第4章 月明かりの下
ジェラールは屈辱的な気持ちでいっぱいだった。「鳥獣人」にまともに接触できなかったどころか、それに扮しているエスニア人の世話になってしまっているのだ。自分がもっと大自然の中で生き抜く知恵や能力を持っていれば、こんなことにならずに済んだのにと、今更考えたところでどうにもならないことを、彼はくよくよ考えてしまった。
男はどういうわけか、ジェラールたちに正体がばれても毛皮や仮面を外そうとしなかった。そして自分のことは、見た目に因んでいるのか「狼男」と呼べと言った。
「狼男」は甲斐甲斐しいと言いたいくらい、ジェラールやエリクの身のまわりを世話してくれた。エリクの傷を縫って包帯を取り換えたり、ベリーや獲って捌いた動物の肉を持ってきたりしてくれた。また「狼男」は、ジェラールたちがこの森を生き抜くために、獲物を罠で仕留める方法も教えてくれた。
例えばウサギを獲る場合は、ウサギの獣道を探し、そこにスネアをかけた枝を渡しておいたり、或いはスネアにかかるとバネ木が跳ね上がるはね罠を使ったりした。リスの場合も同様で、枝と枝の間に棒を渡してリスの通り道を作り、その上にいくつかスネアをかけておく。運が良ければ、一晩の間に1本の棒に複数リスがかかっているという。
実際に「狼男」に教わった通り罠を仕掛け、翌日、ないし数日後に確認しに行くと、思っていたよりも高い確率で獲物がかかっていた。ジェラールはユーリタニアを離れるまでは、虫以外の生き物を自分で殺すということはしたことがなかった。そのためいたいけな生き物たちが罠にかかって死んでいる姿を見るのは辛かった。おまけにかかった獣や鳥がまだ死に切らず、微かに動いている場合は見るに堪えなかった。そんなときは「狼男」が止めを刺してくれた。
彼は手先が大変器用で、ジェラールとエリクのために、ウサギのなめし皮と腱の糸で小さな袋を作り、皮紐を通して巾着袋にした。さらに腰のベルトから吊り下げられるよう、鹿角の先端を紐に通して、ベルトに引っ掛けるための留め具にして手渡してくれた。
「狼男」の持ち物には殆ど金属は見当たらず、ナイフや斧の刃、矢尻はスレートやフリントでできた石器だった。火を起こすにもフリントはあっても火打ち金はなく、その辺の木の枝を使ってやっていた。比較的真っ直ぐな枝を2本用意し、一方を平らに削って地面に置き、もう一方を垂直に立てて擦り合わせ、それで出る黒い木屑を火種にする。どれも原始的だが意外に優れており、石器は皮を剥いだり肉を切ったりするのに十分な鋭さがあり、木の枝の摩擦で火を起こすのも、火打石を使った方法に比べて多少手間はかかるものの、そんなに難しくなさそうに見える。しかし、いざジェラールがそのやり方に挑戦してみても、「狼男」がやるように上手くはいかない。いくら枝を一生懸命擦っても、ちっとも煙も木屑も出てこないのだ。
「手のひら全体を使って、上から下へ思いっきり擦るんだ。お前のそのやり方じゃあ、全然回転が足りない」
「狼男」は呆れたようにため息をつき、付きっ切りでコツを教えてくれた。硬く丈夫そうな皮膚に覆われた「狼男」の手のひらに比べて、ジェラールの手はまるで赤子のように柔らかくひ弱だ。言われた通りに枝を擦ると、手のひらは細かい傷だらけになってヒリヒリした。そうするうちに、やがて下に置いている枝から煙と共に黒い木屑が出るようになった。
「鳥獣人」に扮するために、このエスニア人はわざわざ生活まで原始的にしているのだろうか。だがジェラールたちにはもうエスニア人だとばれているのだから、もっと現代的な道具を用いていても良いのではないか。
……やはりもしかして、本当に「鳥獣人」? ジェラールはそんな淡い期待が少しずつ頭をもたげつつあった。
「狼男」の世話になって3日後、ジェラールは「狼男」が留守にしているときエリクにそっと尋ねた。
「なあエリク、あの男、本当は何者だと思う?」
「……エスニア人、なんじゃないですか?」
エリクはあまり関心がなさそうに答えた。
「そうかなあ。私は最近それが揺らぎつつあるんだ」
「なんか、声がわくわくしてますね」
エリクが横目でジェラールを見た。ターコイズのような青い瞳である。
「だって、おかしいと思わないか? 『鳥獣人』を装ってるっていうけど、此処まで生活を原始的かつ器用にできるかい? もう私たちにはエスニア人だとばれてるのに、まだそれを貫こうとしてるなんて、ちょっと変だろう」
「……まあ確かに、一度も素顔を見せたこともないですしね」
エリクは深く頷く。
「だとしたら何ですか? やっぱりあの男は『鳥獣人』だと思われますか?」
「そこなんだよ、問題は。『鳥獣人』がエスニア語を話せるなんて、ちょっと信じられないんだ。あいつらは私たち人間を確認すれば、いつだって襲い掛かってきただろう。あんな相手に一体誰がエスニア語を教えられるっていうんだ」
と言った直後、ジェラールははっとした。彼は根本的な事を忘れていたのだ。自分はそんな相手に、神の教えを弘めようとしていたのではなかったのか。誰かがジェラールがやろうとしていたように「鳥獣人」と穏便に接触し、関係を築き、言葉を教えたのではないだろうか。そう考えれば、エスニア語が話せる「鳥獣人」がいてもおかしくはない。
しかし「狼男」はあくまで自分の素性を語りたがらなかった。それはいったい何故なのだろう。やはりその理由は毛皮の下にあるのかもしれない。久しぶりにジェラールの探究心に火が付き始めた。
日が傾いたころ、「狼男」は狩りから帰ってきた。今日の獲物は小型のシカだった。小型とはいえ、全長は人間よりやや小さいだけなので、とても一日で食べきれる量ではない。
「今日は久しぶりに大きな獲物が手に入った。小分けにして保存食をつくるから、お前たちも手伝え」
「狼男」に促されて、ジェラールたちはまず簡単な燻製小屋を作った。木の枝と樹皮で屋根を作り、その下に肉を干すための棚を作った。 燻製小屋が出来ると、3人でシカの解体作業にかかった。ジェラールは皮を剥いだり肉を切ったりするのを手伝い、まだ歩けないエリクは、切り分けられた肉を取り扱いやすいようさらに細かく切ったり、乾し棚に吊り下げやすいよう糸を括りつけ、軽く塩を振った。
肝臓や胃は、新鮮なうちに食べたほうが良いらしく、「狼男」は肝臓の一部を切ってそのまま生で食べた。血だらけの手で差し出してジェラールにも食べてみるよう勧めたが、病気になりそうな気がして彼は断った。腎臓、大腸といった他の臓器は焚き火の上に設置した平たい石に載せて炙り、十分火が通ったところで腹ごしらえにジェラールたちも食べた。独特の臭味や歯ごたえが慣れず素直に美味しいとは思えなかったが、空腹は紛らわせた。
干す準備が出来た肉を「狼男」が順次干していった。焚き火を起こし、肉が乾くまで、交代で肉をひっくり返す作業を行った。
ジェラールが「狼男」の本当の正体を探ろうと隙を伺っていると、すぐに手が止まってしまい、「狼男」にぼんやりするなと急かされた。
いつも以上に肉体労働したため、その夜ジェラールはぐったりして毛皮の寝具に横たわった。またあれだけ大型の動物の身体を切り裂くのも強烈な体験だった。ユーリタニアで博物学者をしていたときは、狩人から骨格標本を入手したり、職人に依頼してウサギや小鳥の剥製を作ってもらったりしていた程度だったから、自ら手を汚して動物を解体するというのは初めてだった。勿論、今日の体験を通してシカの身体がどういう構造をしていたかということは、身をもって学べたと思う。
彼は今日のことを振り返りながら、だんだん意識が遠のいていった。
殆ど夢も見ず深い眠りに落ちていたが、どういうわけかジェラールは夜も明けぬうちに目を覚ましてしまった。まだ夜の虫たちの合唱は続いている。
ひどく喉が渇いていたので、彼はテントを出て川へ向かう。
少し離れたところに、「狼男」が寝ていると思しきテントがあった。焚き火はまだ消えていない。
いまこそあの男の正体がわかるかもしれない! と思ったが、勝手に寝床を覗き込むのはやはりやってはいけないような気がする。
でも、あの男だって自分たちのことをずっと見ていたんだ! お互い様だ! とジェラールは自分に言い聞かせ、こっそりテントに近づいて出入口に垂れ下がっている布をどけた。
「あ、あれ……?」
「狼男」の姿はなかった。奥を覗いてみても誰もいない。
ジェラールは残念に思ったが、同時に自分が覗いていたことを「狼男」に悟られなくて良かったと、安堵する気持ちもあった。
満月の光が森を照らし、夜でも森の中は明るく感じた。森を歩き続けるとやがてせせらぎの音が聞こえ、木々の向こうに月明りを照り返してきらめく川が見えた。川岸に着き、しゃがんで両手で水をすくって飲んだ。喉の渇きを癒し、立ち上がって帰ろうとしたとき、向こうでバシャバシャ水が跳ね上がる音が聞こえた。
ジェラールがこっそり近づくと、誰かが水浴びをしているのが見えた。「誰か」というのは、川に浸っているのが人の形をしていたということだ。大雑把なシルエットしか確認できないが、かなり体格の良い人物であることは間違いない。
こんな夜更けに誰が水浴びしているのだろう、思ったと同時に、ひょっとしたら「狼男」なのではと思った。
ジェラールは近くのシラカバの陰に隠れ、様子を伺う。人影は下半身を川に浸していたが、しばらくして立ち上がった。その瞬間、ジェラールはぎょっとした。
お尻から、細長い尻尾のようなものが伸びていたのだ。上半身もよく見ると、肩から背中にかけて色の濃い剛毛で覆われているように見える。ジェラールには背中を向けており、月明かりの逆光で細かいところはよく見えないが、明らかにそれは「獣人」のようだった。
ジェラールは両手を口に当て、自分が此処にいることを相手に悟られまいとした。しかし……。
「ずっと見てたのか」
目の前にいた男が背を向けたまま言った。「狼男」の声である。ジェラールは胸が痛いくらい鼓動が激しくなるのを感じた。
「ちょっと向こう向いててくれないか。川から出られない」
「狼男」は右手で「あっちへいけ」というジェスチャーをする。ジェラールは我に返って、今自分が相手にとても失礼なことをしてしまったことに気付いた。彼は恥ずかしさのあまり何も言えず、無言で足早に野営地に戻っていった。
テントに入っても、ジェラールはよく眠れなかった。まだ疲れは残っているはずなのに、興奮と不安で寝付けなかった。
翌朝、ぼんやりする頭でテントを出ると、「狼男」がいつものように頭からオオカミの毛皮を被って焚き火の前に座っていた。「狼男」から少し距離を取って、ジェラールも腰を下ろす。
ちらりと「狼男」に目をやると、やはり仮面もつけていた。だがいつもより模様が少ない気がする。あ、口元にフェイスペイントがないからか。
服装もよく見ると上半身は完全に裸で、前腕から手の甲にかけて褐色の剛毛が生えているのがはっきりと確認できる。
これではっきりした。「狼男」はエスニア人ではなく、エスニア語を話せるオオカミ型の「獣人」だったのだ。ジェラールは念願の、「鳥獣人」との接触を果たせていたのだ。
だがそんな奇跡的な状態にもかかわらず、彼は喜べなかった。ばつが悪くて、「狼男」が何と言うのかびくびくしていた。
不意に「狼男」が息を吸い、口を開いた。
「……これで満足か?」
「………………」
「初めてまともに『鳥獣人』と意思疎通ができたと分かって、気が済んだか?」
「…………昨夜はすまなかったよ」
ジェラールは素直に謝るが、「狼男」はしばらく黙っていた。
「……お前たち移民は、おれたち先住民――ネネ・ピズのことを下等な種族のように思っているだろうが、おれたちだってまっとうな人間だ。お前に正体を明かせば、すぐに見下したような態度になるだろうと思って、隠し通そうと思ってたんだけどな」
そのまま互いに無言の状態がしばらく続いた。
「とにかく、先に顔洗って来いよ。おれは朝飯の支度をするからさ」
ジェラールへの気遣いなのか、それともこの重苦しい空気が嫌なのか、「狼男」は気持ちを切り替えるように腰を上げた。
ジェラールはとぼとぼと昨晩の川へ向かう。満月の光で照らされていた川は、今は雲一つない爽やかな朝の空を映している。
「おはようございます」
エリクの声が聞こえて下を向くと、エリクが川岸に腰を下ろしていた。
「エリク? もう歩けるのかい?」
ジェラールは今の気持ちを隠すように、明るく言った。
「ええ。まだ傷は痛みますが、『狼男』に支えてもらいながらだったら歩けますよ」
それを聞いてジェラールはまた気が重くなった。崩れるように座り込むと、エリクがぎょっとした。
「どうしましたか?」
「……聞いてくれ、エリク。私は昨夜、してはいけないことをした」
ジェラールは神に告白するような気持ちで訴えた。
「え? 何をされたのですか……?」
エリクは眉をひそめた。
「実は……『狼男』の正体を見てしまったんだ」
「ああ、『獣人』だったんですよね」
エリクがさらっと答えて、ジェラールは驚いた。
「ええ? なんで君が知ってるの?」
「貴方様がまだお目覚めになる前、テントから私が出てきたところで『狼男』がいつものように私の怪我の様子をみてくれたんですよ。でもそのとき、毛皮は被ってなくて仮面だけつけてたんです。耳が毛深く尖っていて、首筋と背中、手の甲が毛むくじゃらなのが丸出しだったんですよ。最初私は戸惑ったんですけどね、よく考えたら、ああロゼット様にはもうばれたんだなって思いました」
自分は月明かりでぼんやりと見えただけだったのに、エリクは朝日のもと至近距離で「狼男」の真の姿を見たというのが、正直羨ましかった。だが「獣人」であることがばれてもなお、仮面は外さないというのが奇妙だった。まるでタマネギのように、あの男の秘密は何層にも重なっているようだ。
川を離れるとき、ジェラールはエリクに肩を差し出し、支えながらゆっくりと野営地に戻った。
「狼男」は昨日作った干し肉を木の器に並べて用意していた。
昨日作った干し肉はうまく塩味が効いており、大変美味だった。
カハラディアに来てから常に不安や恐怖と隣り合わせで、特に此処数日はろくな食事も取れておらず、ジェラールは常に空腹だった。だから人生で最も美味しい食事だと思えた。
すると不意に目頭が熱くなってきた。ジェラールは指で必死に目頭を押さえたが、間に合わず大粒の涙がこぼれてきた。
「ど……どうされましたか……?」
エリクはジェラールが涙を流しているのに気づき、慌てた。
「『狼男』君、本当にすまなかったよ。君は私たちのために骨身を惜しまず面倒を見てくれているのに、私ときたら、君の正体ばかり気にしていて、君にとてもひどいことをしてしまった。恩知らずにも程があるね。本当に、申し訳なかった……」
涙で視界が歪んでいるが、「狼男」が手を止めてこちらを見ているのはわかった。
「……そんな、お前が泣くことはないだろう」
「狼男」は少し戸惑っているようだ。
「お前がおれのことを探りたくなるのは無理もないと思ってる。ネネ・ピズの間でも、おれは変な格好をしたおかしな奴だと思われてるから、移民のお前なら尚更だ」
一息ついてから、「狼男」は続けた。
「ただ、おれが何でこんな身なりをしているかについては、訊かないでもらえるか? お前が聞いてもよくわからないと思うし、おれのことが他の移民や先住民たちの耳に入るのも避けたいからな」
「それは……もちろん」
もう同じ過ちは犯すまい、とジェラールは何度も深く頷いた。
それから数日後、エリクの足の怪我は完全に回復した。抜糸をして、傷口に軟膏を塗って軽く包帯で覆ってくれた。
「悪いが、おれはお前たちとずっと一緒にいるわけにはいかない。何かあったら助けてやってもいいが、基本的には自分たちで全部やっていくんだ。おれが教えてやった狩りや採集のしかたで食べ物は探せ。くれぐれも食べかけの動物の死骸には近づくなよ」
「狼男」は、まるでわが子を一人旅に出す父親のように言った。
「ありがとう。とても世話になったよ。君も達者で」
ジェラールが礼を言うと、「狼男」は踵を返して茂みの中に姿を消した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
此処までお読みくださいまして、誠にありがとうございました。
続きは下記のオンラインショップにて、お買い求めいただけます。
https://anneyukiyanagi.booth.pm/item_lists/m7YTGWG8
Kajaladia ―カハラディア― 雪柳 アン @yukiyanagi-wolf
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Kajaladia ―カハラディア―の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます