後編
「全ての良いものは損なわれる。花は枯れ、生物は死に、善人は狂い、料理は腐り、自然は破壊され、社会は暮らしにくくなり、伝統は失われ、天才は凡人に引き摺り下ろされ、誠意は伝わらず、友情は壊れ、百年の恋は冷め、」
男は滔々と語った。
地獄のような絶望の吐露だった。
「子供は大人になり、理想は汚れ、政治家はスキャンダルを起こし――サンタクロースは、信じられなくなる」
薄暗い部屋の中である。
総理と呼ばれた壮年の男と、扇情的なドレスの美女は、二人だけでそこにいる。
「この世の中はクソだ。私はずっとそう思っているし、今後考えが変わることもない。だが」
男はそこで言葉を区切り、グラスの中の酒を飲み干した。
女は酌をしようとしたが、男は首を横に振った。
「……そうでない子供を、育てたかった。世界はきらきらと輝いていて、喜びと希望とに溢れ、人には愛があるのだと。世の中捨てたものではないのだと! ……そう、思ってくれる子供を。叶うことなら、私の手で」
「それで、サンタクロース?」
「そうだとも」
からかうような女の問いに、男は真面目くさって答える。
「素晴らしいだろう。サンタクロース。よい子にしていればプレゼントがもらえる。真理だ。それが真理であってほしい」
「だから、本当に作ることにしたのね。他国の偉い人たちとも示し合わせて」
「ああ。みんな同じように思っていた。……さて」
空になったグラスを、男はテーブルに置いた。
「私は行く。君は野次馬が誰もいなくなってから、密かにこの家を出て……そうだな。夏井のところにでも行くといい」
「あら――官房長官さん。いいの? あなたの側近でしょう?」
「いいとも。奴は五十年来の親友でな。この騒ぎでもずいぶんと“世話”になった」
男は膝の上の猫を抱き上げて立った。
白猫は不服そうにニャアと鳴いたが、女の膝へと託されると、すぐに安らげる位置を見出して落ち着いた。
「この子を頼む」
「お名前は?」
「ラウス」
「わかった。……いってらっしゃい」
女は猫の小さな手を取り、去り行く男の背に向けて振った。
男は振り返らなかった。
彼は階段を下り、廊下を歩き、革靴を履いて玄関を出た。
途端に激しいフラッシュが浴びせられ、無数のマイクが彼を取り囲んだ。
この国の政治の頂点にある男が、家の敷地から出るよりも早く、矢継ぎ早の質問に晒される。
「総理! 先日お会いしていた女性との関係は!?」
「奥様に何か一言を!」
「国会への影響についてどうお考えですか!?」
――その、はるか上方では。
雲一つない青空を、一筋の流星が駆けていく。
X字の噴炎を上げながら。
◆
せっかくのクリスマスなのに、今年も両親は帰ってこないらしい。
子は鎹だなんて言ったのは、どこのお花畑に住んでる人間なんだろう。
学校の成績は良い方だ。そうでなかったら怒られるから。
賞状も去年より多くもらった。一昨年の分も見せられてないけれど。
料理という特技もある。必然的にそうなった。だけど今日は、わざわざ手間をかける気分にもなれなかった。
レトルトのカレーを食べながら、テレビでお笑いの特番を見る。
少しでも気分を盛り上げたくて、リモコンで音量を数段上げた。能天気な笑い声が癇に障る。下げた。
ため息をつく。
自分はいったい何をやっているんだろう。何を期待していたんだろう。何の意味があると思っていたんだろう。
別に、元々、不幸でもない。十分じゃないか。十分恵まれている。
そこを取り違えて、高望みをして、的外れな努力をして、勝手に裏切られた気になって。
馬鹿馬鹿しい。罰が当たったんだ。分相応に生きろっていうことだ。
子供っぽい我が侭は、もうやめなきゃならない。
――その時、庭で物音がした。
背筋が冷えた。泥棒でも来たのか。
……やめてほしい。せめて、悪いことは起こらないでほしい。自分はもうちゃんと反省したから。
だから、これ以上は。
……恐る恐る、カーテンの隙間を覗く。
誰もいない。代わりに、庭に何かが山を作っている。
きれいな包装紙に包まれた、大小様々な四角形の――プレゼント?
そっと窓を開けた。
どこか遠くから、鈴の音が聞こえる。
夜空を見上げた。流れ星があった。鈴の音はそこから降ってきていた。
まさか。
有り得ないとは分かっているけれど、でも。
「サンタクロース……?」
◆
『メリークリスマス、サンダー1。クリスマスプレゼントには終戦記念日を頼む』
『任せておけ』
管制官の軽口に応え、彼は操縦桿を握った。
相棒の力強い鼓動が伝わる。逸る心をなだめるように、努めてゆっくりと滑走路へ向かう。
彼は空の死神だった。最新鋭の機体を駆り、敵を次々と撃墜するエース。
そういう人間が必要だと、正確に認識し弁えていた。
だが、ああ、もしも。
『ん……? 待て。何か聞こえないか?』
『何? いや、こちらは聞こえない。だが雪が降ってきたな。いや、これは雪か……?』
いつの間にか、それは降り始めていた。
雪の粒よりもずっと小さい、煌めく微細な光の粒子。
一瞬、誰もが思わず見とれた。そんな場合ではないと気付いたのは、その直後のことだった。
『……サンダー1、止まれ! エンジン出力が低下しているぞ!』
『把握している! 俺の操作じゃない。トラブルか!?』
彼だけではない。出撃の準備を進めていた他の機体も、全てが同様の不調に見舞われていた。
奇妙な天候に続いてのこの事態。そうなれば当然、連想すべき可能性がある。
『敵の新兵器か』
ぞっとする言葉だった。
相手の航空戦力を完璧に無力化する。現在の技術でこれほどの真似が出来るのかは疑問だが、実際に目の前の出来事を突き付けられては、あまりにも有効な戦術だと言わざるを得ない。
今、この基地は無防備なのだ。敵の編隊が到来すれば、ただ座して焼き払われるのを待つ以外に無い。
『……いや、どうもそうではないらしい』
最悪の想像は、だが否定された。
『レーダーと偵察機の情報からするに――後者は既に不時着しているが――、敵もまたこちらと同じ状態に陥っているようだ。第三勢力の類も確認されていない』
『……じゃあ、なんだ。今日はのんびりパーティーでもやってろって、神様の思し召しか?』
『……かもしれん』
笑いを含んだ管制官の応対に、彼も思わず肩の力を抜いた。
するとまた先程の音が聞こえてきた。今度は鈴の音だと分かった。近くなっている。
彼は弾かれるように上空を見た。
大きな流れ星があった。
『あれは……?』
馬鹿げていると思いながらも、しかし確信を持って彼は呟いた。
『サンタだ』
◆
少年は飢えていた。
彼の住む地区の住民は、皆そうだった。
少年の両親だってそうだ。食料や金目の物を持たずに帰ると、ひどく罵られ、暴力を振るわれた。
足取りは重かった。
なぜなら今まさに、食料や金目の物を持たずに帰ろうとしているところだからだ。
帰りたくないとも思ったが、この時期は路上では寝られないほど寒い。そうでなくても、子供が無防備にしていれば、どんな目に遭うか分かったものではない。
家に着いてしまった。
少年は己に強いて扉を開けた。
待ち構えていた父親が彼を持ち上げた。投げられるのかと思ったが、父はそのまま少年を抱き寄せ、さらには頬ずりまでしてみせた。
どうしたの、と少年は尋ねた。
いつの間にか母も近くにいて、上機嫌で答えてくれた。
この辺りの全ての家に、贈り物があったのだという。たくさんの食料に、燃料に、お金。
冬を越す備えになると同時に、今の生活から抜け出す助けになるもの。それらは物の形を取った希望だった。
抱かれたままで居間に入ると、部屋は十分に暖められていて、テーブルには見たこともないご馳走があった。
座らされた椅子は相変わらずギシギシ鳴ったが、食卓を囲む両親は、見たこともないくらい明るい顔をしていた。
少年は、こんなのはきっと夢だと思った。
そして、こんなに幸せならば、夢でもまあいいかとも思った。
その時、どこかから鈴の音がした。
窓辺に寄って外を見ると、夜空に大きな流れ星を見つけた。
少年の少ない知識の中にも、それが何と呼ばれるものかは記憶されていた。
「サンタクロースだ……」
◆
プレゼントは配り尽くされた。
一昼夜で全世界を巡った、宇宙から来たサンタによって。
『お疲れ様。君は見事に役目を果たした』
『ありがとうございます、博士』
人造人間の娘と、彼女を作った者たちの長は、互いにその労をねぎらった。
為すべきことを為し終えた後の、程よく弛緩した空気の中を、機械のそりは飛んでいる。
『これは、君に伝えるかどうか迷ったのだが』
『はい』
『我々は、本年をもって解散される。出資者はだいたい失脚するか、理念に賛同できなくなったそうでね』
『はい』
『……我々の夢は、ここで覚める』
『……』
博士の声には無念の響きがある。
ニコ-12はロールアウトしない。地上数百キロの宇宙ステーションでさえ、人の世のしがらみからは逃げ切れなかった。
それでも。
『地球はどうだね、ニコ-11』
『美しいです』
ニコ-11はそう言った。
彼女のいるコクピットからは、無限に広がる大地が見下ろせる。
『色々なひとが生きているから。みんなが違うことを考えているから』
『そうか』
今、その地平線の果てから、輝く太陽が昇り始めた。
影が吹き払われ、空の星が消える。それはクリスマスの終わる光景だった。
美しかった。
『私、生み出してもらえてよかった』
『……そうか』
◆
この年のクリスマスには、世界中で、本物のサンタクロースを見たという報告が相次いだ。
それは大いに世間の話題をさらったが、次の年には現れなかったので、夢の出来事のように忘れられていった。
今では未確認飛行物体の一例として、物好きな者たちの間で取り沙汰されるのみである。
Merry X-day 敗者T @losert
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