#19 パリへ
私は今、サバティエの港に降り立つ。
――我が祖国!プランセールよ!!!
私はプランセールの大地に足を踏みしめ、プランセールの空気をこれでもかと言うほど胸いっぱいに吸い込んだ。
海鳥が私の到着を待ちわびていたかのように、高い声で鳴きながら、雲ひとつない青空を飛び交っている。遠くの丘の上に見えている塔の屋根には、プランセールの青白赤で構成される三色の国旗がはためいていた。カラフルなパステルカラーで壁が塗られた家々の間からは、移動式遊園地のメリーゴーランドが見える。
辺りを見回すと、色という色が私の眼の前でちらちらする。自分の眼を動かすからというだけではない。大型小型問わず港に停泊しているたくさんの船々には様々な国の国旗が掲げられて、潮風に揺れている。それに、白、黒、黄色の肌色をした、赤、金、黒など多種多様な髪色のたくさんの人々が、好き好きに色とりどりの服を身に付け、勝手に動き、溢れ返っているからだ。
男も、女も、老人も、子供も。入国する者も、出国する者も、迎えの者も、見送る者も、切符を切る者も、荷物を運ぶ者も、車夫も、掃除する者も、酒場で働くウェイターも、警官も、そして、泥棒も、それぞれの人間がそれぞれの生活を行い、この人間のるつぼのような明るい港街を活気づけるエネルギーの塊となって渦巻いていた。
私の後ろからデッキから降り立ったアーネストは、北国イェゴスとは異なる明るい陽射しを受け、眩しそうに眼を細めた。東から昇る太陽の前に消え入る霧のように掴み所のないこの男には、健康的にどこまでも澄みわたる青空はたいへん不釣り合いに思える。
彼の荷物は本当に数着の服ぐらいだったようだ。手頃な大きさの焦げ茶色をした革のボストンバッグ一つと黒い傘を手に持っている。私の隣に立ったアーネストに「……旅の目的地分かんないけど、荷物マジ身軽だね」と話し掛けると、「現地調達」とだけ答えが返って来た。どうやら現地調達できるだけの金はあるようだ。
密航をした私とその幇助を行ったアーネストは、本来ならば逮捕され、ここから最寄りの警察署まで同行し、取り調べを受けなければならないところだったが、私たちのお陰で、アーサー・アダムス殺人事件、及び、アルベルト・アダムス殺人未遂事件が解決に繋がったので、デュムーリエ警部が取り計らってくれたようだ。私たちはパリでの住所を伝え、そこに着いたらパリ警視庁を訪問するという条件で、無事パリの家へと向かうことができることになった。
私はデッキを降りたところで
「凄い人だな……はぐれないようにしないと」
アーネストに話しかけるつもりで横を見ると、アイツは本物の霧のように忽然と姿を消していた。私に何も言わずに何処かへ行ってしまったのかと焦って辺りをきょろきょろと見回すが見当たらない。人、人、人の波である。人混みのなかに完全に彼を見失ってしまったようだ。
「アーネスト!!!」
名前を呼んだが返事は無論ない。最後まで何も言わずに私を残して消えたのか?
「アーネスト!!!」
私はもう一度彼の名前を呼んだ。今となってはその名前すら偽名だったのではないかとさえ思える。……というか、果たしてアーネスト・バートラムという男が本当に存在していたのかさえ疑わしい。アーネスト・バートラムという男なんて実は存在しておらず、私の妄想の中で幽霊のように消えてしまったのではないか?
私は流れる人混みのなか一人取り残された気持ちで、茫然と立ち尽くした。
――アーネストがいなくなったって、私は別に構わない
私は思った。旅の目的も目的地も喋らなかったヤツだ。アーネストには船室に
――別に構わないのだけど……
アイツは冷酷で冷淡で、目的達成のためなら非情にもなれる男だ。敵に回したら恐ろしい。あんな破滅的な男には端から関わらない方が身のためだというのは分かっている。
それなのに、何故だろう?胸がきゅうきゅうと締め付けられる。自分の一大事を救ってくれた男と、何も言わずにこのまま文字通りフェードアウトで別れてしまうのが辛いんだろうか?
アイツの手の内でコロコロコロコロ転がされたまま、事件が終わったらポイッと投げ捨てられるような雑な扱いを受けるのが悔しい気もした。なんだか負けたような気持ちになる。一度ぐらい私に勝ちを譲ってくれてもよかったじゃないか。
――てか、なんでアイツは私にいつも大事なことを話してくれなかったんだろう……
不意に私は昔、子供の頃飼っていた猫がいつの間にか家を出ていってそのまま家に帰って来なかったことを思い出した。その猫は雄猫だったから、発情期に雌猫を追いかけて何処かに出ていってしまったんだろうと、親父と話したっけ……多分あれは親父が女の尻ばっか追いかけ回して、わりと家に帰って来なかったのもあったから、雄猫の気持ちも分かったんだと思う。
猫じゃないけど。
そういえば、母親だってそうだ。私のことを置いて黙って出ていった。あれも不意なことだった。
さっきまで私の隣にいた人間が、別れの挨拶すらなしに、いつの間にやらふといなくなる。そういったことは何も今に始まったことじゃないか。過去に何回も何回もあったことだ。そんなことには慣れっこなんだ。
それに人は死ぬ。一人で死ぬ。昨日まで元気だった人が突然ぽっくり死んでしまうこともある。自分だって突然ぽっくり死んでしまうかも分からない。人との別れは常に突然に来るものだ。
だから私は、人と一緒にいるその一瞬一瞬を大切にしたいと思う。アーネストのことも、一緒にいる限りはできるだけ知りたいと思った。
アーネストなんかそもそも赤の他人なんだし、あの雄猫のようにふらふらと、また適当に構ってくれる女性を見つけて情夫になろうとしているのかもしれない。実は彼は幽霊で、船から出ると明るい太陽の下で忽然と姿を消してしまったという話でも、アイツのことならおかしくはないとも思う。ぼんやりと霞んだ霧のようなあの灰色がかった目に生気が感じられないのは、実は彼自身が死んでいたからだ……という話でも不思議ではないような気さえする。
そうだ!知ったこっちゃない!別れの挨拶すらなかろうと知ったこっちゃない……!!!知ったこっちゃ…………
「……おい」
背後からアーネストのボソリとした低い声が聞こえる。
「……おい、ドウヨ?」
右肩に手を掛けられ、振り向くと、アーネストがいつものぶっきらぼうな無表情を崩さず立っていた。
「お前………」
急に話しかけられたものだから、一瞬言葉を詰まらせてしまったが、私はその後、
「どこ行ってたんだよ!?いきなり居なくなったら
何も言わずに何処かに行ってしまったかと妙に不安にさせないでほしい。実は幽霊だったのでは?なんて愚にもつかない妄想までしてしまったじゃないか。
「……いや、あそこに突っ立ってたら多分邪魔だし。出口改札多分あっちだし」
人の気持ちも知らないで、淡々と的確な意見を述べる。アーネストの言葉に、私は今回も言い返せなかった。
「……え!?あっ!……ああ」
慌てる私の顔を、アーネストがじっと見詰めている。さっき猫のことを思い出したときに涙が溢れそうになったのを見透かされやしないか、私はドギマギしていた。鼻が少し赤いかもしれない。私は鼻水が垂れそうになるのを我慢していた。
私がちょっとしんみりとセンチメンタルな気分になっていたのを、気づいているのか気づいてないのか……アーネストはそれについて何も語らなかった。代わり「これからパリ行くんだろ?」と私に軽く首をかしげて確認した。
尋ねられた方の私は黙って、心が平静を取り戻すのを待っていた。感情がとっ散らかった心の中を整理して、私はアーネストに今一番聞きたいことを聞いた。
「てか、アーネスト……うちに泊まりに来るのとかって逆に迷惑じゃない?オレが勝手に決めたことだし」
「……え?今さらそれ聞く???」
アーネストは表情こそ動かさなかったが、ポカンと呆れたような声を出した。確かに船を降り、プランセールに降り立ってしまってから尋ねることではなかったのかもしれない。今さら嫌だと言ったところで時すでに遅しである。
「デュムーリエ警部とも約束したし。パリ警視庁に行かなきゃならないだろ。お前がよければ、泊めてもらえると有難いんだけど」
「……そっか」
確かにデュムーリエ警部との約束がある。いくらアーネストでも犯罪者になるわけにはいかないらしい。私は彼の言葉にホッと一息ついて、思わず笑ってしまった。
「……なんだ?お前、変な男だな」
――お前に言われたかねぇ!!!
私は思ったが、アーネストに言われたままにしておいた。私は黙って、今度は見失わないように気を付けながら、アーネストの隣を歩く。
アーネストはぼんやりとくすんだその碧い瞳を前に向け歩いている。私はせめてもう少し、その瞳の奥に見えている景色を一緒に見てみたいと思う。そうすれば、この私には理解しがたい、謎に包まれた不思議な男の考えていることも少しは理解できるんじゃないか?
アーネストと一緒にいる一瞬一瞬のなかで、彼を捉え、彼がどういう人間なのだろうと興味を持って、その謎に迫る。それはアーネストであれ、他の誰であれ、同じ事だ。「自分」ではない「他者」を知るというミステリを私たちは日々解いている。
そしてその「他者」という名のミステリの解明しようとすることはまた、「自分」が一体何者なのか?そして「自分」は一体何のために生きているのか?という究極的なミステリを推理するのにも役立つ手掛かりになるのではないかと私は思っている。
改札口を出る。そして、汽車に乗る。
アーネストと私は、サバティエの港を離れ、一路南下。大都会パリへと向かう。
イヴ・ド・パラディより愛を込めて 江野ふう @10nights-dreams
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