1/1③


 バスから出てふと空を見上げると、東京では珍しく良く晴れた空だった。

 冬らしい透明な水色に、自分の白い息が吸い込まれていく。


 俺は小走りに、バスのロータリーから東京駅の入口へ向かった。

 今日もその場所は、人でごった返している。駅から出る人波、駅に入っていく人波がぶつかり合っている。


 俺はいそいそと駅に向かって進んだ。入り口を意識しているせいか、駅から出る老若男女の顔が、ぼんやりとしか映らない。

 その中の一人、赤い傘を目深に差して、ジーンズ姿の男と、すぐ隣ですれ違った。


 俺は足を止めて、振り返った。

 この寒空の下で、額から汗が滲む。


「待てっ!」


 鋭く呼びかけると、何人かが驚いて振り返った。

 赤い傘を差した男だけが、ゆっくりとこちらを向く。


 浅く短い呼吸を繰り返す俺の顔を見て、多くの人は去っていった。

 こちらを向いていたままなのは、赤い傘の男だけ。


「お前は……」


 俺は相手に詰め寄り、文句を言うつもりだった。

 しかし、足も言葉も、男が傘を上げて、顔を俺に見せた瞬間に止まってしまった。


 赤い傘の男の髪の毛は、真っ白だった。

 淡い青色の瞳は、穏やかな笑みの形を作られている。


 俺は、息を呑んだ。心臓が早鐘を打っている。


 あいつは、俺だ。

 隣のお姉さんと出会っていなかった、俺の可能性の姿だ。


 ……自宅の火事の後、新しい家は通っている学校の校区内で見つかったので、俺は転校せずに済んだ。しかし、当然のことながら火事と火傷のことは学校中に知れ渡っていて、俺は腫れ物扱いされていた。

 先生は体育の授業に参加させるかどうかで悩み、友達から遊びに誘わる回数が減り、所属していた野球チームとの交流は完全に無くなった。


 それでも俺は、学校に通い続けた。

 お姉さんが言っていたような、かっこいい左利きの探偵になるために、それまでおざなりにしてきた勉学にも、必死に取り組んだ。


 もしも、俺が探偵を目指していなかったら、と考えることがたまにある。

 自分が引いてしまった貧乏くじに絶望し、白い目を向けてきた人々に憤りを覚えて、彼らに対して復讐を企てるのかもしれない。


 俺には、白い髪と青い瞳を持った、彼の人生を想像できない。

 しかし、それでも、東京駅に爆弾を仕掛ける心情は、理解できてしまった。百分の一でも、共感を持ってしまった。


 赤い傘の男と会ったら、一発ぶん殴ってやろうとすら思っていたのに、そんな勇気すら湧いてこない。

 口をぽかんと開けて、一歩も動けない俺は、さぞかし滑稽だっただろう。


 あいつは、俺の顔をじっと見据えて、穏やかな笑みは全く崩そうとしなかった。

 その表情から、どんな心境なのか全く読み取れないが、彼は口角を上げたまま、口を動かした。


「さっき、爆弾のスイッチを入れた」


 淡々と、低くも高くもない声に、俺ははっとした。


「あと十分で、爆発するよ」


 俺は、弾かれたように駅へ向かって走り出した。

 早く止めなければ。あと十分、あと十分というあいつの声が、脳内でリフレインする。


 人波を押しのけて、嫌そうに顔を顰める人々に、すみませんと声をかけながら、何とか駅に入った。

 ホールを、地下へ降りる階段を、必死で走り抜ける。


 俺は、今まで爆発に巻き込まれる人々のためだけに走っていた。

 しかし、さっきまであいつと対峙して、それだけでない気持ちになっていた。


 赤い傘の男が、何故俺に暗号を落としたのか、俺を試すようなことをしていたのか。それは単純に、自尊心を示したかっただけなのだろうと思っていた。

 しかし、もしかしたら、あいつは誰かに自分の行為を止めてほしかったのではないのかという疑惑も芽生えていた。


 俺たちは、きっと似た者同士だ。

 あいつを止められるのは、俺だけなんだ。


 丸の内地下中央入り口、その正面から斜め左に、非常階段の出入り口があった。

 鍵のかかっていないそこへ、自分の体を滑り込ませる。


 薄暗い階段を駆け上る。地下と一階の間の踊り場に、不自然な黒い箱が置かれていた。

 側面のデジタル時計は、三分を切ってカウントダウンしている。上の方では、赤いボタンと青いボタンが並び、壁には一枚の紙が貼られていた。


  赤いボタンを い 回     青いボタンを み 回 押せ


 貼られている紙には、それだけが書かれていた。


 しかし、俺はこの場で悩んでしまった。

 「い」は五十音順だと二番目、いろは歌だと一番目だ。どちらが正しいのか、何故、「い」と「み」なのか……


 ごちゃごちゃと考えている間に、一分が過ぎてしまった。

 一度深呼吸をして、再度貼られた紙を見る。今までの暗号に使われた紙と違い、少し厚みがある。

 セロハンテープで貼られたそれを剥がして裏返してみると、今年の年賀状だった。


「今年は亥年か……」


 そんな一言が零れた。

 この三日間、走り回っていて自覚が無かったが、新しい年が来ていたんだなという事を、こんなところで実感する。


 その時、はたと思った。

 年賀状に書かれたこと自体がヒントならば、「い」というのは亥年のことで、「み」は巳年のことなのでは。


 亥は十二支で十二番目、巳は十二支で六番目だ。

 つまり、赤いボタンは十二回、青いボタンは六回押す。


 カウントダウンは一分二十秒を切った。

 震える指で、赤いボタンを十二回、青いボタン六回、ゆっくり数えながら押した。


 六回目の青いボタンから指を離した時、デジタル時計が二十七秒で、止まった。


「ああ……、終わった……」


 俺はそんな声を出しながら、しゃがんだままで尻を地面につけて座り込んだ。

 力が抜けて体が後ろに倒れ込みそうになるのを、両手で支えて、天井を見る。遥か高い位置に、大小さまざまなパイプが走っているのを、何も考えずにぼんやり眺めていた。

 このままずっと、ここにいるわけにもいかないので、俺は立ち上がり、ふらふらの体を手すりで支えながら、階段を下りた。

 駅から出たら、匿名で警察に連絡しよう。あとは警察が何とかしてくれるだろう。


 非常階段出入り口のドアを開けると、人の熱気が体に当たるのを感じた。

 我関せずと言った様子の人々が、眩しさに目を細めている俺の前を通り過ぎていく。


「おばあちゃん!」


 そう叫ぶ女の子の声が聞こえて、俺はそちらの方を向いた。

 丁度、改札口から出てきた老婆に、ボブカットの小学校低学年くらいの女の子が抱きついている瞬間だった。


 距離的に内容は聞こえないが、女の子と老婆は、笑顔で会話している。久しぶりの再会なのかもしれない。

 女の子の後ろから、その子の父親らしき男性が近付いてきて、老婆と何か言葉を交わした後、彼女のキャリーバッグを持った。


 三人が一緒になって、地下から上がる階段に向かっていく様子を眺めていた俺は、自然と微笑んでいた。

 父親と祖母と一緒に手を繋いで、スキップしている女の子の姿を見て、俺はやっと心の底から、テロを止めることが出来て良かったと思った。


 俺も人ごみに紛れて、東京駅の出口を目指す。

 明日はデパートの初売りの日だ。きっと迷子や落とし物の対処に追われるのだろうなと考えると、大変さよりも安堵感の方が強かった。





















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貧乏くじ男、東奔西走 夢月七海 @yumetuki-773

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