お兄ちゃんと私

夜野うさぎ

お兄ちゃんと私

 初めて会ったのは何歳いくつのころだったろうか。記憶が定かじゃないほど幼いころから、私の心にはお兄ちゃんがいた。


 その頃の私は、お兄ちゃんが欲しいと言い続けていたそうだ。突如としてそんな私の目の前に従兄弟いとこの男の子が現れたわけで、その出会いのときから私はお兄ちゃんにべったりしていたらしい。


 夏や冬の長い休みの時には互いの家に泊まりに行ったり、一緒にお風呂に入ったり、お祭に行ったり……。


 4つ年上だったお兄ちゃんには弟が3人いたこともあって、私の面倒もよく見てくれた。

 大好きなお兄ちゃんのお嫁さんになりたい。

 そんな思いを懐くようになったのも自然だと思うし、幼いながらに、実際にお兄ちゃんにお嫁さんにしてってお願いをしていた。


 不幸にして親の転勤のために、ぐっと遠くに離れて暮らすことになり、会えない年が続いた。

 私の方は中学生、高校生になり、人並みに他の人を好きになってお付き合いもしたけれど、卒業と同時にその思春期の恋も終わりを告げた。


 大学生になって、都会に上京。一人暮らしをすることになった。

 ある時、成人した私は、友だちに誘われて一度くらいは行ってみたいと思っていたクラブに行ってみた。これは失敗だった。いい気持ちになっている間に、いつのまにか借金を背負わされていて、私は震え上がった。このままだと大変なことになる。


 あわててお父さんに連絡をした。

 どうにかお父さんが支払ってくれたけれど、都会は怖いところだと心底思った。

 私みたいに田舎から上京した芋娘を転がすなんて、お店に取ってみれば赤子の手をひねるように簡単なことだったろう。

 私もうわついていた。たとえ友だちに誘われたからといって、もっと慎重にならなければいけなかった。


 後から聞いた話だけれど、この時、お父さんからお兄ちゃんの親へもお金の無心をしたらしい。

 おじさんとおばさんのところで話は止めてくれたらしくて、お兄ちゃんに知られなかったのは幸いだったと思う。


 本当に安全とわかるところ以外は行かないようにして、どうにか大学を出たけれど、そのまま都会から逃げるように親元に戻り、地元で就職をした。


 それからほどなくして、親族の集まりがあって、久しぶりにお兄ちゃんと再会をした。

 小学生以来で会うお兄ちゃんは、立派な大人になっていて、やっぱり私の憧れだった。目を細めて私を見ているお兄ちゃんの微笑みは優しい。

 けれど私とお兄ちゃんの間には距離ができていた。もっとお話をしたい。お兄ちゃんはどんな学生生活を送ってきたのだろう。彼女はできたのか、今もいるのか。そう思っていたけれど、その機会はとうとう訪れなかった。


 残念だったけれど、この時はそれよりも再会できたことがうれしかった。


 それから2年が経ち、おじさんとおばさんがお兄ちゃんの結婚相手を探しているらしいことを聞いた。

 なんでも遠距離恋愛中の相手がいたらしいんだけど、別れてしまったらしい。

 私はチャンスだと思った。お兄ちゃんと結婚できるかもしれない。お父さんとお母さんに申し出ると、2人とも後押ししてくれて、おじさんに伝えてくれるという。


 まだ返事をもらえたわけではないのに、私はうれしかった。お兄ちゃんとの結婚生活を想像して、ベッドの中でもだえていたりした。

 けれど、私の願いはかなわなかった。


 お兄ちゃんはいいと思ってくれたらしいけど、おじさんとおばさんが許してくれなかった。

 理由を聞いて、私はお父さんとお母さんを恨んだ。


 ちょうど一年前。うちは借金が重なって、おじさんとおばさんにその一部、といっても多額のお金だけれど、立て替えてもらっていたのだった。愚かにも、私はまったく知らなかった。

 ショックだった。きっと向こうに取ってみれば、借金のある所の娘を嫁に迎えるわけにはいかないと思ったことだろう。


 なんでこんなことになったんだろう。後悔ばかりがつのった。


 私はお兄ちゃんと結婚できない。


 断られたこともそうだけれど、向こうに拒絶されたという思いが私を苦しめた。

 たしかに以前の私自身のこともあるから、自業自得かもしれない。それでも胸が引き裂かれるように辛く。頭では分かっていても、自責の念にかられ、夜ひとりきりになるたびに泣いていた。


 それから2年後、お兄ちゃんはとある女性を紹介されて、トントン拍子で結婚してしまった。


 私の方は、お兄ちゃんへの思いを引きずりながら暮らしていたけれど、3年後に一人の男性を紹介してもらった。

 相手の人は自衛隊の人で、寡黙かもくで実直そうな人だった。この男性が私の夫となった。

 気難しいところもありそうだけれど、根は真面目な良い人。お兄ちゃんと結婚できなかったことは辛いけれど、この人を私は支えていこうと思った。


 職業柄、長期に家をけることも多かったけれど、私は働きながら留守を守った。彼の方も、私の方も、近くに実家があったのは幸いだった。

 夫との間に2女1男の子供を授かった。特に最初の子供は切迫せっぱくで予定よりも随分と早く生まれてしまった。

 いつ死んでもおかしくはない状態だったけれど、長女は小さい命を懸命に燃やしつづけ、どうにか体重が増えていってくれた。私は見守ってくれていたであろう神さまや仏さまに感謝した。


 このころに実母が亡くなり、ちょうど夫が長期不在の時期であったこともあり、葬儀の間だけ長女を連れて実家に戻った。

 お父さんは喪主もしゅを務めなければならないから気丈に振る舞っていたけれど、心の中ではひどくショックを受けているようだった。

 まだ長女はミルクが必要な時期で、満足にお手伝いはできなかったけれど、母方の親族がよく動いてくれて無事に葬儀は終わった。


 お兄ちゃんも母の葬儀に来てくれた。合間に長女を見に来てくれて、抱っこまでしてくれた。


 子育てしっかりな。

 帰り際にそう言われて私はうれしかった。


そういえばお兄ちゃんのところは1女2男で、一番下はこの子の4つ年上。奇しくも私とお兄ちゃんと同じ年の差だ。

 私たちは無理だったけど、将来、この子がお兄ちゃんのところの男の子と結婚したりして。そう思ってしまったけれど、これは誰にも言わないでおこう。


 子育ては大変だった。夫が不在のことも多いこともあり、そのすべてが私にかかってきていた。3人の子供たちが大きくなるにつれ、お父さんとお母さんの苦労がわかる気がした。


 一番下の子が20歳はたちを迎えたころには、私は60歳になっていた。

 お父さんもすでに亡くなっていて、夫も事故で早くに亡くなっていた。お世話になっていた周りの人たちが、一人、また一人と亡くなっていく。

 父の七回忌の法事で親族が集まると、かつての子供たちが母になったり、その更に子供たちが小学生になっていたりで、随分と若い子が増えたと思う。


 法事が終わって食事会を済ませ、何とはなしにお店の玄関口にある椅子に座って、小さい子供たちを眺めていると、隣にお兄ちゃんがやってきた。

 白髪が増えたけれど、相変わらずの柔らかい目で私を見ている。

 かつてほのかに夢見たように、お兄ちゃんの子とうちの子が結婚するようなことはなかった。こうしてお兄ちゃんの微笑みを見ていると、それがちょっと残念に思う。


 お兄ちゃんのところは子供たちももう独り立ちし、それを待っていたかのように奥さんが病気で亡くなっていた。

 それからもう何年が過ぎているだろうか。


 なあ、……俺の所に来ないか。


 その言葉が耳に届いたとき、年甲斐もなく胸がときめいた。若かったころの気持ちがよみがえってきそうになる。そんな気持ちを押しとどめた。


 うれしいけど、ちょっと無理かな。


 もうお兄ちゃんと一緒になるには、私たちにぶら下がっているものが多すぎる。あの頃のように、身一つで飛び込んでいくようなことは、もう、できない。

 ただ、こう言ってくれたお兄ちゃんの思いが、とてつもなくうれしかった。


 そっか。それもそうだな……。


 つぶやいたお兄ちゃんと手を繋ぎたくなったので、かわりに腕をポンポンと叩いて、でも、ありがとう。と告げて我慢した。



 あなたはいつまで経っても、私の憧れのお兄ちゃんだよ。

 心の中でそうつぶやく。


 きっと一緒になれる選択肢もあったと思う。けれど、いろいろな事情に流されて、私たちは今こうしている。

 夫との出会いも結婚生活も後悔はしていない。私は間違いなくあの人を愛していた。

 子供たちも孫も、言えば再婚を応援してくれるだろうけど、それでも、これでいい。


 大人になる。年を取ると、色々とままならないものだ。まっすぐに行動できるのは、若い時だけ。ちょうど今の孫たちのように――。




◇◇◇◇

 それから30年の時が流れ、すっかりお婆ちゃんになった私は病院にいた。

 曾孫ができ、穏やかな日々を送っていたけれど、最近はぼうっとしていることが多くなっていた。

 すっかり同年代の友だちもいなくなった。親族のなかでも、私は気を使われる立場になっている。

 幸いにお兄ちゃんもまだ生きていたので、何かの集まりの時は並んで席を設けられていたものだ。



 病室の機械の音を聞きながら、懐かしい夢を見た。


 幼いころの夢。お兄ちゃんと遊んだ日々。あんなにも輝いていた私の原点。



 ふと誰かが私の手を握っているのに気がついた。目を開くと、そこには同じようにお爺ちゃんになったお兄ちゃんがいた。


 深いしわの刻まれた目もとが、かつての眼差しで私を見ている。

 知らずのうちに口元に微笑みが浮かぶ。


 2人そろって、こんなに長生きするなんて。


「お兄ちゃん……」

 そうつぶやくと、お兄ちゃんは微笑みながら私の髪を撫でてくれた。


 私の名前を呼ぶお兄ちゃんの顔を見ていると、すうっと眠りに落ちていくように気が遠くなっていく。


 私の人生はここまでみたい。

 でも良い人生だったと思う。


 きっと遠からずしてお兄ちゃんもこっちに来ることだろう。

 薄れていく意識の中で、私はお兄ちゃんに語りかけた。


 ――大好きなお兄ちゃん。来世でもまた、一緒に遊んでね。ありがとう。




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