蛇の腹
佐藤踵
蛇の腹
◇
記憶を消して欲しい。大きな鎌を担いだ死神なんてのがいるのであれば、俺の喉元を掻っ切って欲しい。今すぐ殺して欲しい。出てこい。出てこないのか、見掛け倒しで意外と臆病じゃないか。ばかやろう。
そんなことをぶつぶつと唱えていた午前二時。こめかみの辺りの頭痛が酷く、目は腫れていた。こうなった理由は脳内にこびり付いて離れようとしない。薄い壁に穴を開けても、テレビのリモコンの蓋を壊しても、気が晴れることは無かった。心なんてものは持たないほうが良いのだ。もし心が臓器ならば、俺は迷わず皮膚の上から狙い澄まして包丁で刺している。感情なんて持ったって損でしかない。なぜなら今こうしてやり場のない心の傷をどうすることもできずに、枕に顔を埋めて声を上げて泣いているのだから。じゅくじゅく傷口が広がるくらいなら、あぁ、もう楽になりたい。楽に死にたい。
「救ってやろうか?」
枕から顔を上げ、上体を起こす。部屋は豆電球がオレンジに照らしており、散乱した有象無象たちが影を作っている。もちろん誰もいない。だが俺がこんなに慌てふためいて起き上がったのには理由がある。さっきの声は俺の独り言じゃないからだ。
響くのは低音の耳鳴だけ。ついに気が触れてしまったのか。しばしさっきまでのやり場のない心を忘れ、違和感の正体を突き止めようとしていた。しかし部屋や体はいつも通りで、あぁやはり精神異常だ、おかしくなってしまった、諦めて寝転ぶ。
そうするとふつふつと思い出す。なんで死ぬよりも辛いこんな目に、なんで逃げることができないのか。またしてもこめかみが強く痛む。右手でさすっても良くならない。鎮痛剤も切らしている。涙が流れると脳が枯渇している気がしてさらに痛んだ。誰でも良いから救って欲しい、と強く願った時。
「だから、救ってやろうか?」
また、耳鳴を掻い潜って声が聞こえた。今度は逃さない。起き上がって部屋の真ん中に目をやると、テーブルに座って脚を組む男。
「お前は……誰だ?」
思わずベッドの上で後退り、すぐに壁に追い詰められる。男はゆっくりと脚を組み替えて、その間も切れ長の目で俺を見つめたままだ。こいつ、土足のまま上がり込んで来やがった。革靴の輪郭が嫌につやつやと光を照り返す。
「呼んだのは君じゃないか」
顎をくいっと上げて、見つめる様子は感じが悪かった。真ん中で分けられた黒い前髪は顎まで伸びていて、そのまま後ろの髪の毛まで同じ長さで切り揃えられている。ボートネックのトップスにスラックス。見れば見るほど、知り合いではないという確信が湧く。
「生憎だが、知らないやつを呼んだ覚えはない。警察を呼ぶぞ」
枕元の携帯を手に取ると、へぇ、そう。と頬杖をつく。全くもって撤退する気は無いようだ。
「もういい、本当に警察を呼ぶ」
充電器から携帯電話を外し、右手で持ち上げた時。
「知らないとは、薄情だね。君が記憶を消して欲しいと願ったから来たのに」
男は指さす。驚き、その証拠に携帯電話が右手からするりと落ちた。動揺を隠そうと、声色を下げて言う。
「だからなんだ」
「消すだけじゃ勿体無いよ」
そう言うと立ち上がり、パチン、指を鳴らす。一瞬のまばたきの後、俺の六畳一間は消えていた。
「な、なんだ、ここは!」
何が起こったのか信じられない。吸い込んだ息を吐くことができず、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。左胸のあたりをぎゅっと掴むと煩いくらいに心臓が動いていて、やっと息を吐き、肩で呼吸を整える。
壁一面の本棚には分厚い本がびっしりで、大きな机の向こうには男が脚を組んで椅子に仰け反っている。壁に寄りかかっていたはずの俺はいつのまにか背の高い背もたれ付きの椅子に寄りかかっていた。
見上げるとシャンデリアが机を照らしていた。ちらちらと揺れる無数のガラス玉。床のベルベットのような絨毯も相まって悪趣味な豪邸のようだった。
「ようこそ。書斎、兼、契約部屋へ」
机には滑らかなカーブを描く羽根ペンと、紙きれが一枚だけ。文字は知らない言語で読めなかった。自分の部屋からワープしたとなると、一気に現実味が無くなった。これは夢だ。こんなに凝った夢を見るなんてラッキーだ。いい暇つぶしになる、そう思った。
「夢と思うならば君の勝手さ」
また心の内を読まれているようでどきりと心臓が鳴った。男は呆れた様子で顔の横で右手を広げる。右手にだけ白い手袋をしていた。気付かれないようにゆっくりと息を吸い込み、男に問いかける。
「お前は……?」
「僕? 悪魔だ。君がご所望の死神なんかより、ずうっと人間に優しいよ」
微笑むと、机に肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せた。心臓はずっと左胸で音を立てている。じっとりと額に汗が滲んでいて、涼しげな男と目が合うと心臓が飛び出してしまいそうだった。呼吸を忘れないようにゆっくりと息を吐く。意識世界とは思えないほど、今ここで感じている俺の身体はいつも通りに混乱している。
「悪魔……? じゃあ悪魔が俺に何の用だ」
「最初に言ったじゃないか。救うために来たんだよ」
「……殺すのか?」
今すぐ殺して欲しい、その考えを見透かされていたのなら俺を殺しに来たのだろう。それも本望だ。しかし男はくすりと笑った。鼻から小刻みに漏れる息は俺を大層馬鹿にしている様子だ。
「やだなぁ、何度も。僕は死神じゃないって言ってるのに」
「回りくどいんだよ。救うって、どうするんだ」
椅子の手摺は悪趣味な装飾が施されており心地が悪かった。爪先で鳴らすとかつかつと音が立つ。男は苛立つ右手を見つめると、笑みを蓄える。
「僕が君の絶望を買い取るのさ」
絶望を買い取る……だと?
俺の心を侵食していた絶望は、当たり前だが買って手に入れたものではない。それなのにこの悪魔を名乗る男は俺の絶望を買い取ると言った。勝手に湧いて出てきて、死んだ方が楽だと思わせるくらいに俺を蝕んだ絶望を、この男は買うと言っているのだ。
「……笑わせるな! 売れるのなら、幾らでも売ってやるよ!」
笑いが止まらなかった。馬鹿げているからだ。大枚を叩いてでも消したかった記憶を、こいつは買い取ると言うのだ。甚だ可笑しな話に笑いが止まらない。
「悪魔にとって、絶望はご馳走なのさ。魂とか生き血なんて野蛮なものよりも、よっぽど味わい深くてね」
人間の心で深く熟成された絶望は、グラスに注いで転がすと深みのある芳醇な香りが立つ。口に含むと鼻を抜ける絶望の香りは悪魔の筆舌にも尽くし難くてね。そう言うとニッコリと舌舐めずりをする。
「へぇ、じゃあどうすれば売れるんだ? 早く楽になりたいんだ」
「……まずは査定しないとね」
そう言うなり、またしてもパチンと指を鳴らす。いつのまにか、机には金貨が積まれていた。男の両脇に肩くらいの高さまで積まれた金貨は黄金に輝いていて、その輝きはメッキでないことくらい詳しくない俺にだってわかった。ゴクリ、唾を飲み込むと、男は脚を組み替えた。
「さぁ、君の絶望を教えてくれ」
身体の内部に、隙間なく蔓延っていた絶望。目の前の悪魔と名乗る男に吐き出すが、吐き出されたのは震える声と熱気を帯びた息のみだった。ぐるぐると身体中を駆け巡る絶望は息絶えることなく、蝕み続ける。脳を締め付けて頭が疼き、痛みの中で記憶が蘇る。切れ切れに言葉に乗せるが、詰まる。男は微笑みを蓄えたまま、表情一つ変えることなく、冷ややかに次の言葉を求める。まぶたにじんわりと滲み出る涙を堪えるようにみぞおちに力を入れる。言葉と一緒に内臓が震えた。
俺を苦しめる記憶の全てを、男に話した。
「もう……いいだろ」
汗が止まらず、手がガタガタとひとりでに震える。耳鳴、吐き気、息苦しさを感じたが、部屋に立ち込めてきたお香のような少々甘ったるい香りが気付となり正気を保てていた。
「よろしい」
品定めでもするような、鋭い視線。また脚を組み替えた。
「なら、俺の絶望は幾らだ?」
悪魔を名乗る男は糸目で微笑み、前屈みに金貨を一山ずつゆっくりととこちらに移動する。積み上げられた金貨は重そうで、どれくらいの価値があるのか俺には理解できなかった。
「これが君の絶望の価値だ」
金貨が三山、目の前に出てきたところで手を止めて男は言った。そして椅子に寄り掛かって脚を組む。
「おい、俺は悪魔じゃないんだ。価値がわかるように教えてくれ」
「そう急かすなよ。悪魔も今や国際的でね」
パチン、その瞬間目の前の金貨が一万円札の札束に変わった。白いテープで束ねられている三束。膝で手の汗を拭き、その一つを手に取るとずっしり重く、試しに表面の一枚をまじまじと細部まで見ても、普段手に取る一万円札と何ら変わりはない。偽札だとしたらかなりの出来だ。
「君の絶望の価値は、三百万円だ。宜しければ契約書にサインを」
白い手袋をした右手で机の上を滑らせて、不明な言語が書き連ねられた契約書をこちらに差し出す。一番下が空欄でここにサインをするようだが、不明なことすらなんだかわからないくらいに混乱していた。
「まて、まて。ちゃんと説明をしてくれ」
押し切られる前にと、説明を求めると男はニッコリと笑う。
「もちろん。契約書の読み合わせも立派な職務なのでね」
なぁに、難しいことは何も書いていないよ。そう言うと椅子を引き、前屈みになる。右手の人差し指で契約書の一行目からツーっと撫でる。驚いて小さく声を上げてしまった。左から右へと人差し指の腹が通り過ぎると、日本語が浮かび上がったのだ。俺はなぞるように言葉を読み上げる。
その一。
「……買い取った絶望の所有権は、悪魔に移る。如何なる場合も返還を認めない」
その二。
「絶望に関わった全ての記憶を消去する」
その三。
「絶望に関わった全ての人間、物を消去する」
その四。
「消去した記憶や人間、物は永久に戻らない」
その五。
「当契約の記憶も消去される」
最後まで撫で終わった。一番下はやはりサインの為の空白だった。
「……これだけなのか」
「そうさ。なにもデメリットはないだろう?」
信用ができなかった。影のように一生付き纏ってくる絶望の記憶を消して、しかも金まで与えると言う。文字通り悪魔の囁きだ。こんな甘い話があるわけがない。
「信用……できない」
「何がご不満かな?」
「絶望に関わった人間が消去されるなら! 俺もどうせ死ぬんだろ!?」
いまにも男の涼しげな顔が豹変し、正解、とパチンと指を鳴らして俺を絞め殺すのではないか、そう思い俯いた。震える握りこぶしを宥めていると、本当にパチンと音が鳴ったので、慌てて顔を上げる。
「覗きたまえ」
男が指さすのは、いつのまにか俺の手に握らされていた手鏡だ。驚いたが、ぎゅっと握った右手は手鏡を離そうとしない。金色で模様が彫られたそれは嫌な輝きを蓄えて、ずっしりと重かった。少し持ち上げて丸い鏡の中を覗き見る。汗が滲んだ俺の顔は、次第にぼんやりと闇に飲み込まれた。
「何をする気だ!?」
言葉は出てくるが、丸い闇から目をそらすことができない。
「何もしないさ。昨日僕が絶望を買い取った人間を見せてやろうと思ってね」
男がふーっと息を吐く音がした。同時に手鏡の中の闇が風に流されて取り払われる。中年のスーツ姿の男性が、パソコンに向かっていた。
「彼は自分を犠牲にしてまで守ってきた大切な家族に裏切られた。その絶望から、首を吊ろうとしていたのさ」
男性は、時折デスクにやって来る若い部下たちに笑顔で接していた。絶望とは無縁の、希望と将来に満ち溢れた笑顔だった。
「絶望は、百万で買い取った。彼も昨日は大汗をかいて不安そうだったよ。しかし今は違う。絶望なんて忘れて生きているよ」
手鏡の中のいきいきと爛々とした表情は、昨日首を吊ろうとしていたとは到底思えなかった。
「本当……なのか?」
「君は本当に疑り深いよね。まぁいいや」
ゴトン、机に置かれたワインボトルは、金色の仰々しいラベルが貼られていた。文字はやはり読むことはできないが、それが何なのかはすぐに理解できた。ボトルの奥で男がニッコリと微笑む。
「……それが、絶望か」
「そう。特別に見せてやろう」
コルクがひとりでにポン、と抜ける。右手でネックを掴むと、男は頭の少し上くらいの高さまで持ち上げてボトルを傾ける。
「あっ」
赤黒い液体が真っ直ぐに落ちる。声を上げたのはその先に液体を受けるグラスがないからだ。机の上をびしゃびしゃと跳ねるのを想像したが、悪魔というのは器用らしい。ワイングラスも何もないはずなのに、落ちた液体は丸く回転しながら注がれていく。見えない丸みを帯びたワイングラスに赤黒い液体がつるりと揺れた。
男が人差し指と親指で、ワイングラスのステムを摘む。そうすると液体も一緒に持ち上げられた。少し傾けて、俺に見せる。
「どうだい、美味そうだろ」
見せたあと、腕を引いて顔の前に持ってくる。恍惚の表情でグラスを回し、目を瞑り鼻で香りを確かめる。そして見えないリムに唇を添えて、品良くわずかにグラスを傾ける。
うっとりと舌で転がしたのち、グラスは机に置かれた。
「結構だ、非常に結構! あはははは! あはははははは!」
ゾッとした。首元で黒髪を細かく揺らして男は仰け反る。ワイングラスに残った絶望をがぶがぶと飲み干し、ボトルを乱暴に掴んで顔を上げてごくごくと直接口から流し込む。喉仏が音を立てて絶望を呑み込んでいく姿に、対面するこの男は本当に悪魔なのだ、そう実感する。
最後の一滴が大きく開いた口へと落ちる。空になったボトルを不満げに振るが一滴も残っていない。舌打ちをしてそれを投げると空中でふっと消えた。口元から首にかけてを赤黒い余韻がツーっと垂れて、左手で拭ってペロリと舐める。
「あはははは! 失礼! 本当に絶望の味とは素晴らしいものだよ! 大金を積んででも手に入れたくなるのさ!」
肩を揺らして、愉悦している。
「なるほど。俺の絶望の味には三倍を出す価値があるってわけか」
「その通り! この筆舌に尽くし難い味わいにこそ価値がある! それだけで僕が君と契約する理由も十分じゃないか!」
悪魔はその味を求めて、人間の絶望を買い取る。買い取られた絶望は悪魔にごくごくと飲み干されて消えていく。悪魔は愉悦に浸り、人間は消したい記憶を消す。人間にとって甘い囁きに聞こえたが、悪魔も甘美な蜜を啜るのだ。
対等ならば、迷うことはなかった。
「よし、契約しよう」
「……おみごと」
悪魔は賞賛するように手を叩いた。手鏡は消え、代わりにふわりと軽い羽根ペンが握らされていた。右手が宙に浮くように軽く、契約書を引き寄せてサインをすると、赤黒いインクの俺の名前がどっぷりと深く吸い込まれていくのを感じた。ふわりと立ち込める甘い匂いが徐々に褐色に熟した渋い香りへと変貌する。あぁ、ようやく楽になれる。意識が遠のく中で、最期に顔を上げる。
「これで、契約成立だ」
脚を組み替えて、微笑みながらひらひらと手を振る。
「じゃ、またね」
◇
……生きている。
ゆっくりと目を開く。ここはどこなのだろう。
ステンドグラスには、柔らかな光が差し込んでおり、高くアーチを描く白い天井を見上げて、ゆっくりと赤い身廊へと目を落とす。俺は一番後ろの長椅子に腰掛けていた。
……ここは教会だ。
「やぁ」
右耳の鼓膜を震わせる声で、我に帰る。同じ椅子の端に座って微笑むのは、真っ白いシャツを着た青年だった。
「また、来たね」
そう言うと、姿勢良く綺麗に脚を揃え前を向く。銀色の長い髪の毛は後ろで一つに束ねられていて、とても美しい。
「……また?」
言葉には引っ掛かりがあった。俺はこの銀髪の青年を知らない。そしてこの教会も知らない。青年は、そうだよね……と呟いた後に俯きながら俺に尋ねる。
「悪魔と契約したんだね?」
青年の言葉に、あの契約部屋の渋い香りを思い出す。そうだ、俺は悪魔に絶望を売った。契約書にサインをした。
「そうだ。契約したのに、なんで思い出せるんだ……!」
声を上げて下品に笑う悪魔の顔も、ワインボトルで揺らめく絶望も、全て全て鮮明に覚えていた。そして俺の絶望も、色濃く脳内に焼きついたままだった。
「くそ! あの悪魔に騙されたのか!」
右のこめかみがズキズキと脈打ちながら痛み出す。あの甘い話はやはり嘘だった。青年は哀れむように俺を見つめている。
「騙されてないよ。現にあそこから貴方の世界に戻れる」
赤い身廊を真っ直ぐ進んだ先を指さす。
「何だ、あれ」
指さす階段の上は祭壇……ではなかった。
蛇頭を象った灰色の石像。壁から蛇が顔を出しているみたいだった。まるで目の前に獲物がいるかのように大きく開かれた口。鋭く長い牙が二本生えており、その中は暗闇だ。
「本当に悪魔って、趣味が悪いよね。神聖な祭壇を蛇頭にしちゃうなんて」
「意味がわからない……」
蛇の像が何なんだ。どうやって俺は戻ることができるのか。何一つ答えになっていなかった。こめかみの痛みが熱く広がっていくのを感じて、思わず両手で抱え込む。
「あの蛇の口に飛び込めば、絶望の記憶も、悪魔との契約の記憶も無くなっているはず」
「じゃあ……この教会は?」
「さぁね。悪魔の考えることはよくわからないよ」
隣で首を傾げて微笑むこの青年は一体何者なのか、どうせ忘れるのならば聞いておこうと思った。
「お前は、何者だ?」
「僕も、悪魔と契約したんだ」
「絶望を、売った……のか」
「そう。だからここにいる」
見上げると、青い瞳に光が反射してキラキラと輝いた。悪魔の部屋のシャンデリアより、この教会のステンドグラスよりも綺麗だと思った。
「なら何故、あの蛇から自分の世界に帰らない?」
絶望を売ったのなら、ここにいる意味がない。悪魔と青年の言うことが真実ならば、あの蛇の口に飛び込めば全てを忘れて大金を手にできるはずだ。それなのにここに残る意味がわからなかった。
「僕はもう……自分がどんな絶望を悪魔に売ったのかすら覚えていない。何百年ここにいるのかも、何人に真実を告げているのかもわからない」
首元、シャツの釦を二つ開ける。ぶら下げられたのはロザリオだ。白い数珠の先に、銀色の十字架が下げられており、控えめながら神々しい光を放っている。
「たぶん僕は天使だった。悪魔に絶望を売るくらいに、堕ちた天使だけど」
確かに自らを天使と名乗るほどに美しい。しかし悪魔に会った後の俺にとっては、天使でも悪魔でも人間でも、大した違いがなかった。ただ一つ気になることがある。
「……さっき言った、真実ってなんなんだ?」
天使を名乗る青年はゆっくりと十字架を握って目を閉じる……祈っているのだろうか。目を開くときには青い瞳で俺を見つめていた。揃えられた膝を少しこちらに向けて、話し出す。
「悪魔にとって深い絶望とは、どんなご馳走よりも美味しくて、喉から手が出るほど欲しいもの。それなのに世界を絶望で覆い尽くさないのはおかしいと思わないかい? 悪魔の手にかかれば容易いことなのに」
指を鳴らすだけで金貨を出したり、手鏡で世界を覗き見たり。確かに悪魔にかかれば、絶望へのお膳立てなんて簡単だろう。
「悪魔がそうしないのには理由がある。世界が絶望で覆い尽くされてしまったら、価値がないんだ。希望の対にこそ絶望が存在するのだから」
青年は続ける。
「効率よく、絶望を手に入れる方法を悪魔は知っている……心の弱い人間だけに巣食うんだ」
心の弱い人間。その言葉にどきりと心臓が飛び出てしまいそうだった。
「そういう人達を救うふりをして、巣食うんだ。甘い言葉と金で誘惑し、記憶を消して、また更に深い絶望へと誘う。その繰り返しをさせるんだ」
「じゃあ、俺は……」
「……貴方はいつか、悪魔に全てを搾り取られてしまう」
青年は天井を見上げる。青い瞳に溢れた涙は、頬を伝った。
「あぁ、本当にごめんなさい……何十回もここで貴方に同じことを伝えているのに、あの蛇の口に飛び込むと僕のことも覚えていないんだ」
ごめんなさい、ごめんなさい……ただただ隣で涙を流す。
「何回も同じ人に会って、真実を知った時、僕にできるのはここで同じことを繰り返し伝えることだと思った。元の世界に戻っても僕のことを覚えていられるように、そして悪魔との契約を繰り返さないように」
息苦しく、視界がぼやける。これからも悪魔に利用されるのであれば、天使の傍で死にたい。しかし、その願いは叶わないのだろう。隣にいる天使は何百年もの間、ここで契約者を待っている。一人でも救おうと、永遠の隙間で天使としての最期の役割を果たしている。
ここにいることが一番の絶望なのだ。俺にはそんな勇気がなかった。
「お前は堕ちた天使なんかじゃない。慈悲深い本物の天使だ」
握った十字架を額に合わせて祈っている。天使の祝福を受けていると思うと、少しだけ恐怖心が薄れた気がした。
ご加護がありますように……と、心の中で唱えて席を立つ。長く伸びる身廊をゆっくりと歩き、階段を上る。
蛇は口を大きく開いて俺を出迎える。牙からは水滴が滴り落ちており、その先は闇だ。奥に伸びるのかも、下に落ちるのかもわからない。右足が半分、闇に飲み込まれた時だった。
「どうか!」
天使の声が教会に響く。
「どうか……貴方と会うのが最期となりますように……」
蛇の腹の中を滑りながら、折れそうになるほど奥歯を噛み締める。覚えている。悪魔の笑顔も、天使の泣き顔も。覚えている。趣味の悪いシャンデリアも、光が差し込むステンドグラスも。金色のラベルも、銀色のロザリオも。
うねうねと気持ち悪い蛇の腹で、俺に巣喰い、苦しめた絶望を思い出す。忘れるために悪魔と契約だってしたんだ。それなのに救われないなんて、酷い仕打ちだ。またあんな絶望を味わうのか……あんな絶望? 悪魔、天使……
確かに覚えているはずなのに。
◇
記憶を消して欲しい。大きな鎌を担いだ死神なんてのがいるのであれば、俺の喉元を掻っ切って欲しい。今すぐ殺して欲しい。出てこい。出てこないのか、見掛け倒しで意外と臆病じゃないか。ばかやろう。
そんなことをぶつぶつと唱えていた午前二時。こめかみの辺りの頭痛が酷く、目は腫れていた。こうなった理由は脳内にこびり付いて離れようとしない。薄い壁に穴を開けても、テレビのリモコンの蓋を壊しても、気が晴れることは無かった。心なんてものは持たないほうが良いのだ。もし心が臓器ならば、俺は迷わず皮膚の上から狙い澄まして包丁で刺している。感情なんて持ったって損でしかない。なぜなら今こうしてやり場のない心の傷をどうすることもできずに、枕に顔を埋めて声を上げて泣いているのだから。じゅくじゅく傷口が広がるくらいなら、あぁ、もう楽になりたい。楽に死にたい。
「救ってやろうか?」
了
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます