入道雲、夏の終わりへ緩やかに登りゆく。
ただの柑橘類
入道雲、夏の終わりへ緩やかに登りゆく。
一軒家、二階の窓の外、近くの木々で蝉が鳴いている。
うっすらと目を開ける。枕元に置いてある端末の充電は一〇〇パーセントになっており、大きく画面に映るデジタル時計の時刻は八時十二分を示していた。
大きな伸びをして、俺は布団をひけらかして起き上がる。
付けっぱなしのテレビからの天気予報で、今年は猛暑日になるとの情報が俺の耳に入って来た。昨年よりも五℃近く上昇しているようだ。最低気温でも、ここ一ヶ月で二十℃を下回ることは無いとの事だった。
階段を降り、欠伸をしながら髪を整える。
父譲りのくせ毛だ。夏場は湿気で整えにくいし、朝は少し嫌気がさす。
「……あ、まこちゃんおはよ!」
綺麗な赤色の瞳をした、俺の母。いつ見ても可愛いし、何処へ行ってもはしゃぐ母さんは、言うなれば子供のような存在だった。
「おはよう、母さん」
もぐもぐとパンを食べながら、俺はソファに座ってニュースを見始めた。
出かけるのが大好きだった俺の母は、決まって休日、祝日のどれかに必ず俺を連れて出かける。
そして今日も、今現在出かける準備をしている。いつものショルダーバッグを背負い、いつもの唾の長い帽子を被るのだ。
「まこちゃん、今日はどこ行くの?」
俺が行きたい場所は多少遠くにある。
なんでもかんでもいきあたりばったりで、行くところも毎回毎回気まぐれな母さんが提案するのはそう珍しい事でもない。
だがほとんどは俺の行きたい所に行っている。母も母で、俺の提案した所に行けば子供のようにはしゃいでいた。
「よし……っと」
スニーカーを履いて家を出る。
真夏の太陽は今日も、見下すように俺を凝視している。照りつけるその光は、俺の髪の毛を明るく照らす。
俺が住んでいるところは海沿いで、湿気という湿気はさほどなく、夏でも少し涼しいと感じるような気候に位置する。が、髪は整えにくい。それだけはどうしても悩みだった。
それでいてかなり田舎。都会は人混みが嫌だという母のわがままだ。
そんな田舎で、母は近場の中学校で歴史の先生をしていた。
そんなに歳もいっていないせいか身長のおかげなのかは分からないが、よく高校生くらいに見られたんだとか。
だけどそれもあまり気にしてはいなかったらしく、「小さいなら小さいままの方が可愛がられるのよ?」とニコニコしながらいつも話してくれる。
「よし、行くか」
「はーい」
白ワンピースに麦わら帽子姿。母は何を着ても似合う。
はっきりいって、俺の母はかなり色白だ。それでいて髪の色も、現代では珍しい薄桃色。昔は腰まである長さだったらしい。
俺の髪色は茶色。言ってしまえば、父の遺伝。でも、出かけ好きな性格や面倒事が嫌いなところを見ると、性格は母譲りのようだ。
母の左手には、赤い三日月形の模様が刻まれていた。何年も見てきたが、恐らく簡単には取れないものなのだと前々から察していた。
「そういえば、母さんのあの左手、なんなんだ?」
「あぁ、これねぇ……」
以前そう聞いた母の目はどこか懐かしげで、これ以上聞くことを
どこか辛い思いをしてしまったに違いない。
母のその目を見る度に、そう思っていた。身体の所々に古い傷跡がついているし、しまいにはこめかみの部分に小さな切り傷のような跡までついているのだ。幼少期からやんちゃをしていたと母から聞いたが、本当にそうとは肯定しがたい量の傷跡だ。
「んーそうねぇ、お母さんが大学を卒業して歴史の先生になる……大体十年くらい前かしら。そこら辺で色々あったのよ。……って、この前も話さなかったっけ?」
母の両親は既に亡くなっている。その悲しい過去の全貌は、俺も小さい頃に母から聞いているので知っている。
けど、話を聞いた限りだとそれは五歳の時のはずだ。何があったのだろうかと、俺は疑問を持った。
「……うお、今日もいるのか」
ギョッとして避けたところには、見知らぬ女の人。足は透けており、真夏に着るにふさわしくないであろうロングコートを着用した、見るからに「あっこの人幽霊だ」と思えるような姿をしている。
「俺も癖になったな、色んなところ見るの」
「あら、また昔の癖が出ちゃったのね。これも遺伝なのかしら……」
「あら、おはようまこちゃん!」
不意に話しかけられる。
近くに住むおばさんだ。小さな頃から俺の姿を見ているので、もう十数年と見慣れたおばさんだった。
「おばさん、おはようございます」
「おはようございます~」
「今日はお出かけかい?」
「えぇ、そうです。少し遠くまで」
「そうかいそうかい、熱中症とか流行ってるから、気をつけていってきてね!」
「はい、行ってきます」
「行ってきます~」
いつも挨拶するおばさんは、今日は風通しの良さそうな肌色のカーディガンを着ている。二十七インチの電動自転車を押しながら話しかけてくるその姿は、さながら幼い頃に見た俺の祖母に似ている気がする。
生まれ変わりとかじゃないよな……。そんなことを思いながら、また歩き始める。
「……ねぇ、あの子」と後ろから声が聞こえる。
ふと振り返り見ると、俺を指さして何かを言っているおばさん。
と、その隣にはおばさんの友達であろう人物がぼそぼそと話をしている。少なくとも俺の事には違いない。
ふわり。柔らかな微笑みを催した母が、入道雲を背に立っているのが見えた気がした。
潮風が母の髪を大きく揺らす。飛んでいきそうになった麦わら帽子を抑えながら、母は「行きましょ」といつもの笑顔で言うのだ。
「……気にしないでおこう」
踵を返し、俺は歩く。
入道雲がだんだんと上に伸びていく。それはかすかに見える海の底から伸びている事が目で確認できる。
俺の地域は、夏の日にこうして入道雲がよく見える。
俺はそれが好きで、小学校に入る前も両親とよく海まで出かけて水遊びをしたものだ。
家に帰れば、出かけた時の写真が沢山ある。殆どは写真立てに収まり、リビングの物置棚に飾られているが、何枚かは俺の誕生記録を示したアルバムに貼っている。
駅に着き、ホームの一番前の乗り場に立ち、電車を待つ。
発車標はあと一分程で次の電車が来ることを示していた。いつもは大体三十分程待つような単線の電車だ。今日は運が良い。
百メートルにも満たない小さなホームには誰もいない。こんな田舎町なのだから、人がいなくても不思議ではないだろう。
「母さん、あれなんて書いてあるの?」と、漢字も平仮名もままならなかった頃、分からなかった俺は母によく聞いていた。
「あれはね……」と読み方を教えてくれ、更にその駅名付近であった歴史や出来事なども話してくれた。
さすが歴史の先生、言っていることがよく分からない。
小さな頃はそう思っていたが、今になるとよく分かる。
俺も元は理数系だったが、母のおかげで最近は文系男子になりつつある。影響されるって怖い。
そういえば母は、よく巴御前や板額御前の事について話していたな。
その時の俺は、歴史はそんなに好きではなかった為、聞き流す程度に聞いていた覚えがある。
今思えばどちらもかっこいい女武者であり、母もその二人を話す時は『巴さんも坂さんも元気かしら……』と、何処か懐かしげに言葉を発するのだ。
その発言を聞く度に、いつも引っ掛かりを覚えて、俺の頭を離れない。何故そういうのか、何度理由聞いても、遠慮しがちな微笑みを返されるだけだった。
『まもなく、電車が参ります。黄色い点字ブロックまで、お下がりください』
と、スピーカーから流れるその無機質な声に、俺は現実に引き戻される。
小学校にも上がらない時まではこの声の真似をしていて、クスクスと母を笑わせていた記憶がある。
やがて一両編成の市電がホームへと走ってきた。錆びた電車の鉄の匂いと潮の匂いが混ざり、変な匂いだった。
「市電に乗るのも久しぶりだな。最近はこっちまで来なかったから……」
俺は昔から電車が好きだった。
電車で出かけることが多いので、俺が漢字などを聞く代わりに母は電車を聞く。
知らぬうちにお互いがお互いのことについて物知りになってしまった。
ゴロゴロ……と重い音を立てて扉は閉まる。
やがて電車はゆっくりと動き発車する。
電車内は誰もいなかった。
少し寂しさを覚えながらも、俺は運転席の反対側から見える景色をじっと見ていた。
「……巴御前、坂額御前……あぁ、この人達か。あまり調べてなかったから分からんかった」
「まぁ、懐かしい!」
巴御前は、歴史を知るものなら名前位は知っているであろう、日本では数少ない女武将の一人。
坂額御前も同様で、それぞれ平安時代末期と初期に活躍した女武将。
どちらとも平安に関わっている歴史上の人物だ。歴史の先生の母ならではの知識だが、それ以外にも、教科書に載っていない史実まで語るため、多少知りすぎている部分もある。
「お、海が見えてきた」
「あっほんとだ……! いつ見ても綺麗ね、まこちゃん!」
「……綺麗だな」
電車に並列するように、カモメの群れも飛んでやってくる。
カモメはよく餌をやる。そのせいなのか、俺はカモメにだけは懐かれている。
『末広町……末広町です。お出口左側です』
「あと一駅か……」
そうこうしているうちに、あと一駅というところまでやってくる。電車はゆっくりと停車して、やがて扉が開く。
『扉閉まります』その声の数秒後、先ほどと同じような重い音と共に扉は閉まる。
そしてまた、ゆっくりと動き出す。
電車が揺れる度、俺の身体が揺れる。
ガタンゴトン……静かなその音を聞きながら、俺は目を瞑る。
俺がこれから行く先は、毎年欠かさずに訪れている大切な場所。同時に、海がすぐそこにあるためにさざ波の音を聞きながら回るのが楽しみの一つ。
『次は、大町……大町です。お出口左側です。電車とホームの間が広く空いている場合があります。お降りの際は足元に……』
「よし……準備するか」
十分ほどしてようやくアナウンスが流れ、座席から降りて左側扉の方へとゆっくり歩く。やがてだんだんと速度が落ちていき、ホームで電車はとまる。
扉が開き、運賃を払い俺は電車から降りた。
海沿いだからか、少し涼しかった。
視界が晴れ、鮮やかな青が街中を包む。遠近法で見える家々は、まるで俺を導いているようにも思える。
「着いた~」
「んん~っ……」
俺は欠伸を一つあげて大きく伸びをする。
「さて、行くか」
「はーいっ」
さわさわと吹き付ける風が潮を運び、潮の匂いが鼻をつんざく。
潮の匂いは嫌いではない。海沿い住み海沿い育ちな俺はむしろ潮の匂いは好きな方だ。
潮の匂いが無いと、海が海らしくないような気がして、俺は少し嫌なのだ。
「おっとっと……」
とあるお店の前を通り過ぎようとして、数歩戻る。『佐々木生花店』古ぼけた看板には、そう書いてあった。
この看板もかなり年季が入ってきたな。昔はすごい綺麗だったのに、なんて思いながらも、俺は中に入った。
「あら、真琴君、いらっしゃい!」
中に入ると少しだけ涼しかった。上を見ると、真新しいエアコンから冷ややかな風が優しく吹き付けている。
「どうも。エアコン入れたんですね」
「そうなのよ! さすがに暑くてしょうがなくて!」
「分かります、暑いですよね。今年は特に……」
色とりどり、鮮やかな花々が並んでいる。花言葉も立派な花の一部だ。慎重に選ばねばならない。
俺が好きな花は彼岸花と鳳仙花。どちらも花言葉は悲しいものだが、それよりも形や色合いが俺は好きだった。
「おばさん、これと……この花と……」
一通り花を選び終え、「はいよ、待っててね〜」と言っておばさんは花を次々と取っていく。
その間に俺はカバンの中から財布を取り出し、残金を確認。
もう二〇〇〇円しか残っていない。まだ初旬だと言うのに、使いすぎたな。
「うげ、今月大丈夫かなぁ……まぁ、しょうがないよね」
毎年のことながら、金欠なんてもう慣れてしまった。
ここに来る度に思い出すのは、母と一緒に来た爺さんらの墓参り。お盆の日は毎年気温が高くじめじめしていて、歩くの疲れた! 母さん抱っこー! とだはんをこく……基、わがままを言う俺を無言で抱っこして、お供え物や花が詰め込んである袋をもって歩き出す母の姿だ。
母は甘いハッカの匂いを
「お待たせ! したっけこれね、八〇〇円!」
レジの会計板に八〇〇と英数字で書かれた数字を見た俺は「一〇〇〇円からで」と一〇〇〇円札を渡す。
「はいはい、一〇〇〇円からね!」
ピピピ、と無機質な音を立ててドロワーが開き、「二〇〇円のお返しね!」と俺にお釣りを渡してきた。
「どうも」
「毎年ご苦労ねぇ、大変っしょ?」
「いえそんな、やらんばならんことですから」
「そうかいそうかい……喜ぶだろねぇ」
「……えぇ、まぁ……
……母も、天国できっと喜んでいますよ」
微笑んで、俺はそう言う。
一瞬の静寂。あちこちでセミがけたたましく鳴き叫び、エアコンが入っているのにも関わらず、その静寂だけは余計に暑く感じてしまった。
「うんうん……亡くしたんは残念だけど、まこちゃんが来てくれるなら、きっとお母さんも喜んどるべさ」
「……そう、ですね。では」
最敬礼をして店を出る。
俺も母と同じく、母譲りの霊感がある。歩いていた時に見えた幽霊も、その他の幽霊も姿がハッキリと見えるタイプで、ごく稀にどれが生きている人だか分からなくなってしまう時もある。
だから時々、変な武装をした落ち武者霊が見えて知らぬ間に一人話しかけたり、片腕のない男の子と鉄道の話をしたりと……小さな頃は色々と大変だった。
七月八日。俺は「母さん」に会いに行くために、毎年この日に墓地に行くのだ。
「……早く行かなきゃな」
二十七センチのスニーカーが、地面の砂利と擦れる音がする。一定のリズムを刻んでいるように聞こえて、俺は心做しか楽しく思っていた。
ふわり、さわさわ、風が吹く。海が一望できる墓地に着き、俺は膝に手をついて息を整える。手桶に水を汲み、多少よろめくもバランスを取り直し、また歩く。
水が俺の歩みに合わせて左右に揺れて少しこぼれる。
そんなことすら気にしないほど、俺は長方形の物々が並ぶ空間を、まるで導かれるように通り抜けていく。
「……お墓では一年ぶりだな、母さん」
やがて着いた先は一つのお墓。吹き付ける風に煽られ、反対の手に持つ袋の中に入っている花が緩やかに揺れる。
『
とても綺麗な字でそう書かれた墓の前に静かに座り、手を合わせる。
それはとても、静かなお参りであった。
「……少し遅れたよ、ごめんね。母さんがこの花達が好きだってのは知ってたから、あって良かった」
三十秒ほどして合わせ終わったあと、手桶からひしゃくで水を汲み、墓にそっと掛けて掃除をした。
一年ぶりに見たお墓は少し汚れていた。鳥の糞もついているし、ついでに少しだけ布巾で取り除こうか。
苗字の下に「
空夏は、俺の母さんの名前だ。
名前の由来は母の誕生日が七月八日と、真夏の日なこと。
その日は入道雲が盛んに登っていて、それがとても神秘的であったこと。
それにちなんで「夏の空に登る入道雲のように、のんびりした子に育って欲しい」という、母の両親……つまり、俺からすれば爺さん婆さんの願いから来ているそう。
俺の名前、
半紙を下に敷き、母さんの好きだったお菓子と缶ジュースを置く。置いた缶ジュースはカコン、と子気味のいい音がした。
線香に火をつけ手で仰いで消して、線香皿の上に横に置く。
母さんは線香の匂いはあまり好きではなかった。『あの時を思い出すからやめて』と嫌がった匂いだから。
「ちょっとだけ……我慢してくれな」
花立てに水を入れ、花の茎を揃えて花立てにそれぞれ添える。
「あそうだ母さん、聞いてよ。俺、母さんが通ってた大学に合格したんだ。凄いだろ? それを言いたくてさ。今日友達との予定入ってたんだけど、断って来ちまったんだ」
へへ……と寂しく笑う。
「長野の諏訪市っていうのどか所だったよな。もしかしたら、函館よりものどかなのかもな。……あ、年に一回は帰るから、絶対会いに来る。それだけは覚えておいてね、絶対にこの日に帰ってくるから!」
母さん、空夏は俺が八歳の時、心臓癌で亡くなった。
俺の目の前で、小さな手で大きな俺の手を握って、「まこちゃん、高校受験頑張って大学合格して、就職して頑張るのよ?」なんて、微笑みながら言った。
その数時間後、急に容態が悪くなり、母さんは逝ってしまった。
二十八という短な人生の幕を下ろした母さんの顔は、霊安室で見た死に顔も酷く綺麗で、且つ微笑んでいた。
「………お盆の時、家族三人で毎年ここに来て、伊月爺さんや架純婆さんの墓参りをしたよな。同じところに母さんが眠ってるなんて、俺信じられないよ。どう反応したらいいんだろうな……」
海沿いということもあって、やはり風は強い。
吹き付ける風に少々煽られる。
波の音に掻き消されそうになりながらも、俺は墓に話しかけ続ける。
まるでそこに母さんがいるかのように。
「……さて、俺行くよ。あんまし長くいとっても、邪魔っしょ?」
にしし、と笑って立ち上がる。
膝をついた俺の手は、少しだけ汗で濡れていた。
「……したっけね、母さん」
お菓子とジュースをカバンの中にしまい、手桶とひしゃくを持って俺は足早にその場を去ろうとした。
『まこちゃん、おめでとう』
「……!」
バッと墓の方を振り返る。
一瞬、母さんが笑っている姿が見えた。ような気がした。
いや、見えた。こちらを向いて、亡くなる前に見せたあの微笑みを、もう一度俺に投げかけていた。
「……ありがと、母さん」
……俺は、咄嗟に目元を拭う。
むせ返るような夏。セミが五月蝿く求愛を示し、入道雲は機嫌よく登っていく。
花立てに添えられたカスミソウ、シオン、ミヤコワスレが寂しく風に揺れる。
花言葉はそれぞれ『幸福』『あなたを忘れない』『また逢う日まで』
あぁ、と小さく言葉をこぼす。
今でも母さんといられたら、どれだけ良かったのだろうか。
笑っていたのだろうか。
……いいや、きっと泣いていただろう。俺は弱虫だ。母がいないと、何も出来ない弱虫な先生もどきだ。
俺の大好きな母さん。一緒に買い物に行ったり、勉強を教えてくれたり、それぞれの話で盛り上がったり。
叱ってくれたり、抱っこしてくれたり、寝れない時に子守唄も歌ってくれた。
中々お礼が言えなくて、ごめんなさい。
生きているうちに、一緒に喜んで欲しかった。抱いて欲しかった。褒めて欲しかった。
母の大好きなかき氷買って、一緒に食べたかった。夏まつりに綺麗な浴衣を着て、大人気なくはしゃぐ可愛い母の姿を見たかった。
もっと、想いを伝えておけばよかった。大好きだって言っておけば、こんなに後悔しないで済んだのに。
────もっともっと、母さんの声を聞きたくて。
その手に触れたくて。
甘いハッカの香りを、いつまでも嗅覚に残していたくて。
笑う顔が見たくて。
泣いた顔に伝う涙を拭いたくて。
花火を背に、逆光で暗くなる母の寂しげな姿をずっと見ていたくて。
俺よりも小さなその身体を、背中を、ずっと追いかけてきて、ここまで来たのに。
これじゃあなんのために頑張ってきたか分からないじゃないか。母さんの馬鹿野郎。
大学の合格通知が家に届いたのは、つい昨日なんだぞ。
「…………っ」
涙ぐんだ。視界がぼやける。
さっき涙を拭っただろ。なんで、どうして止まらないんだよ。
数分の間、俺はその場で泣きじゃくっていた。その日は周りに人がいなかったのが、せめてもの幸運だった。
やがてこぼれる涙を気にも止めず、顔を上げて登る入道雲を見る。住宅街が並ぶ視界の左端下からひこうき雲が高く伸びて、入道雲とぶつかった。
いつかの歌にあったな。俺がまだ幼い頃、眠れない俺の為に本を読んでくれた母さんが、俺が本当に寝る直前まで子守唄としてよく歌っていた。
「……上を向いて……歩こう……」
『涙が、零れないように……』
入道雲、されど緩やかに登りゆく夏の終わりへ。
「……誕生日おめでとう、母さん」
───その日、母さんは三十九回目の誕生日を迎えた。
入道雲、夏の終わりへ緩やかに登りゆく。 ただの柑橘類 @Parsleywako
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