表情はほんの一瞬の出来事で。
「じゃあその代わりお墓参りに付き合って」
「⋯⋯え?」
どうすれば学校に行く代わりがお墓参りなのかと心底疑問に思ったが、ここで首を横に振るのはどうも
「わ、わかった。わかったからそんな怖い顔しないで」
「ふふ、いい子いい子」
こうして僕たちは山の方にあるという墓地を目指して歩き出した。
──360度どこを見渡しても山なわけだが。
〇〇〇
目的の墓地は、僕が通うことになる高校の裏山に位置するところにあった。というのも、「ここが廉くんの通うことになる学校よ」と道中、沙貴に説明されたのだ。
その墓地は山の中にありながらもしっかりと管理されていて、雑草が生い茂っていることもなければゴミひとつなかった。
道中と変わらず僕と沙貴は隣合って歩いていた。
「ここよ」
他の墓石よりも圧倒的に金額が違うであろう豪華な墓石がそこにはあった。──こういったことを言うのは正直躊躇われるのだろうが、だがどう見ても位が違うのであるから仕方がない。うん、仕方ない。
「すごい⋯⋯立派だね」
その印象は心の内に留めておこうと思っていたのだが、思わず口に出ていた。それでも彼女は全く気にしていない様子だった。
「ほら、早くお供え物用意して」
「ごめんごめん、今するよ」
来る途中に寄った小さなスーパーでりんごやロウソク、線香などお墓参りには欠かせないものを買っておいた。手際よく準備していく沙貴はお墓参りに慣れているようにも見えた。
「これね、お父さんとお母さんのお墓なの」
「え⋯⋯」
その最中に発せられた言葉に僕は絶句した。
「私がまだ幼い頃に、交通事故で死んじゃって。共働きだったから子守り代わりに家政婦さんみたいな人を雇ってたから、死んだ後にそれほど苦労はしなかったけどね」
「でも⋯⋯それって⋯⋯」
その僅かな言葉だけでもわかる、僕には到底おしはかることの出来ない、彼女の苦労と悲しみを。
「ごめんね、こんな重い空気にするつもりはなかったの。ほら、笑ってよ!私のお父さんとお母さんにいい顔見せて⋯⋯」
僕の心情を悟ってか、彼女が僕を励ました。本来あるべき形は逆なのに。情けないなと思った。
「⋯⋯うん、そうだね」
努めて僕は明るく振る舞うことにした。そうでないとまた悲しみの渦に飲み込まれてしまいそうでならなかった。
気づけば綺麗に準備された墓前。僕と沙貴が立ち、手を合わせる。と、そこでようやくある疑問が浮かぶ。
お墓参りが終わり、帰路についた時、沙貴に問うた。
「ところで、どうして僕を沙貴の両親のお墓参りに?」
「いいじゃない。成り行きよ成り行き。男なら、まーいっか!的な感じで流しなさいよね」
「それができないから困ってるんだよ」
そこで再び先程の視線の圧が。
「わかった!あっははははー!まーいっかー!」
無理に笑い、無理に流すことで彼女は満足したようだ。
彼女に反抗するのははあまりしない方が得策だ、という教訓はこの時学習した。
○○○
このあとまた廉くんのお家にお邪魔するかも、という冗談を残して沙貴は校門をくぐっていった。今日はもう勘弁して欲しいというのが本音だ。
さて、家に帰ったら何をしようか⋯⋯。などと考えながら歩きスマホをしていると、風が吹き始めた。それと同時に前方から足音が近づいてきた。避けるべく視線を上げると、その足音の正体は僕がこの春休み明けに着ることになる制服の下に紺色のカーディガンを着た1人の青年だった。つまりは同じ高校の生徒だ。
「あれ、君もしかして廉くん?」
唐突に声をかけられ、僕は再び落としていた視線を上げる。公園ではしゃいでいた頃の面影が残る顔とは裏腹にネクタイの色は今年の3年生を表す緑色だ。──同学年、か。
「そうだよ。なぜ僕の名前を?」
「千堂さんから聞いたんだ。今年、転校生が来るってね」
「そっか。また質問だけど、どうして僕が廉だってわかったの?」
「顔だよ。いかにも廉!って感じの顔してるからね」
一体どういうことだ!などと心の内で突っ込みつつも、外面では苦笑しておく。
ふと、彼の装いに疑問を抱いた。
「ところで、春休み中なのにどうして制服を?」
「ん?ああ、これね。いつもの癖で外出する時も制服着ちゃうんだよね。まだ春休み前の感覚が残ってるみたい」
あははーなどと今度は彼が苦笑した。
「そういえばまだ名乗ってなかったね。僕は
どこかの忙しい生徒会長さんと同じく握手を求められ、それに応じる。
「慈針なんて珍しい名字だね」
口に出してかなり失礼なことを言ったと後悔した。
「家の歴史が長いみたいで、この村ができた時から続くらしいよ」
「そうなんだ······」
まともな返答ができなかった。
「このあとさ、何か予定あったりする?」
「え?」
じゃあ、また。と話を終えようとしたところに投げかけられた質問に、動き出した足を止める。質問の答えに困ったが、情けないことに朝から歩きっぱなしの足が悲鳴を上げていたので嘘をつくことにした。
「うーん、家の用事があるから······。ごめんね」
「あーいや、いいのいいの。もう少し話したかっただけだから。学校始まったら嫌でも会うことになるんだしね。そうそう、これだけ言わせて」
そこで辺りの空気が一変し、肌寒くなったように感じた。
「生徒会長の言うことは絶対に守るんだよ。何があっても逆らっちゃダメだからね」
真剣な表情で何を言われるのかと思いきや、ごく当たり前の事を言われて拍子抜けした。いわゆる『学校の風紀を乱すな』というやつだろう。
「もちろん。今までそんなことして来なかったし大丈夫だよ」
そう言うと彼は満足そうに頷いて「じゃあ、また」と言い残して去っていった。
僕も家路を急いだ。
ふと振り向いた時には、その姿はもう消えていた。
奥にそびえ立つ高校の校舎が異様に威圧的に見えた。
祀りモノ 蒼井 碧斗 @aoi-aoto
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