喪女の婦警がアポなし召喚！ 「名ばかり管理職の魔王！」

第4話「魂の価値」

「腹、膨（ふく）れるな」

　運転席に座るベクターフィールドが時折、シフトノブから左手を放し、腹を撫（な）でていた。ホワイトソースを使ったグラタンは腹持ちがいい。

「足りないよりいいかなって……」

　独り者の亜紀が丁度いい量などわかっているはずもなかった。健啖家のベクターフィールドでも持て余す程になった。

「いや、足りねェよりはいいぜ。その通り」

　悪かったといいながら、ベクターフィールドが愛車を走らせる先は、前世紀には持（も）て囃（はや）されたが、今世紀初頭には寂れ、捨てられたように佇（たたず）むウォーターフロントの外れ。

　開発が中途半端なまま中断して再開される気配もない場所であるが、その一角にある廃ホテルの駐車場に愛車を停めたベクターフィールドは、車外へ降りてもすぐに移動しない。

「昼間来たら、最高なんだぜ」

　両手をフレームに見立てて構えているベクターフィールドは、駐車場に停めている景色が似合うと思っている。このホテルと愛車は、同時期のものだからだ。

　それは亜紀も同感と思うのだが、

「そんな事より――」

　感慨（かんがい）に浸（ひた）るよりも、優先すべきは仕事である。

「体液？」

　被害者宅で見つけた薬を示した亜紀に、ベクターフィールドは頷く。

「黒と思ってだろうけど赤だぜ。黒く見えるくらい濃い赤。血液だな」

「血……」

　見つめる亜紀だが、何が分かるという訳でもなく、ベクターフィールドは唇の片方を吊り上げて表情を作り、

「昔から手ェ出す人間がいる分野だぜ」

「そんな事、本当にやってたら人類の存亡に――」

　話が大きくなりすぎているという亜紀の声は遮（さえぎ）られる。

「人間を一番、殺してるのは何だと思う？」

「人間？」

　首を傾げる亜紀に対し、ベクターフィールドは「ブッブー」と唇を尖（とが）らせた。

「蚊」

　亜紀でなくとも意外と感じるかも知れないが事実だ。

「媒介してくる病気な。自殺より事故より戦争より人を殺してるぜ。この程度の薬、人類の存亡にゃ関わらねェよ。第一、そんな事で動いてないだろ？」

　そういわれると、ハッとさせられる。

　亜紀がベクターフィールドを呼び出してまで調査しているのは、人類の存亡が理由ではない。

　人を傷つけるものだからだ。

「行きましょう」

　力強く頷く亜紀も、廃ホテルに入る時は緊張した。今、手の中にあるのは特殊警棒のみ。とはいえ、書類整理を命じられている、いないに関わらず、亜紀に銃などないが。

「車で待っててもいいぜ。危ないだけだ」

　横目で亜紀の方を見るベクターフィールドも、スチール製とはいえ、特殊警棒一本しか持たない亜紀は頼りない。亜紀も警官であるから剣道を嗜（たしな）んでいるが、ここから先にいるのは、少なくとも悪魔をどうこうできる存在だ。

「行くわ。私が責任者なんだから」

　責任感から出た言葉であるが、それに対してベクターフィールドは嘲笑を向けるしかない。

「死ねば、お前の魂をもらっていく事になってる。気をつけろ」

　ベクターフィールドとの契約は「亜紀が死ぬまで」だ。

　魂を失えばどうなるかは知らないが、行動を阻害する理由にしないのが亜紀の性分だ。

　そして心許（こころもと）なくはあっても、無謀とは思っていない。

「小規模でしょう？　犯人は個人に近い規模」

「どうして？」

　ベクターフィールドが聞き返すと、亜紀は「簡単」と肩を竦（すく）め、

「大規模になればなる程、露見する確率は上がる。漏らそうな人、実行者を始末すればいいっていう人もいるけど、それは逆。殺人と密売の２件になるから、もっとバレ易くなる」

　そこまで考えていたからこそ、亜紀はここへ来た。錯乱した女生徒と薬が結びついた所で予想し、ベクターフィールドの調査で確信した。

「死体処理まで入れたら３件か」

　その通りだとベクターフィールドは笑った。

　相手は単独だ。

　ただし――、

「おい！　相手は悪魔をどうこうできる奴だって忘れるな！」

　ベクターフィールドが怒鳴ったのは、奥へ行こうとドアを開けた亜紀が、あまりにも迂闊（うかつ）だったからだ。

「張るなら、そこなんだよ！」

「え？」

　立ち止まって振り向いてしまった事で、亜紀は失敗を重ねてしまった。

　何かがドアを貫いた音は耳に届いたが、衝撃はなく、また痛みは遅れて来た。

　腹部を抉（えぐ）られた感触と共に、足から力が抜ける。

「チィッ」

　大きく舌打ちしながら、ベクターフィールドはドアに蹴りを入れた。隠れているドアごと蹴破（けやぷ）るつもりだったが、ドンッと重い音を立てたドアには、敵も押しつぶされてはいなかった。

「ハッハァ」

　ベクターフィールドに嘲笑を向ける男は、亜紀が見た中年男だ。亜紀はサラリーマン風だったといったが、スーツを着崩し、髪型を手櫛を入れた程度のラフさにすば、成る程、「悪魔」というイメージに合致する小汚さになる。

「チッ」

　男に注意しつつ、ベクターフィールドは亜紀を一瞥した。下腹部を刺され、捻（ひね）られている。致命的だ。傷を縫合しただけでは助からない。

「迂闊（うかつ）に入ってくんじゃねェよ」

　男が向けてくる嘲笑は、亜紀ではなく、出自を見抜いたベクターフィールドへ向けられている。

「卯建（うだつ）の上がらないセールスマンが、何の用だ？　俺は魂なんて扱ってねェぞ」

　契約を取って代価を得る――セールスマンとは巧い例えであるが、代価に魂を得るベクターフィールドを男は強く嘲（あざけ）っていた。

「何に使うんだよ？」

　金のように役立たないと笑いつつ、男は亜紀を刺した剣を持ち上げる。柄に意匠（いしょう）されている鷹は、自由を象徴しているのだろうか。

　その自由は何を指しているかと言えば――、

「お前も元人間――自殺者だろ？　地獄での責め苦に耐えられなくて悪魔になった奴だ」

　苦痛を味わう側ではなく、味わわせる側になったという事だ。

　――自殺？

　緩慢（かんまん）な死の中にいる亜紀が見上げたベクターフィールドは、フンと強く鼻を鳴らし、

「ああ、酷かったぜ。こっちの一ヶ月があっちじゃ十年だ。頑張れても百年だった。そこから先は、こっち側だぜ」

　自嘲だ。

　その自嘲に、男の嘲りは更に強くなる。

「魔王なんて身分の割に、契約者の前に行くとか、アホか」

　自由気ままに振る舞えるのに、とまで男がいうと、ベクターフィールドの自嘲は嘲りに変化するが。

「悪魔なんて、ホトホト頭に来る連中ばっかだろ。時間にルーズ、平気でウソを吐（つ）く。いい加減な仕事をされるより、自分で出向いた方がマシだぜ」

　ベクターフィールドが宙に手を伸ばした。

「クソ食らえだ。いや、悪魔共を前にしてはいわないぜ」

　そして最大限の侮蔑を込めて――、

「本当に食いそうだ」

　その言葉は、悪魔らしい悪魔である男へも向けられている。

「殺す！」

　殺気の籠（こ）もった声が男の喉から迸（ほとばし）った。

　地面を蹴り、脇に構えた剣で横薙（よこな）ぎに一閃。胴斬（どうぎ）りにしてやろうという男のスピードは、目にも止まらないという言葉通りの神速だった。

　だがベクターフィールドに刺さったのは、その声だけだ。

　剣は刺さらない。

　男の視界の中から、握っていた手ごと剣が消えていた。

「は……はぁ！？」

　素（す）っ頓狂（とんきょう）な声をあげる男の眼前に、柄に狗鷲（いぬわし）が意匠されているベクターフィールドの剣がある。

「手……手ェ！」

　手首から先を断ち切られた両腕に呆然とした顔をする男に対し、ベクターフィールドは言う。

「泣いた事、あるか？」

「！？」

　何を訊かれているのか分からないという顔の男は、何より雄弁に語っている。

　――ある訳がない。

　悪魔になって以降、何もかもが楽勝だった。人を簡単に殺せる力を備え、それを行使しても裁かれない身分である。金ならば、自らの体液――今でこそ血の赤だが、主としてバラ撒いているのは白――を薬（ドラッグ）にすればいくらでも手に入る。かつ顧客はバカばかりと見下せる相手なのだから、ストレスもない。

　それに対し、ベクターフィールドは顰（しか）めっ面（つら）を向けた。

「俺はあるぜ」

　契約を司る悪魔であるベクターフィールドは、いう程、楽勝に生きていられない。たった今もそうだ。悪魔にすらセールスマンとバカにされ、そして自らが語った通り、欺（あざむ）かれ、切り捨てられそうになる事ばかりの道程を歩いてきた。

「悪魔は自分の涙を飲むと、感情と引き換えに力を得ていく。喜怒哀楽のどれか一つが、丸ごとなくなるまで飲み続けた悪魔が魔王だ」

　剣を構える。その佇まいは、男の頭上に降り注ぐ斬撃を容易に想像させた。

「待て！」

　男は堪（たま）らず叫んだ。

「悪かった！　助けてくれ！」

　もう一度、地獄に落とされるのはご免だった。

「魂だったら、一つなんてセコい事、言わねェ。百でも二百でも――」

　薬のためならば魂を売る者もいるはずだというが、ベクターフィールドの表情は何も変わらない。

「魂って何に使うか知ってるか？」

　馬鹿にしていた取引材料だろうというベクターフィールドは、回答を期待していない。

　男の回答など待たず、自らいう。

「次に人間に生まれてくる権利だ」

　剣を持ち上げるベクターフィールドの顔には、もう嘲笑すらなかった。

「いらねェよ、お前が集めてくる小汚い魂なんか。俺が探してる人のじゃねェ」

　振り下ろす。

「俺がなくした感情は哀だ。哀れみなんてねェ」

「……こんな腐った世の中に……」

　地に伏した男の顔は、もうベクターフィールドには見ない。

　だからベクターフィールドは、自分を自殺に追い込んだ世界だという男にも、嘲りの感情は向けなかった。

「全世界を見てきたようないい方してんじゃねェよ。俺ですら、そう腐ってないって知ってるぜ」

　ベクターフィールドが思い浮かべるのは、は亜紀のアパート。

「そいつは寝て食って、日がな一日、ゴロゴロするしか能がないけど、生まれてから一度もウソを吐いた事がない」

　亜紀のコーギーだ。

「そいつは世界も人も愛してる。腐ってるとはいわせないぜ」

　その声を男が聞いていたかどうかは分からない。

　そして聞いていないといえば、亜紀もまた声すら聞こえなくなっていた。

「……」

　そんな亜紀へと近づくベクターフィールドは、腹を抉（えぐ）られ、もう意識のない亜紀を見下ろした。

　しかし死ぬのを待ち、魂を持ち去ろうというのかと思えば、そうではない。

　――事件は、まだ解決してないんだがな……。

　亜紀との契約は、「持てる能力の全てを使って協力する事」だった。

　女子高生の転落事件ならばこれで解決であるが、薬物事件は完全な解決とはいえない。

　――悪魔が一人で、勝手にやってる訳じゃねェんだよな。

　舌打ちした後、ベクターフィールドは剣を持ち替えた。

　――神なら、命の摂理を歪めたりしない。けどな。

　剣で自分の掌（てのひら）を傷つける。

「けど、悪魔なら――魔王なら……」

＊＊＊

「！？」

　亜紀が目を開けた時、眼前に飛び込んできたのは警察署の席だった。

　机上に報告書が一枚。

　書きかけの内容は、先日の自殺未遂の事。

　驚きに目を瞬かせる亜紀が見たカレンダーは、「翌日」だった。

「甘粕（あまかす）」

　状況が理解できないまま、係長が呼ぶ声に立ち上がらされた。

　係長は座ったままでと手で示した後、

「被害者のフォローに走り回ってたんだってな。母親から礼があった」

　ばつの悪そうな口調で何をいいたいかというと――、

「お前も、立派な警官だ。悪かった」

　管轄外の事に首を突っ込むなら書類整理でもしていろ、といった事への詫びだった。

「は、はい」

　呆気にとられてしまう亜紀だが、すぐに気付いた。

　ベクターフィールドが全ての能力を使って協力したのだ。契約を司る魔王は、決して契約内容を裏切らない。

「はい、精進します」

　相応しい言葉かどうかは分からないが、気持ちは込めたつもりだった。