透明少女と不良教師

伊古野わらび

透明少女と不良教師

 今日もか。

 本日何度目になるか分からない溜め息を漏らした。

 教壇で若い女性が自信なさげな声で何かを喋っているが、ちっとも頭に入ってこない。

 そもそも教室内は授業中だというのに騒がしく、私語と一緒に消しゴムやら紙飛行機やら丸められた宿題のプリントやらが飛び交う始末。まともな授業なんてものは、最初から崩壊していた。

 どうせ今日も若い教師が泣きながら教室を飛び出して、いや逃げ出して終わりだろう。そこまでが、今のこのクラスの定番だ。

 ならば、自分も定番に従うだけだ。

 無意味となった教科書とノート、筆記用具をトートバッグに詰め込んで立ち上がる。混沌と化した教室で、自分一人立ち上がったところで、咎める人はいない。

 それを言い訳に、今日も教師より先に教室から抜け出した。授業をサボる少女にしては、あまりにも堂々と、そして悠々とした足取りで。



 授業中の校内は、抜け出してきた教室とは違う、耳に優しい静けさに包まれていた。きっと他の教室では粛々と授業が進められているのだろう。

 ただ混沌を知った今更、静かな教室で大人しく授業を受ける自分の姿を想像することができなかった。変わってしまったものだ。

 学級崩壊した教室から授業中に抜け出すのは、もう何度目になっただろう。少なくとも、学年主任があのクラスに怒鳴り込んで来た回数よりかは多いと思う。

 ただ、不思議と徘徊中に、他の教師から咎められたことはなかった。敢えて人が少ない特別教室のある校舎を目指して歩いているというのもあるが、そもそも他の人に出会ったことがない。

 まるで、自分以外誰もいない世界に迷い込んでしまったかのように。

 いや、逆か。

 教室を抜け出しても、廊下を歩いていても認識されない自分の方が、世界から切り離されているのではないか。

 なんて。


「透明人間じゃあるまいし」


 ぼそりと呟いた馬鹿な発言は、いつも通り、すぐに無機質な校舎の中で消えてなくなる筈だったのに。何故か、その日は勝手が違った。


「透明人間ならぬ透明少女か。まあ、俺には見えてるが」


「!」


 今まで誰にも見つかったことがなかったから油断していた。だから、まさか独り言を拾ってくる奴がいるだなんて思いもしなかった。

 慌てて声のした方へと振り向くと、いつの間にか白衣を纏った男性が廊下の壁に凭れていた。しかも、火のついた煙草を啣えている。

 うちのクラスよりある意味問題を抱えた不良と噂の教師のお出ましだった。


「……日村先生。廊下で煙草吸わないでください」

「おまえには言われたくないぞ、透明少女。いや不良少女。こんなところで何してやがる」

「自習できる静かな所を探して徘徊してます」


 動揺したのは最初だけ。もしもの時のために予め用意していた言い訳は、思っていたより簡単に口から滑り出た。実際に言ったのは、今日が初めてだったが。

 まあ嘘でもない。そのために勉強道具ごと教室から出たのだから。

 トートバッグを見せつけるように持ち上げると、日村は少しだけ意外そうに瞬きをした後、煙草の煙を長々吐いた。


「堂々としたもんだな」

「これでも、お叱りを受けるのを覚悟して、どきどきしてます」

「どうだか」


 煙草を啣え直し、日村は肩を竦めた。


「まあ、抜け出したくなる気持ちは分からんじゃない。あれじゃ、まともな授業は無理だろう。彼女は大卒直後の新任だからな。生意気なガキどもに舐められ切ってる。気の毒なこった」

「……知ってるんですか?」

「これでも一応教師だからな。俺は受け持ってないクラスだが、職員室内では頭の痛い共通認識ってやつかな」


 意味ありげに日村はにやりと笑う。


「だから、あのクラスの女子生徒が一人徘徊するくらいは、他の先生たちも大目に見てやってるってところだ。先にあの問題児どもをどうにかしないと話にならん」

「知ってたんですか」


 わたしのことを。

 今度こそ心底驚いて目を見開けば、日村は更に楽しそうに口元を緩ませた。


「知らない訳ないだろう、有名人。ただおまえは歩き回りはするが、結局どこかで教科書広げている真面目な不良少女だから、放置されてるだけだ」

「なら、何で今日は放置してくれなかったんですか?」

「そうだな……」


 そこで、日村は初めて煙草を啣えず、真っ直ぐこちらを見つめてきた。真面目な視線で。


「気になったから?」


「……何で疑問系なんですか」

「同じ授業中の廊下で悪さする仲間的な意味で?」

「疑問系の上に、変な仲間にわたしを加えないでください」


 その視線に少し鼓動が跳ねたのに、後の発言と、何か期待した自分に腹が立った。よりよって、生徒に廊下での喫煙を見つかっても気にもしないような不良教師に何を期待した?


「ほら、やっぱりおまえ、根は真面目じゃねえか」

「先生!」

「そう。だから気になった」


 心底楽しそうに日村は笑う。


「不良になりきれず、透明になるしかなかった、そんなおまえを捕まえてみたかった。それだけだよ」


 その笑顔に、言葉に、今度こそ鼓動が強く跳ねた。気がした。

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