冥土喫茶へようこそ!

深水えいな

第1話

 その奇妙な喫茶店は、とある地方都市の寂れた裏路地にひっそりと建っていた。


 ビルとビルの隙間に伸びる急勾配の階段。看板には青いコーヒーのマークと、小さな手書きの文字で『冥土喫茶』。


 私はその奇妙な店名とコーヒーの香りに惹かれ、半ば無意識に階段を上り、店のドアを開けたのだった。


 ひび割れたすりガラスのドアを押すと、カラン、コロンと錆び付いたベルの音が出迎える。


「おかえりなさいませ、御主人さま」


 頭を下げたのは蝋人形のように白い肌のメイド。

 濃紺のエプロンドレスは、最近流行りのいかがわしいデザインではなく、クラシカルなロングスカートで、思わず安堵の息を吐いた。


 慣れないメイド喫茶。落ち着かない私を、メイドは奥のソファー席へ案内してくれた。

 

 見ると、隣の席の初老の男が、机に突っ伏して寝ている。こんな落ち着かない店でよく寝られるものだ。


「おかえりなさいませ、御主人さま」


 メイドが男に声をかけた。

 ヨダレを垂らしながら目を覚ます男。ガタン、と膝をテーブルにぶつける音。男はスッキリした顔で「ただいま」と答えた。 

 

 やれやれ、こんなところで寝るなんて周りに迷惑だろう。そう思い辺りを見回すと、その男だけでなく、二、三人いた客が、皆テーブルに突っ伏して寝ているではないか。


 メイド喫茶で寝るだなんて、よっぽど疲れが溜まっているのだろうか。


「このメイド喫茶はずいぶんと変わったところのようだね」


 尋ねると、メイドはメニューを差し出しながら答える。


「ええ。当店はただの喫茶店ではございません。うちは『冥土喫茶』ですので」


「え?」


 メイドはメニューの表紙に書かれている『冥土喫茶』という文字を指し示す。


「失礼ですがお客様、当店のご利用は初めてですか?」


 メイドはメニューの横にあったパンフレットを開く。


「当店の自慢はこのコーヒーです。このオリジナルブレンドコーヒーを飲めば、誰でも冥途に行くことができ、臨死体験ができるのです」


「なんだって?」


 不思議な店もあるものだ。しかし近頃では戦国物やロボット物の喫茶もあるというから、ここもそういった変わった趣向のメイド喫茶なのかもしれない。


「臨死体験をして、どうするんだい」


「そうですね、死んでしまった身内に会うためという方もいらっしゃいますし、冥土に行く事で、日ごろの小さな悩みを忘れ、生まれ変わったような気分になれる、という方もいらっしゃいます」


 淡々とした口調でブレンドコーヒーの写真を指さし説明を続けるメイド。冗談を言っているようには見えない。


「こちらが使用上の注意と禁則事項でございます。ご利用の前に良くお読みくださいね。もちろん、普通の喫茶店としての利用も可能でございます」


 私はぼんやりとした頭でとりあえずメニューの一番上を指さした。


「じゃあ、このブレンドコーヒーで」


「かしこまりました」


 店の奥では、黒いベストを着た店主らしき中年紳士がコーヒーを入れている。


 少しして、メイドがコーヒーを持ってきた。味も香りも、普通のコーヒーとなんら変わらない。


 半信半疑のまま一気にコーヒーを飲み干す。グラリと地面が揺れた。コーヒーの中のミルクみたいに、景色が渦を巻いてぐるぐると歪んでいく。そうしているうちに、私の意識はどんどん遠くなっていった。



 気がつくと私は河原に立っていた。辺りには薄暗い霧が立ち込め、足元には丸い砂利がいくつも転がっている。


「ここはどこだ?  私はさっきまで喫茶店にいたはず」


 先ほどのメイドの言葉が思い起こされる。


 “このオリジナルブレンドコーヒーを飲めば、誰でも冥土に行くことができ、臨死体験ができるのです”


「ひょっとして、ここが冥土なのだろうか?」


 考え込んでいると、何者かに後ろから服を引っ張られた。


「おじさん、駄目だよ」


 振り向くと、悲しげな瞳で見つめる小さな男の子の姿。


「石を積むのをやめては駄目だ。鬼がやってくるよ」


「鬼?」


 霧の中、目を凝らすと、そこにはたくさんの子供たちがいて、皆一心不乱に石を積んでいる。


 合点がいった。そうか、ここは賽の河原なのか。


 昔聞いたことがある。


 親よりも先に死んだ親不孝な子供が死後に行く、三途の川のほとりを賽の河原と言うのだと。


 そこで子供たちは、延々と石を積む作業をしなくてはならず、しかも石がある程度まで積みあがると、鬼がやってきてそれを壊してしまうのだという。


 つまり賽の河原にやってきた子供たちは、延々終わりのない石積みをしなくてはならない。まさに無限地獄というわけだ。


 そこまで考えた時、地響きに似た大きな足音近づいてきた。


「鬼だ」

「鬼が来た!」


 子供たちのざわめきに恐怖の色が混じる。 


 やがて霧が晴れ、異形の者が姿を現した。

 黒くごつごつした皮膚。鋭い牙。頭から生えた角。手に持ったこん棒で、次々と子供たちの積み上げた石を壊していく。


「ああっ」

「やっとここまで積み上げたのに!」


 鬼はこちらを振り返った。

 私はびくりと身を震わせた。

 が、鬼が見ていたのは私ではなく、後ろにいた五歳くらいの子供であった。子供は鬼の姿を見て泣きだす。


「やだーっ、もうこれ以上壊さないで!」


 子供が積み上げた石に覆いかぶさる。

 鬼はそんなことなどお構いなしに、棍棒を振り上げた。


「危ない!」


 思わず子供を庇おうと走った。

 頭上で振り下ろされる棍棒。頭に向かって一直線に振り下ろされる様子が、まるでスローモーションのように見えた。


 その瞬間、頭の奥で若い女性の声が響いた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「……えっ?」


 そこで私は目を覚ました。目の前に広がるコーヒーの香り。薄暗い店内に静かにメイドの声が響いた。気が付くと私は冥土から帰還し、元の喫茶店に戻っていた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」

 

 メイドが再度私に呼びかける。真っ黒な瞳が私の瞳を心配そうにのぞき込む。


「……ただいま」


 振り絞るようにして返事をすると、メイドの口元に微かに笑みが浮かぶ。


「こちらは『冥土の土産』です。もしよろしければお持ちください」


 渡されたのは、「冥土喫茶」のパンフレットと小さな包みだった。

 ぼんやりとした気分のまま会計をし店を出る。


 あれは夢か空想か――いや。頭を振った。驚くべきことだが、ここは本当に冥土喫茶だったのだ。


 こうして世にも不思議な冥土に行った私は、不思議なことにそれ以来めきめきと仕事の成績を伸ばした。

 石を積み続ける苦行に比べたら、終わりのある仕事なんて楽なものと思えるようになったからかもしれない。


 すっかり冥土喫茶にのめりこんだ私は、それから何度も冥土喫茶に足を運ぶようになった。




「ねぇ、このコーヒー、どこのなの?」


 妻がコーヒーを飲みながら尋ねる。

 妻が飲んでいたのは「冥土の土産」のドリップコーヒーだ。

 このコーヒーは、冥土に行く作用こそないものの、香りが強くてなかなかに美味しいのだ。


 この際なので、私は思い切って、妻に冥土喫茶のことを話してみることにした。


「なにそれ。ぼったくりじゃないの?」


 妻は初めのうちは半信半疑だったが、私が熱心に説明するのを聞いて、少しづつ興味が湧いてきたようだ。


「もしそれが本当なら、私も行ってみたいかも」


 そういえば、妻はこの前テレビでやっていた、恐山のイタコの特集にひどく興味をひかれていた。もともとこういうことに興味があったのかもしれない。 


 次の休みに、私は妻を冥土喫茶に連れていくことにした。


 冥途喫茶に着くと、妻は躊躇なくコーヒーを飲み干し眠りについた。

 妻の寝顔は安らかで、とてもじゃないが冥途になんか行っているようには見えない。

 雑誌を読みながら待っていると、三十分くらいで妻は戻ってきた。


「おかえりなさいませ、お嬢さま」


 メイドが耳元で囁くと、妻は顔を上げた。目には大粒の涙が浮かんでいる。


「どうだった?」


「死んだ両親に会ってきたわ」


「よかった?」


「ええ、すごく」


 妻は店を出てからも、ずっと感慨深げに遠くを見つめていた。


「すごく良かったわ。また来ましょうね」


 それからというもの、妻は私以上に冥土喫茶に通いつめるようになった。

 妻は去年両親を事故で亡くしている。

 ひょっとして冥土で今は亡き両親に会っているのかもしれない。



「ただいまー」


 そんなある日、仕事から家に帰ると、家は真っ暗で、いつも夕ご飯を作って出迎えてくれる妻の姿は無かった。


 また例の冥土喫茶に行ったのだろうか。

 自分が薦めた手前注意しにくいが、お金もかかるし、家事がおろそかになるのなら、しばらく通うのをやめさせたほうがいいかもしれない。


 そう思っていると、誰もいない真っ暗な部屋に携帯電話の着信音が鳴り響いた。


『冥土喫茶』


 暗闇で光る四文字に、えも言われぬ悪寒が走る。


「……はい、もしもし」


 恐る恐る電話を取ると、遠くでメイドの声がした。


「もしもし――様ですか? 大変です。奥様が、冥土に行ったまま戻ってこないんです」


 冥土に行ったまま戻ってこない?


 心臓の鼓動がサイレンのように打ち鳴らされる。口の中がカラカラに渇いた。


「分かりました。すぐそちらに向かいます」


 慌てて店に向かうと、机に突っ伏したまま動かず、メイドと店主に囲まれた妻の姿があった。


「おかえりなさいませ、おかえりなさいませ……ダメです」


 首を振るメイド。


「もしかしてこれは、禁則事項を犯したのかもしれないねぇ」


 店主が顎に手を当て考え込む。


「禁則事項?」


「はじめに説明したと思いますが」


 メイドがパンフレットの該当ページを見せてくれる。



 ◇禁則事項 


 以下のことをすると、現実世界に戻ってこられない可能性があります。絶対にやめましょう。


・冥土の食べ物を口にする

・他人に本名を教える(冥土の住人に名前を聞かれたときはあだ名で通しましょう)

・元の世界に戻る際に後ろを振り返る


 


 こんな禁則事項があったとは。

 初めに説明は受けたものの、賽の河原では食べ物をもらうことも名前を聞かれることも無かったので、すっかり忘れていた。


 妻は電化製品でもスマホでも、説明書なんか全く見ない人だ。

 だからどこかでこの禁則事項を犯してしまったのかもしれない。


「どうすれば、妻をこちらに戻すことができますか?」


 マスターが答える。


「そうだなあ。まだ奥さんが向こう側に行ってからそんなに経っていない。今ならば、急いであなたが迎えに行けば助かるかもしれません」


「分かりました。やってみます」


 私は妻を助けるために冥土に行くことに決めた。


 コーヒーを一気に飲み干すと、ぐらりと世界が揺らぐ。

 気が付いたら私は薄暗い空間にいた。


 どこだここは?


  普段冥土に行った時に見ている光景とは全く違う。

 まさか一人ひとり見る冥土が違うだなんて思ってもみなかったので、少し動揺してしまう。


 駄目だ。私が弱気になってどうする。

 気を取り直して妻の名を叫ぶ。


「早織ーっ、 どこだ。返事をしろ!」


 薄暗いトンネルのような道。私は妻の名前を叫びながらひたすら歩いた。


 するとトンネルの先に立派な髭を蓄えた男が立っていた。


 まるで彼自身が光を発しているかのように、ぼんやりと彼の周りだけが明るい。私は彼に尋ねた。


「早織を、私の妻を知りませんか。こちらに来たきり戻ってこないのです」


 彼は地を這うような低い声で言った。


「きみが彼女の旦那か。残念だが、君の奥さんはもはや『こちら側』の住人になってしまった。規則を破り、こちら側の食べ物を口にしてしまったのだ」


「そんな」


 やはり早織は規則違反を犯していたのだ。


「しかし彼女はこちらの食べ物をひとくち口にしただけで、すぐに吐き出してしまったのだ。なのでもしお前が約束を守れるというのならば、特別に妻を返してやっても良いぞ」


「本当ですか。 やります。どんな約束でも守ります」


 必死に頭を下げる私に、男は満足そうに頷いた。


「なに、簡単な約束だ。今からお主には妻の手を引き、このトンネルをまた戻ってもらう。その際に後ろを振り向かなければいいだけの話だ」


「なんだ、そんなことですか。それなら大丈夫ですよ」


「そうか。では」


 男がそう言うと、暗がりから妻が現れた。

 暗いので姿ははっきりと見えないが、妻がいつも着ているオレンジのカーディガンの袖口と、そこから伸びる白い手首だけははっきりと見えた。


 私は妻の手首をしっかりと掴み、駆け出した。


 後ろから妻がついてくる足音が聞こえる。しかし妻は一切言葉を口にしない。

 掴んだ手首が異様に冷たい。まるで氷でも握っているかのようだ。


 いけないいけない。


 思わず振り向きたくなる気持ちをぐっとこらえて走った。

 後ろから、妻以外の何かが追ってくるような気配もするが、それも無視する。

 ただ一心不乱に走り、やがてトンネルの出口が見えてきた。


 眩しい光に包まれる。やった、 成功だ。無事、早織を連れ戻したぞ!



 その瞬間、早織の足音が消えた。




 それから一週間経った。


 仕事から帰ると、アパートの隣りの部屋に住んでいる佐藤のおばさんが私に声をかけてくる。


「あら、最近奥さんを見ないけど、どうしたの?」


「ええ、最近暑いせいか、体調を崩してしまって」


 怖い目にあったからなのか、あれ以来、早織は体調を崩してしまっているのだ。


 あれから私は早織の代わりに家事をしなくてはならず、あの冥土喫茶からは足も遠のいている。


 もっとも時折あの冥土喫茶の前を通ることはあるが、いつも看板はしまわれたままで人の気配もないのだが。


 きっと店を畳んだか、あるいはどこか他の町へ移転でもしてしまったのかもしれない。


 そもそもあの店そのものが幻だったのではないか。最近ではそう思うこともある。


「ああ、それで今日はお弁当なのね」


 佐藤のおばさんは、合点がいったように私が手に持っているスーパーの袋に視線を落とした。


「もしかして、ゴミ捨てとかの家事もあなたがやってるの? 駄目よ、夏なんだから生ゴミとか貯めちゃ。最近は臭いも凄いんだから」


「はい、分かりました」


 私は足早にアパートの階段を登ると、ドアを開け、ただいまと早織に声をかけた。


「おかえり」


 早織は、少し元気が無いものの明るい声で返事をしてくれる。


「今日は唐揚げ弁当にしてみたよ」


「そう。お肉ばっかり食べないで、野菜も食べるのよ」


 妻が優しく忠告してくれる。


「分かったよ」


 私は唐揚げを口に運ぼうとした。


 その瞬間、頭の中である光景がフラッシュバックし、私は唐揚げをもどした。


 脳裏に浮かんだのは、妻の白い右手だった。


 その手を決して放すまいと、しっかり握ったその刹那、手首の肉がズルリとむけ、腐った肉片が露わになる。

 驚く私の目の前で、剥き出しの骨は無常にも白く、そこからウジがわらわらと這い出してくる、そんな世にもおぞましい光景が、何度も何度も私を襲う。


 ――なぜ今更こんな妄想を。


 頭を振ってその光景を振り払おうとした。

 私はこの通り、ちゃんと妻を取り戻したのに。ほら、その証拠に妻はちゃんと元気にそこに座っているではないか。



 私の目の前では、最愛の妻がいつもと変わらず、にっこりとほほ笑んでいる。



 唐揚げに群がるハエを追い払う。

 夏だからか、今日は妙にハエが多い。やはり生ごみを捨てていないのが原因だろうか。換気もこまめにすべきかもしれない。



 ドンドンドンドンドン。



 ――すみません、警察ですが。



 ドンドンドンドンドン。



 ――すみません、こちらから異臭がするとの通報があったのですが。



 それにしても、今日はなんだか外が騒がしいな。せっかく早織とのひとときを楽しんでいるのに。


 立ち上がり、コーヒーを淹れる。コーヒーの強い香りは、すべてを誤魔化せる。



 “私も、コーヒーが好き”



 早織が微笑む。

 いつもと変わらない笑顔。

 ああ、愛しき妻よ。

 いつまでも、いつまでも一緒だよ。



 熱いコーヒーが胸を焼く。

 闇に沈んでいく街角。

 辺りに響くサイレンの音。


 あの喫茶店は、今もどこか別の知らない町で営業を続けているのだろうか?


 遠くでカラスが夕暮れを告げる声が、何度も何度も路地裏に響いていた。




【完】

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