ピクニック
@sakamono
第1話
カウンター越しに店主の宮さんが敷板を置こうとしたので、僕は文庫本を読みさして生ビールのジョッキを横へよけた。宮さんは敷板にコンロを乗せるとコンロの中の、薄い水色がきれいな固形燃料に柄の長いマッチで火を点けた。すぐにオレンジ色の炎が上がった。コンロの上に一人用の小さな土鍋を置いてふたを取る。昆布を敷いた、水の張った土鍋の底に賽の目よりは大きめの、無骨に切られた木綿豆腐が折り重なっていた。豆腐はすぐにくつくつと身震いを始めた。
「すぐに食べてください」宮さんが言った。
ひと煮立ちさせてあるのだろう。今日のような冷たい雨の降る冬の夜は鍋物がうれしい。小鉢には醤油と酒を煮詰めたタレにあさつきが散らしてある。豆腐をひとつつまんでタレにつけ、口へ運ぶ。温かなものがのどから腹へ下りてゆく。その道筋を感じながら、ふうと息を吐いた。豆腐はやっぱり木綿が好きだな、と思う。生ビールのジョッキを持ち上げたところで空になっていることに気がついた。目を上げると「何か飲みますか?」と宮さんが言った。
「氷ください」
僕はカウンターの後ろの棚に並べられたキープボトルの中から自分の芋焼酎をつかみだして手元に置いた。
「はい、氷」
宮さんが氷を入れた容器とロックグラスを差し出す。受け取ってボトルの隣に置く。山盛りの氷にマドラーがさされたアイスペイル、ロックグラス、湯豆腐の小鍋立て。目の前に広がる光景に浮かれながら、いそいそと芋焼酎のロックを作る。店の中はほどよい暗さの照明で、宮さんの趣味だと思われる七十年代の洋楽が静かに流れている。ミュージシャンを目指して上京したけれど、はずみで料理人になってしまった、と以前に聞いたことがあった。長身で痩身で、長い髪を後ろで束ね、口ひげをたくわえた風貌は、言われてみればフォークシンガーっぽい気がしないでもない。酒を飲み、本を読んだりもの思いに沈んだりしていると時々宮さんから話しかけてくることもある。けれどあらかた放っておかれる。落ち着いて好きに過ごすことのできる店だ。宮さんの朴訥な人柄も含め、僕はこの店が好きなのだけど無愛想と感じる人もいるかもしれない。いつ来てもたいてい客は僕一人。客が増えると静かな時間を過ごせなくなるけれど、店がつぶれてしまうのも困る。草子さんとゆかりさんが来れば、また違った雰囲気になるのだけれど。
「正月どうしてました?」宮さんが話しかけてきた。
「飲みっぱなし。七草がゆとか食べたいな」
「他には?」
「……えっとね、山芋千切りください」
「はいよ」
宮さんは威勢よく応えると狭い厨房で細長い手足を持て余すように、大きく腰を割って山芋を刻み始める。僕は読みさした文庫本に目を戻した。
二杯目の芋焼酎を飲み終える頃、入り口の引き戸が開いた。
「いらっしゃい」
独特のイントネーションで宮さんが言った。
「こんばんはー」
にぎやかに入ってきたのは、やっぱりゆかりさんで、その背中越しにちょこんと顔を出した草子さんが「寒いよー」と身ぶるいの仕草をしてみせる。外の冷たい空気が二人と一緒に入ってきた。
「まだ降ってますか?」
「ええ、しとしとと。雪に変わりそうもないです」
草子さんは脱いだダウンジャケットを椅子の背もたれにかけた。暖かそうなダウンジャケットを脱いだ草子さんは一本の固い棒が立っているように寒々しく見える。L字型のカウンターの角をはさんだ、僕のはす向かいに二人は並んで腰かけた。
「串焼き盛り合わせ、まぐろ山かけ、それとツナサラダ」ゆかりさんが宮さんからおしぼりを受け取りながら注文する。「あと、お湯割りのセットちょうだい」
一度腰かけた草子さんが立ち上がって棚に並んだキープボトルの中から、麦焼酎を持ち上げた。ラベルに大きく黒のマジックで「ゆかり&草子」と書かれている。こういう字を「ヘタウマ」というのだろうか。草子さんが書いたのだろう。センスのある字でうらやましく思う。
「草子は?」たばこに火をつけながらゆかりさんが聞く。
「そんなに入らないよ」二軒目だそうだ。
「一軒目はどこに行ったんですか」
「点心。ビールと紹興酒をたくさん飲んで、最後に五目焼きそば食べちゃって」
「シェアしたでしょ。和食は別腹だし。和、洋、中、甘いもの、と四つあるし」
(牛?)こちらを向いた草子さんの目がそう言っている。眉根を寄せて口元だけで笑って。
「ごぶさた。何読んでるの?」ゆかりさんが盛大に煙を吐き出してこちらに肩を寄せる。
「何これ『めす豚ものがたり』って。SM?」
「やらしー」お湯割りを作った草子さんが陶製のグラスをゆかりさんの前に置く。
「違いますよ」
「まあいいや、乾杯」ゆかりさんがグラスをぶつけてくる。本の内容に特に興味はないようだ。
草子さんとゆかりさんは、たいてい二人でここへ飲みに来ていてよく顔を合わせる。毎週週末に、多いと週に三度くらい会うこともある。ここ半月ほど僕は来ていなかったから「ごぶさた」という気分になるかもしれない。
「仕事が忙しくて。休日出勤もあったり、疲れ気味で」
「そういう時こそ飲んで発散しないと」
「ゆかりさんのお酒につき合うと疲れが取れませんよ」
「死なすよー」ゆかりさんが朗らかに言う。「長いつき合いだけど、仕事聞いたことないよね。何してんの?」
「長いつき合いって。一年経たないですよ、知り合ってから」
「えーっ、そうだっけ」ゆかりさんが酔いのにじんだ声を上げる。「もうずい分昔からの飲み友達みたいな気がする」
「私も」
「酒を飲んでると時間の進み方が違うから。短い間でも濃密な時間を過ごしてきたんです、僕たちは」
二人に友達認定されていたことがうれしくなって調子に乗る。
「濃密」僕の言葉をくり返してゆかりさんがけたけた笑った。
「やっぱり、やらしー」
「四月で一年になるんだけど、何かお祝いしてくれます?」
「祝中野区民一周年、って感じでどうでしょう」草子さんが言った。
「ごちそうしてくれるんですか?」
「ううん、ワリカン」ゆかりさんがすげなく言った。
「私覚えてますよ。初めてここで会った時のこと」草子さんが言った。
引っ越しは春だった。中野通りの桜並木は盛りを少し過ぎた頃で、忙しなく花びらを散らせていた。降りかかる花びらごと荷物を部屋に運び入れ、床の上にあぐらをかいた。頭と肩にのっていた花びらを払ってひと息つくと急に疲れを感じ、そのまま大の字に寝そべった。これから引っ越しに使ったレンタカーを返しに行かなければならない。荷物が少ないとはいえ一人の荷運びは体にきつかった。三十を過ぎたばかりの年だけれど、このところ駅の階段をかけ上がると息が切れる。かけ上がらなければ間に合わない電車は見送るようになった。とりあえず引っ越しは終わった。荷ほどきは明日にしてレンタカーを返したら飲みに行こう。思わぬ経緯で引っ越すことになったけれど、新しい街での暮らしが始まると思うと少しずつ気分が高揚してきた。疲れて気分がハイになっているだけなのかもしれないが。一年前、中野区の新井に引っ越してきた夜、僕はそんなふうに飲みに出たのだった。
レンタカーを返した後、アパートの周りを歩いてみたものの、辺りは住宅地で飲食店のような店は見当たらない。中野通りを横切る踏切りを、轟音を立てて黄色い車体の電車が走り過ぎていった。宵闇の中、最寄り駅のはずの新井薬師前駅までとりあえず歩いてみる。駅前に、居酒屋やスナックが数軒入っている古い雑居ビルがあった。適当に目星をつけた一軒の引き戸を開けると「いらっしゃい」と声がかかった。その独特のイントネーションに店主は東北の人かな、と思った。
店内は空いていた。入り口近くのカウンターに女性客が一人。L字型にカウンターが伸び、奥に四人がけのテーブル席が二つ。壁に設えられた棚には焼酎ばかりのキープボトル。入ると女性客がちらりとこちらを見たので、心持ち会釈をしながら後ろを通って、入り口から一番離れたカウンターの隅に腰を下ろした。「生ビールください」
「ゆかりさんじゃなかった」その女性は芝居がかったがっかりした表情を作って、店主に話しかけた。「すぐ着くって連絡あったのにな」ひとり言のようにつぶやいて、手元に置いた麦焼酎のボトルから水割りを作り始めた。そして今度はしっかり僕の方を向くと「乾杯」と杯をかかげた。僕は持っていた生ビールのジョッキをあわてて目の高さに持ち上げた。草子さんと初めて会った中野区新井の夜だった。
「私と会わなかったっけ?」
ゆかりさんが串からはずした焼き鳥を、箸でつまんで口に放り込む。
「あの日はゆかりさんと入れ違いでしたよ」
草子さんは麦焼酎の水割りをしずしずと飲む。
「ふうん……前はどこに住んでたの?」
以前は三鷹の下連雀で塔子と暮らしていた。「暮らしていた」という言葉だと実情とずい分違っているように思う。「寝食を共にしていた」だけ、というのが本当のところだ。お互い仕事が忙しいせいだったのは分かっていたけれど、どれだけ仕事が忙しくても一人の時はもう少し生活しているという実感があった。二人ではどうも気が休まらない。想定と違う状況のはずだったのに、僕はこの結果を予期していたような気もした。つまるところ一つ屋根の下に他人と長くいることに向かない質なのだ。なぜ一緒に住むことになったのかといえば、塔子の積極的なアプローチによるところが大きい。人の期待に応えられない自分はイヤだったから。一年足らずで僕の方から関係の解消を切り出した時「やっぱりね」というのが塔子の返答だった。塔子の方にも感じるところがあったのだろう。
塔子は三日かけて僕の部屋から荷物を運び出した。三日目の晩、大きめのトートバッグに細々とした最後の荷物を詰め込んだ後「ちょっと飲もうよ」と塔子は言った。駅前のバス通りから細い路地に入ったところの、何軒か連なる店の一軒だった。大手チェーン居酒屋だったかもしれない。その帰り道、占いをしてもらった。「見てもらおうよ」と塔子が僕を引っ張っていったのだ。酒が入ってから塔子は陽気になっていた。占い師はシャッターの下りた雑居ビルの前の狭いスペースに、布をかけた小さなテーブルを置いて、うずくまるように椅子に座り、街灯にぼんやり照らされていた。顔を上げた占い師は夜目にも派手な化粧をした五十見当の女だった。近づくと黒だと思っていたテーブルにかけられた布は、濃い紫色だと気がついた。対面の椅子に塔子が僕を座らせようとする。「僕が見てもらうのか?」聞くと「うん」と答える。占いは「手相」を見るようだった。何を言われたか細かいことは覚えていない。ただ「北の窪地に川を望む高台に住めば吉」と言われたことを覚えている。
一軒目でたっぷり食べてきたはずの二人は、串焼きもツナサラダも、あらかた片づけてしまっていた。一つだけ残っていた山かけのマグロを草子さんは口に放り込んだ。「別に引っ越さなくても……感傷的なことで」ほんの少し眉根を寄せて、ひやりと言った。
「北の窪地ねえ」ゆかりさんが言った。
「坂を下ってくと哲学堂公園があるでしょ。あそこに調整池ってあるの、知ってる? あふれた川の水をためとくの。昔は雨が続くと妙正寺川がよくあふれたのよ」
「地名ってその土地の由来を示してるっていうでしょ。お隣は『沼袋』」
草子さんが気を取り直すように明るく言った。
「そこに昔から住む古老に、土地の謂れを聞く若造みたいな気分です」
ゆかりさんが空いたグラスを草子さんに手渡す。草子さんがグラスに氷を入れ始める。
「まあこっちも人生四十年やってるし」
「あ、こら」草子さんが氷を入れる手を止めた。
えっ、十も上? 二人の年齢に僕は驚いた。同じくらいの年だと思っていた。
「へえ、そんなに若く見られてたんだ」ゆかりさんが笑う。
「いえ、ゆかりさんは年相応に……」
「ぶち殺すよ」笑顔がコワイ。
ゆかりさんは草子さんから受け取った水割りをひと口飲んで「まあでも、三鷹の女なんかもうどうでもいいでしょ。まだ若いし全然大丈夫」と言った。まだ若い若いとくり返す。何が大丈夫なんだか。
「法律に規定されちゃうと面倒で」
どういうこと? という顔を僕は草子さんに向けた。
「私もゆかりさんも、バツイチ」
「知らなかった? 宮さん、言わなかったの?」
「そんなこと言わないよ」
これ以上料理の注文はないとふんだのだろう。宮さんは生ビールを飲み始めている。たまにこういうことをする。
「草子なんか十年もしてから別れたのよ。決断できなすぎ」
「ゆかりさんは二年でしょ。堪え性なさすぎ」
二人の間で頻出する話題らしくかけ合いのようだ。
「何事も十年続ければ大したもんだ……と父が言ってました」草子さんがひとり言のようにつぶやいた。
「そういえばこの前、草子さんのこと『枯れ木』みたいだって言ってたね」
宮さんが僕に言った。飲むと少し口数が多くなる。
「『枯れ木』じゃない。『ススキ』って言ったんですよ」
「あらステキ」両手を合わせてうれしそうに草子さんが言う。
「そんな反応でいいの?」ゆかりさんが言った。
実際草子さんは化粧っ気がまったくなく、年齢を知った今となっては年相応に見えなくもないけれど、洗いざらしのTシャツのようなその風貌は、それも含めて「枯れた魅力」がある。「枯れた魅力」という言葉が女性に対してほめ言葉かどうかはともかく、草子さんの感性ならば僕の言いたいことが伝わる気がした。もちろんそんなことは口に出さず、僕は自分の芋焼酎のロックを作り始めた。もう何杯目か分からない。思考が迷走を始めている。目が覚めたら翌朝で、あの部屋できちんと寝ているのだ。今のいい気分を翌朝覚えていないのは祭りの後のようにものさびしい。こういう気分は、きっと酒を飲んでいる時間の中にしか存在しないのだ。ゆかりさんがあははと笑っている。草子さんもうふふと笑っている。いいんじゃないの、と宮さんが相槌をうつ。そうだねそれがいい。と、僕も賛同した……ような記憶がある。
草子さんから電話があって驚いた。「何で番号を?」うろたえながら聞くと「この前教えてもらいました。やっぱり覚えてないんですね」草子さんがくすくす笑いながら答えた。
あの日、話は花見におよんだ。それじゃ哲学堂公園で。宮さん花見用の弁当作ってよ。などと盛り上がったらしい(らしい?)。花見は四月でしょ、まだ先だなあ。今どこかに行きたい。言いだしたのは草子さんだった。梅ももうちょっと先だし……蝋梅! 蝋梅を見に行きましょう。ちょうどいい時季でしょ。
寒いからイヤとゆかりさんが抜けた。宮さんは店があるから、近いところならいいんだけど、といった具合。結果、僕と草子さんで観梅に行くことになったらしい(らしい?)。
「それがいいと大賛成してましたよ」電話口で草子さんが言った。
記憶がないので何とも言いようがないのだけれど「賛成」に「大」をつけたのは草子さんの主観に違いない。僕は宝くじに当たったような、厄介ごとを背負い込んだような、それでも少し浮かれた気分で通話を終えた。
約束の日、午前九時半。僕と草子さんは秩父鉄道長瀞駅の改札を出た。
駅の正面に真っ直ぐ
「閑散としてますね。お店もみんな閉まってるし」少しの皮肉を込めて言ってみた。
「天気もいいし暖かいし、清々しいでしょ」
皮肉が通じた様子は微塵も感じられない。こういうところゆかりさんと似てるよなあ。
麓のロープウェイ乗り場に着くと「こっちですよ」と草子さんが手招きした。ロープウェイに乗れば山頂まで五分だけれど別にある登山道を歩きたいらしい。
「ロープウェイ、使わないんですか?」最近体力に自信のない僕は一応聞いてみた。
「プロセスが大事だから。一時間ほどですよ」草子さんは笑顔で膝の屈伸なんかを始める。見れば出で立ちこそジーンズにダウンジャケットといつもの草子さんだけれど、わりとしっかりした登山靴を履いていた。屈伸をするたびにリュックの横にくくりつけられた鈴が、カラコロと澄んだ音をたてた。
草子さんに連れられて踏み入った登山道は、まるで切り通しのように左右に高い赤土の崖を見ながら歩く。崖の斜面から太い木の根がのぞく。見上げると崖の上には青空を背景に葉を落とした木々が高くそびえる。この先、眺望のよいところもあるのだろうかと訝るような道だ。せっかく歩くのだから見晴らしのいい景色にも期待したい。ドンドンドンと、どこかで上がったらしい花火の音が三発聞こえた。いつ雨が降ったのか、道はぬかるんでいた。いや、これは霜柱が溶けたのだ。その時僕はその道に、わだちがあることに気がついた。この道を車が通って頂上まで行けるんだ……。草子さんはと見れば軽やかな足取りで歩いている。絶えずカラコロと鈴の音がしていた。クマ除けの鈴なのだろうな、あれは。
「こんなところにクマなんか出ないと思ってるでしょう」草子さんが言った。僕はとっさに答えられず口ごもった。まさにそんなふうに思っていたところだったのだ。
「備えよ常に。子供の頃ガールスカウトに入ってたんです」
草子さんはなおも軽やかに歩く。その頃の賜物なのか、この健脚は。ずい分昔のことのはずだから、それだけではないのだろう。思えば草子さんのことなど何も知らないのだった。僕は駅の階段をかけ上がって息切れする自分を省みた。前を歩く草子さんは僕が遅れるのを見てとると、適当な頃合いで立ち止まって待っていてくれた。僕は道の端に腰を下ろし、汗をふいてペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。小春日和で歩いているとうっすら汗がにじむ陽気だった。
少し先を歩いていた草子さんが急に立ち止まった。遅れて追いついた僕が「何ですか?」と聞くと「しっ!」と言って上を見上げた。「なんだろう?」
あごを上げて固まった姿勢のまま左右に目を走らせる。聞き耳を立てる。僕も同じように空を見上げて立ち尽くした。暖かくからっと晴れ上がった冬の青空。高いところを吹く風が刷毛で掃いたような雲を作っている。かすかに吹く風が梢を揺らす音以外何も聞こえない。駅から少し離れただけの山の中で、世界に二人しかいないような気分になる。
その時、葉ずれの音に混じってギーギーギーと重たいものがきしむような音が聞こえた。枝と枝がこすれ合って鳴る音とは違う、もっと重たい音。
「あ、あれ」
草子さんの指さす先にあった崖の上の苔むした大木は、よく見ると根元のあたりが朽ちていた。そのせいで傾いだ大きな体を預けるように隣の木にもたれかかっていた。微妙なバランスでその不安定な姿勢のまま倒れずに、風に揺られてギーギーギーと重たい音をたてている。ギーギーギーといくらでも鳴る。
「どうなってるのかな? これ」
「大風にやられたとか枯れたとか、そういうふうに見えません。自然死、かな」
草子さんはリュックから水筒を取り出してひと口飲んだ。
「木の寿命はびっくりするほど長いけど事情はそれぞれでしょうし。この木はこの木として大往生を遂げたってところでしょう」
傾いだ木を眺めて言う。何か妙な言い回しだな。僕はまじまじと草子さんの顔を見た。目が合うと草子さんは照れたような顔をしてまた水筒に口をつけ「これ、お水ですよ」と言った。
山頂の蝋梅は三分咲きほどで草子さんを大いにがっかりさせた。
薄い黄色のビーズのようなつぼみが、いくつも枝先を彩っている。近づくと強い香りがただよってきて、満開の頃ならばその香りに酔うんじゃないかと思われるほどだった。その中を草子さんは、はずむように歩く。ひとつの木に数輪しかない、大きく開いている花を見つけては立ち止まって、中をのぞき込んだり匂いをかいだりしている。
「蝋梅の花びらのこの質感、好きなんだなあ」草子さんは言った。「さて観梅に本腰を入れますか。つぼみばかりだけど」
草子さんは気に入ったらしい一本の蝋梅の脇に、リュックから取り出したレジャーシートを敷き始めた。そこで僕は草子さんのリュックの大きいわけが分かった。草子さんはリュックから三つのタッパとコッフェル、煮炊き用のストーブまで取り出した。
「ちょっと早いけどお弁当。私、お弁当も作るって言ったよね。忘れた? ああ、そりゃそうだよね」
草子さんは一人で納得し、てきぱきと用意を進めた。腕時計を見ると十一時半だった。ストーブに火をつけてお湯を沸かす。口にチャックの付いたビニール袋をひらひらと振ってみせる。中に野菜が入っている。
「ベーコンもあるよ。これでコンソメスープ。それから定番の唐揚げと玉子焼き、おいなりさんにかんぴょう巻き」朗々と口ずさむように言って次々とタッパのふたを開けてゆく。
さすがガールスカウト。僕は感心して手伝いもせずに見入っていた。他に人は少なく、たまに通りかかるハイカーがめずらしいものを見るような視線を寄こしてきたけれど、草子さんは頓着せずに小さなまな板の上で野菜を刻んだ。
「スープができるまで少々時間がかかります。というわけで、はいこれ」
草子さんが今度は缶ビールを取り出した。リュックをのぞき込むと六缶パックの缶ビールが入っていた。
「これ重かったでしょう」
「何、造作もない」草子さんはすました顔で答えた。
山頂は眺望が開けていた。冬の陽に照らされて白く光る長瀞の町と荒川が見える。すっかり葉を落とした木々に山肌を埋め尽くされた、秩父の山々が真っ青な空に映えていた。冬の暖かな日差しが心地よく一本目の缶ビールはあっという間だった。たまに吹く風に涼を感じるくらい暖かな日だ。草子さんに勧められるまま二本目の缶ビールのプルタブを起こす。ふと二人で日向ぼっこしているみたいだ、と思った。
「いい眺めですね。来てよかった」僕は素直に言った。お弁当もおいしいし。
「やっぱり。実はそれほど乗り気じゃなかった?」
「乗り気でしたよ。早い時間に来てよかった、ってことです」
草子さんは缶ビールとおいなりさんを持ったまま、時おり立ち上がっては蝋梅の花びらをつついたり匂いをかいだりする。戻って来た草子さんが僕の隣にひざ立ちになって、指についたおいなりさんの油をなめながらスープの味をみた。「スープ食べますか?」
僕は三本目の缶ビールを開けようか迷ったけれど、草子さんにならって開けることにした。酔っぱらったというほどではないけれど、横になって昼寝をしたい気分になってきた。日差しが暖かい。
「この前テツヤさんに会いました」スープをついだ金物のボウル(草子さんはチタン製のシェラカップだと言った)を手渡される。
テツヤというのは宮さんの店でなじみになっている院生で、彼女と二人で飲みに来ていることが多かった。
「しばらく会ってないなあ。ヤツに会うとおごらされるんだけど」
僕はスープに口をつける。おいしい。野外で食べているからなのか、草子さん手ずから作った料理だからか。
「リエさんと別れたそうです」
おや? まあ。
「そっか、それじゃまたおごってやるか。あ、もしかして引っ越すかな」
「そんな感傷的なタイプじゃないでしょ、テツヤさんは」
ひやり、という調子で草子さんが言うので僕はまた、まじまじと草子さんの顔を見た。草子さんは缶ビールに口をつけ、目だけでこちらを見る。
「深刻ぶるの、キライなのよねー」そして破顔一笑。「こういうふうに言うこと自体深刻ぶってる気もするけど」
「自家撞着っていうんでしたっけ、そういうの」
「大仰な言葉ね、それ」
野外で酒を飲んでいても、やっぱり時間の進み方は違うらしい。少しの酒だけれどとても気分がよくなってきた。景色はいいし暖かいし、お弁当もビールもおいしい。何しろ今日はデートなのだ。そう、デートと呼んで差支えないと思う、これは。
何か妙に浮かれている自分に気づく。こういう時どう振る舞うのが正解か。
「こんなふうにいつまでも、みんなと飲んでいられたらって、そう思うよ」
半ばひとり言のようにつぶやいた。
「そんなの無理だねー」
草子さんが困り眉の笑顔を僕に向けておどけた。
そしてすぐにその表情をほどくと
「帰りはロープウェイで下りようね」と言った。
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