初春

増田朋美

初春

初春

今日は、2018年最後の日だ。蘭は、いつまでもしていなかった仕事場の掃除をして、遅くなってしまったが、新年を迎える準備をしていた。

掃除が終わって、すっかりいい気持ちで一服していると、インターフォンが五回なった。

「この鳴らし方は杉ちゃんだな。全く暮れ位、のんびりさせてくれよ。本当に。」

無視していると又五回なった。

「何だよ杉ちゃん。もういいかげんにしてくれ。こんな大事なときまで、お節介を焼きに来ないでくれないかな?」

思い切って声を強くしてそういうと、

「あれれ?約束したのは蘭のほうじゃないか?」

という声が返って来る。約束なんて何をしただろうか?蘭は思い出せない頭をひねって、一生懸命考えていると、

「馬鹿。約束しただろ?製鉄所に行きたいけど、一人で出かけるのは恥ずかしいから、一緒に来てくれないかって。その通りに来たんだよ。」

と杉三が言ってくれたので、やっと思い出せた蘭だったのである。

「あ、そういえばそうだった。すまんすまん、すぐ支度するから、そこで待っててちょうだい。」

蘭は、本当はこの約束、実行されなければ良いのにと思っていた。だって、

あんな無残な姿を見るのは、本当に辛いというか、嫌だった。


話は、クリスマスが終了して、少しあとのことである。別に何か必然的な理由があったわけではない。ただ、大晦日の日に、沖田先生が、こっちへ来てくれると電話をよこしただけだ。多分、彼の体調について、詰問されるかもしれない、というわけで、予め体重を量っておくか、という事になった。それだけのことである。しかし、水穂を一苦労して説得し、体重計に乗せると、針は、信じられない数値で止まった。

「わあ、とうとう、30を下回ったか!」

水穂を持ち上げたブッチャーは、持ち上げた時の信じられない軽さに驚いていたが、体重計の針を見て、腰が抜けそうになった。とても口に出していえない数字であり、みんな一瞬黙りこくってしまう程である。

「そうですか、昔の単位で言えば、六貫しかないですね。もう之は酷いというか、惨いといったほうが良いのかもしれません。そのくらい、悲惨な数字です。」

「一貫といえば約4キロか、、、。」

ジョチの言葉に、ブッチャーは思わず震え上がってしまった。

「何も食べないから悪いのよ!それに尽きるでしょ。あたしが一生懸命作っても口にするのはたくあん一つよ!」

恵子さんがむきになって怒っている。

「食べない理由だって、拷問されたときの記憶でいやだからという、なんとも個人的な理由よね!そういうの、返って贅沢というのよ!そうでしょ、わかる?」

「いや、いくら贅沢といっても、本人は、怖かったわけですから、それはどうにもならないのではないでしょうか?まあねえ、個人的な事情に振り回されるのは、誰だっていやですよね。昔でしたら、一つのことに非常に手間がかかって、なかなかそういう事情に直面する事は少なかったんですけれども、今は、何でも簡略化されて、そういう事情は諸に出てしまい、それに他人が巻き込まれて行くのはある意味仕方ないですよ。まあ、とにかくですね、何か食べさせないと、確実に大変なことになりますよ。ですから、ここで贅沢なんて言っている暇もないんですよ。」

恵子さんとジョチが、そういいあっているのに、水穂本人は、何もいえないのだった。もしかしたら、それがこの数字の悲惨さかも知れなかった。

この数字が出た事は、恵子さんから、蘭に連絡が行ったため、蘭はそんなにやせ細った水穂を見たくなかったのである。


「何やっているんだよ。早くしないと、タクシーが終わっちゃうぞ。今日は大晦日で、営業時間を一時間早く終了するって言ってたじゃないか、おばちゃんが。」

運転手のおばさんが、先日タクシーに乗ったときにそういったのである。全く、富士は田舎だなと蘭たちは笑っていたのだが、その弊害がこうして生じてしまうとは。蘭は、乗り遅れてはいかんと考え直して、

「わかったよ。」

と、しぶしぶスマートフォンを取った。

タクシーの中でも、二人は黙ったままだった。いつもよくする、礼儀正しくしろというお説教も今日はないので、運転手のおばさんは、不思議がっていた。

とりあえず、製鉄所の正門前にたどり着いたが、いつもなら迎えに出てくれるブッチャーの姿もなく、恵子さんの姿もない。ただ聞こえてきたのは、今日沖田先生が来てくれるからよかったね。という言葉だったのである。

何だろうと思いながら、蘭たちはタクシーから降ろしてもらった。

「すみません、あの、今日こっちへご挨拶に来る予定だったものですから、予定通りにこさせてもらいましたけど、、、。」

蘭が、製鉄所の引き戸をがらりと開けて、そういったが、製鉄所は何か物々しい雰囲気になっていた。因みに製鉄所にはインターフォンがないので、来客は、すぐに引き戸を開けて良いことになっている。

「おい!寒いから、中へ入らしてくれ!」

杉三がでかい声でそういうと、はあいという声が初めて聞こえてきて、恵子さんが顔を出した。その顔は、いかにも深刻な問題が発生したのだという事を示している。

「ど、どうしたの?」

恵子さんは、一つ大きなため息をついた。

「ああ、それがねえ。今日のお昼に水穂ちゃんが、、、。」

「又畳屋さんのお世話になるわけね。いいじゃない、畳屋が儲かるといってやれ。」

「結論としてはそうだけど、やり方が違うのよ。」

杉三がそう茶化すと、恵子さんはそう返した。

「つ、つ、つまり、、、?」

蘭は見る見る顔を変える。恵子さんは、蘭には知らせるなと言われてきた理由がわかってきた気がした。

「どういうことですか!あいつはどうしてまたそこまで!ちょっと教えてくれませんかね!初めから頼みます!終わりまで聞かせてください!」

「お前も馬鹿だな。そうやって騒ぎ立てても、よくなりはしないさ。」

杉三のほうが落ち着いていられるのに、蘭は怒りたくなってしまうほどだった。こういうときに落ち着いていられるのは、どうしてなんだろうか、、、。

「まあ、とにかくな。初めからしっかり聞かせてくれ。一体何があっただよ。」

「わかったわ。外に漏れるといけないから、中に入ってちょうだい。」

恵子さんは、杉三のしつこい要求にこたえて、二人を中に入れた。

「はじめは、そう。広上先生が、鯛の尾頭付きを持って来てくれて、、、。」

恵子さんはそこでまた話を詰まらせる。

「ああわかったよ。又鯛の尾頭付きをくって、それでぶっ倒れちゃったんだろ。魚はやっぱり、凶器だっただね。」

「ええ、結論から言えばそうなのよ。そういうことなのよ。だけど、やり方があまりにも悲惨だったから、もう見てられなかった。」

「なるほどね。いつもどおりの咳き込んで出すというわけではなかったのね。」

「ええ。」

恵子さんは、がっくりと落ち込んだように頷いた。

「あたしが、広上先生に申し訳ないから、食べろって言ったのが間違いだった。ブッチャーも、同じ事を言ったわ。何で、あたしたちは、身分の高い人のお節介って断れなかったのかしら。」

確かに、偉い人というのは、ありがた迷惑をあまり理解しない場合が多い。大体の人が、断るという事をしないからである。例えば、上司から貰った弁当を断りきれずに貰ってしまって、途中駅のゴミ箱に捨てていくという例はいくつもある。それは、貰わないと、自身が会社にいることは難しくなるからである。

「まあ、しょうがない。多分鯛の尾頭付きを食わされて、よほど怖かったのね。それで、我慢できなくなって、吐き出したのが赤かったのね。まあ、あいつのことだから、無理な物は無理だよな。それに、日ごろから身分について非常に意識しているあいつにとっては、断るのは酷だろう。やむを得ないこととして諦めな。」

「そうね。そのときに、曾我さんがいてくれたから、あたしたちにとっては、そこがすくいだったかも知れないわ。あの人がいうにはの話しだけど、またこういう事があったら、積極的に吐かせるのはやめて、力づくでやめさせろって。そうじゃないと、逆流性食道炎とか、そういうものが出ちゃうからって。その時は、すぐにとめてくれて、歌なんか歌って、なぐさめてくれたのよ。赤いりんごに唇寄せて、の歌よ。やっぱりこういうときは、男の人は強いわね。ブッチャーと二人で、吐き気止めの薬とかだしたりして。」

「そうだねえ。経験の多いやつは、そういうときに役に立つもんだよな。それに性別は関係ないぜ。看護師は圧倒的に女だからな。恵子さんも、そこで自分を責めたりして、問題を大きくしないようにな。しかしジョチさんも、古い歌を歌うよね。それで、慰めてるつもりなんだろうか。あれ、終戦直後の歌だよ。」

杉三と恵子さんが、そういう会話をしているが、蘭は、医学的に言ったら実に

大変な事があったなと、より深刻な顔になるのだった。

「やっぱり、波布のやつ、狙ってるのかな?この建物を買収すること。」

「蘭ちゃん、いい加減にしなさいよ。そういう話は今持ち出さないで!あたしたちは、之まで、曾我さんにはいろいろよくしてもらったんだから。獰猛な毒蛇とは、そういうところが違うわよ!」

蘭が呟くとすかさず恵子さんが否定した。

「あ、ああ。すみません。それで、水穂は今どこに?」

「部屋で寝てるわよ。さっきも言ったとおりの、薬で。」

「じゃあ、会わせていただく事はできませんかね。」

「そうね。返答は期待できないかも知れないけどね。」

恵子さんは、二人を部屋の中へ通した。

「あんまり、質問でうるさくしちゃだめよ。既に知っていると思うけど、この前の事も知っているでしょ。」

「はい、わかりました。気をつけます。」

と、蘭は返答したが、隣で杉三が口笛を吹き始めたので、嫌なやつだ、また自分を馬鹿にしているなと思ってしまった。

四畳半のふすまは開いていた。なぜか枕元に、広上麟太郎が座っていた。

「広上先生。」

蘭が声をかけても反応はしない。それどころか、何かに夢中になっているようで、

「ごめんな、、、。お前にとって魚は、本当に危険な凶器だったのか。あそこまで苦しくなっちゃうほどのな、、、。」

と語りかけているのだった。それでも、反応は返って来ず、蘭は水穂の顔を見たくても、見ることはできなかった。

「すみません。あらましは玄関先で恵子さんに聞いたんですが、もう一回詳しく教えてください。やつはどういう状況に、、、?」

蘭は、広上さんの肩を叩いて、そう聞くと、彼もすぐに後を振り向いて、すぐに誰かに話したかったらしい。涙をいっぱいためてこう語りだした。

「せっかくの年越しだからと思って、鯛の尾頭付きを買ってきたんだが、それを口にしたことはしたんだ。飲み込んだ直後、急に苦しみ始めて、腹が雷鳴みたい鳴り出して、あれよあれよと吐き出しちまった。出した物は、よくある黄色いものではなくて、赤黒い色だった。せっかく尾頭付きを食べてくれたとおもったのにな。悪いことしちゃった。本当にごめん、、、。」

之でやっと、全容が理解できた。

「で、そのとき、曾我という人がいたんですか、一緒に。」

「いたよ。今、布団を買いに行ってもらっているよ。こんな寒いときに、煎餅布団一枚じゃ、かわいそうだろ。」

きっと、広上さんは、罪滅ぼしのために、布団を買いに行かせたのではないか、と、蘭は思った。

「ちょっと、顔を見せていただけないでしょうか。」

「いいよ。」

広上さんがどいてくれたので、やっと顔を見ることができた。あの、六貫という数字の重さは、格段に重くて、人間というより、棒といったほうが正しいのではないだろうか?なんだか、割り箸に蝋で作った美しい顔を接着剤でくっつけたような感じ。

「おい、起きれるか?頼むからおきてくれ!頼むから!」

うるさくしてはいけない、なんて言葉も忘れて、蘭はその体をゆすったが、

「やめてくれよ。もうすぐ沖田先生も来てくれる。今はゆっくり眠らせてやってと、曾我さんもいっていた。」

広上さんに言われて、ため息をついてそれをやめた。

しかし、六貫という数字は非常に重たくて、悲惨だった。誰が見ても、食べ物が足りていないという事を如実に感じ取れた。

「いつごろから、そうなっちゃったんだろ。」

蘭が、そう呟くと、

「フランスでもそうだったよ。」

杉三がボソッとそういった。

「あそこにいたときもそうだった。水穂さん、何も食べるもんがないんだもん。何を食わしても吐いちまって、あるときは意味不明なこと喋って。幸い、フランスで、そばケーキを食べるから、それで助かったようなもんだったけどな。」

「そうかあ、杉ちゃん、そういうときは、日本へ電話でもしてくれればよかったのに。俺、国際電話を安くできるシステム使ってるから、すぐにフランスの介護用品店とかに相談できたよ。」

音楽家の広上さんは、外国の人たちと電話する機会も多いのだろう。だから、そういうシステムも知っている。でも、一般的にはそういう事に出くわすことはないので、そんなシステムを持っている人は、殆どないと思われる。蘭は腹を立てた。

丁度そこへ、玄関ドアが、ガラッと開いて、大き目の風呂敷包みをもってジョチが戻ってきた。杉三は、あ、どうも、と挨拶できたが、蘭はできなかった。

「すみません。態々買ってきて下さって。本当は、俺も一緒に行きたかったですよ。俺が鯛を持ってきたのが悪かったんですから。」

「いいえ、犯人探しをしても無駄ですよ。それよりも寒いから、布団を早くか

けてやりましょうね。」

ジョチは、風呂敷包みをさっと広げた。

「おい!使ってはいけない布団の種類とか、把握してあるだろうな!」

蘭が思わずそういうと、

「ええ、恵子さんに聞きました。ちゃんとわかっていますよ。」

と帰ってきた。風呂敷の中身は、水穂が苦手としている羽毛布団ではなく、フランネルを用いた布団が入っていた。それでは、と合図して、ジョチと広上さんは、素早く布団をかけてやったが、布団の主は眠ったまま、何も反応しなかった。

「さて、あったかくなりましたから、沖田先生が来るのを待ちましょうね。」

ジョチがそっと声をかけても、何も反応をしない。

「だ、大丈夫でしょうか、、、。」

思わずそういってしまう蘭。

「ええ、今の時点では何とかなると思いますが、そうは持たないでしょうね。」

ジョチの一言に又むっとするが、

「そうだな、、、。諦めろといわれても、それって本当に難しいことだなあ。」

と、広上さんの一言で、よかった、同じ考えの者がまだいてくれたのかと、心の中では喜ぶ蘭である。しかし、

「無理なもんはあきらめろ。そのほうがよほど楽だろ?」

と、杉三に言われて、また落ち込んでしまった。

その間にも、水穂は、静かに眠り続けるのだった。


数分後。

「こんにちは。」

玄関の戸がガラッと開いて、沖田先生の声がした。恵子さんが、先生をお迎えしているのも聞こえてくる。

「あ、見えましたね。」

ジョチも挨拶をしに行ったが、蘭も、広上さんも、そこを動くことはできなかった。

だんだん廊下を歩いてくる音が近づいてくるにつれて、蘭はより不安を感じてしまう。なんだか怖くなった。

「ええ、とりあえず出血はストップしてくれまして、今は静かに眠ってはいますけど、本当に無理も悲惨な姿に変わっておられます。なんだか、こちらの方が謝罪をしなければならないと思います。」

と、説明しながら廊下を歩いてくるジョチが、羨ましく見えた。

「どうもこんにちは。今年も、お世話になりました。皆さんも、お変わりなく過ごしてくださっていらっしゃいますかな?」

年寄りらしい、のんびりした口調で沖田先生は挨拶した。

「変わりないって言うか、困ってまさあ。」

杉三が笑ってそういうと、

「と、とにかく何とかしていただけないでしょうか!こいつが、もう二度とこうならなくてもいいように!」

蘭が沖田先生にそう詰め寄る。

「わかりました。じゃあ、すみませんが、ちょっと静かにしていただけないでしょうか。あまり騒がれると、本人もかわいそうですので。」

沖田先生が、蘭をけん制するようにそういうと、

「じゃあ、僕たちは、食堂で待機しているようにしましょうか。」

「そうですね。そのほうがいい。」

ジョチ、ならびに広上さんの意見で、杉三も蘭も、部屋を出て、食堂へ行った。食堂に行くと恵子さんがお茶を出してくれて、杉三たちはお茶を飲み干したが、蘭はお茶を飲む気にはならなかった。先生が、水穂と何か話している時間が、本当に長い長い時間であるような気がした。

少しして、沖田先生が戻ってきた。

「いやあ、驚きましたけど、でも事実ですから受け入れなければなりません。それは、仕方ないことですから。しかし、思ったより、内臓破壊というものが酷かったようですね。本人の問題というよりも、内臓破壊のせいで、何も食べれない方が大きいかもしれませんね。」

「そうですか、、、。」

取り合えず、リーダー的にジョチがそう相槌を打つ。

「まあ、よくあることでは片付けられませんが、誰でも勝てないという事はありますからね。」

「すみません、あの、やつはどうなってしまったんでしょうか。あの数字にしろ何にしろ、もう絶望的な事が多くて、先生、最初からしっかり教えてください。やつは一体、どういう病名なんでしょうか?」

蘭が、沖田先生に詰め寄った。

「お教えしましょうか。私、あまり病名をどうのこうのというのは好きではないですけれども、、、。」

沖田先生は、手帳を取り出して、聞いたことのない病名を書いた。

「何ですか、これ?」

思わず素っ頓狂に蘭は返答した。

「ああ、あれですか。混合性結合組織病。大体知ってますが、確かにそうかもしれませんね。」

ジョチはそう答えるので、思わず蘭は知っているのかとむっとする。

「それは、全身性エリテマトーデスと、全身性硬化症、多発筋炎、多発動脈炎があわさった疾患ですね、先生。」

「平たく言えばそういう事です。一人の患者にそれが全部合わさるのですから、患者さんの苦痛は相当なものでしょう。いずれにしろ、一度杉三さんから骨髄移植は成功していますので、血液成分の凶暴化は避けられていますが、それ以前に破壊された内臓は、もうもとに戻りませんので、そのままになります。」

「そうですか。それはつまり、戦争で爆撃機は遠ざかったけれども、爆撃機に焼かれた家は戻らないと一緒ですか。」

沖田先生の説明に、広上さんが付け加えた。

「はい、そういう感じですね。ですから今でも、内臓が上手く機能していないのでしょう。だから、食欲もないし、食べ物に対して、過敏に反応したりするのだと思います。」

「具体的にはどこなんですかね。僕たちが見てわかるのは、肺が大変なことに壊滅的だというのはわかりますけれども。」

ジョチが沖田先生に聞くと、

「ええ、詳しくは検査しないとわかりませんが、消化器官も破壊されているでしょうし、筋肉も上手く機能していないかも知れませんね。体重が極度に軽いということは。」

と、返って来た。

「そうですか、、、。そうなると、来年は、」

「ええ、無理やり大掛かりな物は食べさせず、できるだけ静かに過ごせるようにしてやることが一番だと思います。確かに、容姿のことから見ると、どうしても何か食べさせなければならないと焦ってしまうと思いますが、それはかえって彼自身の負担も増しますよ。そうじゃなくて、ゆっくりのんびりさせてあげること。之が一番ではないでしょうか?」

ジョチと、広上さんは、理解できたらしく、しっかり顔を見合わせた。

「わかりました。それではそうします。とにかく、彼をゆっくりさせてやりましょう。」

「俺も、鯛はやめて、別のものを持ってくるようにするよ。ああ、できれば、協奏曲一曲、弾いてほしかったなあ、、、。」

暫く、沈黙が流れた。広上さんは鼻をかんだ。

「先生、食わしちゃいけない食べ物なんかはあるの?」

杉三がそう聞くと、

「之までどおり、肉魚は負担でしょう。そうじゃなくて、なるべく、負担のかからないものを出してやることが一番です。ただし、たくあん一つはだめですよ。それでは栄養価が足りなすぎますからね。」

と、沖田先生は答えた。

「あ、あの、最後に教えてください。やつは、やつは後どれくらい、」

切れ切れに蘭がそういう。それは誰でも一度は聞いてみたくなる質問であるが、

「年の瀬に、そんな質問する必要がありますか?」

とジョチに言われて、蘭はしぶしぶ黙ってしまい、その質問はできなかった。

と、同時に、玄関に置いてある、柱時計がボーンボーンと四回なる。

「失礼、病院に戻ってもよろしいでしょうか。今年最後の患者さんの見回りがありましてな。」

沖田先生は、不意にそう言い出した。大晦日なのに、まだ仕事があるのかと、広上さんたちは驚いていた。

「ええ、うちはね。病院で年を越す患者さんも少なくないんですよ。ですから、声くらいかけないといけませんでしょう?」

当たり前のように言う、沖田先生。

「そうですか。お忙しいですね。先生もかなり大変なんですから、お体に気をつけて下さいませ。今日は、本当に態々来てくださって、ありがとうございました。」

ジョチの合図に、蘭以外全員が、座例をした。杉三も、車いすの上から例をした。沖田先生は丁寧にお返しして、玄関先へ戻っていった。

「さて、それでは、つくるか!」

部屋の重苦しい空気を打ち消すように、杉三が突然言い出したので、何のことだと、皆口をあんぐりさせていると、

「年越しそばだよ!恵子さんがそば粉用意してくれてるってから、作るのさ!」

と、当然のように答える杉三。

「何をやっているんだお前。こんなときに、、、。」

蘭は呆れてしまったが、

「だって約束は約束だもん、破るわけにはいかん。」

杉三は当然の如く、台所へ移動して行った。蘭は何も動けなかったが、広上さんもジョチも、掃除がまだ終わってなかったと言って、それぞれの持ち場へ戻っていく。何でこんなにすぐに、はいはいと動けるんだろうか?蘭は二人の態度が不思議で仕方ない。あんなに重大なこと告知されて、よく平気な顔していられるな。えらいやつらはやっぱり、他人のことを本当に見捨ててしまうのか。

と、考えながらその場に居たのだが、広上さんに、そこにいると邪魔だよ、なんて言われてしまう始末だった。

こうなったら、早く、秘密の計画を実行させることだ!と蘭は心より誓った。悔しいけど、そうするしかなかった。蘭の頭の中では。


数時間後。水穂が目覚めると、空は、墨のように黒くなっていた。もう夜になってしまったのか。と、突然回りがきゅうに明るくなった。電気をつけたのである。

「おう、やっと目が覚めたか。ほら、作ったぞ、食べろ。」

顔の前に陶器のおわんがぐっと突き出された。

「年越しそばならぬ、年越し蕎麦掻。」

「あ、ああ、ああ、ごめん。」

布団に座ろうと試みたが、六貫しかない体重は、それをできなくさせた。座ろうとして布団に倒れこんでしまう。

「無理しなくていいですよ。とにかくゆっくり食べてください。あと30分で今年が終わります。」

ジョチが優しくそういって、水穂の背を支えてくれたのが嬉しかった。

もう、そんな時間かあ、、、。

今年も終わり。

何もいえなくて、ただ蕎麦掻を口にした。

「うまいだろ。感想くらい、言ってくれないかな?」

杉三にそういわれて、水穂はしっかりとうなづいた。

あんまり感想をせかさせるのも、ちょっとかわいそうな体重であったけれど、彼は確りと、蕎麦掻を食してくれたのである。

「よかった。とにかく、何か食べてくれなければとあせっていました。」

水穂はふっと微笑んだ。つまるところ、ジョチもあせるほどの、痩せぶりだったらしい。

「あせったのも無駄だと思うくらい食べてくれたらいいのですけどね、水穂さん。」

「いや、この顔が何よりの証拠だよ。よかったなあ、やっとわかってくれた。」

杉三たちがそう言い合っているとき、どこかで除夜の鐘がなった。

ゴーン。

「ああ、鳴り出しましたね。」

「本当だ。」

ゴーン。

もう新しい年だった。

これで、とりあえず年は越すことができたなあと、杉三もジョチも笑いあった。

「よかったな。何とか、2019年まで持ち超えたか。」

「ええ、そのようですね。本当によかったです。」

ところが、その肝心なときに、水穂は気を失って、布団に倒れこんでしまったのであった。

「水穂さん、」

「水穂さん!」

二人がかわるがわる声をかけても聞こえていないのか、何の反応もしない。

「おい!確りしてくれ!」

反応はなかった。

「しっかり!すぐに知らせるべきですね。」

すぐに、この知らせは蘭たちにも知らされた。

蘭はすぐに駆けつけたかったが、いくらタクシーを呼んでも営業しているタクシー会社がどこにもない。広上さんも同じことであった。蘭は、自宅に置かれている仏壇に向かって祈りをささげ、広上さんは真夜中の寒い時刻であるというのも忘れて、富士の浅間神社に飛び込み、一晩中祈り続けた。

誰もが、彼の帰還を願った。まだ、天人になってしまうのは早すぎた。

その時間は非常に長いものだったけれど、誰も、文句なんか言わないで、祈りの言葉を口にしていた。

どうかどうか、お願いだ!みんな同じ言葉をつぶやいていた。

「たぶんね、平脈ですから、何とかなるとは思うんですけど、あんまり、期待すると、変なことが起こるかも知れないじゃないですか。それを何とかしなければ。今頃、蘭さんなんかは、すごい剣幕で、祈りをささげていると思いますが、どうなんだろう、、、。」

脈を取りながら、ジョチがそうつぶやくと、

「いまごろ、川の番人さんと、しゃべっているんじゃないかな?」

と、杉三がいった。

しいんとした、長い長い時間がたった。本当に長い長い時間がたった。

そして、翌朝の日が昇ってきたころ、、、。

「あ、目が覚めた!目が覚めたね!」

不意、彼の唇が動き始めたのである。

「水穂さん。」

ジョチがそっと語りかけると、

「み、水、、、。」

そういうのである。ジョチは、わかったといってすぐに立ち上がり、食堂からグラスを出してきて、水をいれ、彼に飲ませた。杉三が、

「すごい、うまそうに飲むなあ。」

というほど、おいしそうに飲んでいる。

と、いうことは、

「末期の水ではありませんでしたね。そうですね。新年そうそう、川の番人も働かされるのはいやでしょうね。」

その笑顔がその答えだった。

「へへん。川の番人に断られたか。そうだよな。川はわたれんさ。正月休みくらいくれよ、なんて、川の番人にしかられたんじゃないのか!」

とりあえず、波乱万丈の2019年の幕開けであった。

「ほりゃあ、日が昇ってらあ。初日の出だ。まったくよ、こんなときに初日の出を見るなんて、な、なんだかよ。不思議なもんだな。」

日が昇ってくれたということは、もしかしたら希望が持てる一年になるのかも知れないと、杉三もジョチもそう思ったのであった。



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初春 増田朋美 @masubuchi4996

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