第3章 毛皮をまとった男

 目が覚めた時には、既に丸一日経っていたらしい。ジェラールが気を失っている間、エリクがずっとジェラールの世話をしてくれていたそうだ。

 慎重で用意周到なエリクは、寝袋や食料といった生活必需品をきちんと持ってきていた。彼が言うには、こんなことになるのは想定済みだったので、常に携帯していたという。片手に常に矛槍を持っているのに、こんな大荷物を抱えて大変だろう。ジェラール一人だったら、今頃手ぶらだったに違いない。

 敵の脅威が去り安堵したのも束の間、彼は此処に至るまでの道を記録しなかったことを後悔した。もはや来た道を戻れないとはいえ、あの「鳥獣人」たちの集落(かもしくは集合場所)から此処がどれぐらい離れているのか、今まで野営してきた場所からどの位置にあるのか、これではさっぱりわからないのだ。

 今まで書いてきた地図にはもう書き込めない。仕方なくジェラールは新しい紙に此処を起点として地図を記していくことにした。

 今彼らがいるのは、草がまばらに生えた開けた場所だった。前方は崖になっていて、後方に再び森が広がっていた。朝焼けなのか夕焼けなのか、薄紫色の空に遠くの山々が青くうっすらと連なっているのが見える。周囲に川や湖はない。水や食料も底をつきそうなので、翌日此処を発つことにした。

 翌朝、空はどんよりと曇っていた。いかにも雨の降りそうな天気である。ジェラールたちはカハラディアに来てから既に二度雨を経験している。マントに木の樹液を塗りつけて作られたレインコートを着て出発した。

 森の中を歩き続けてしばらくすると、ぽつ、ぽつ、と雨が降り出した。やがて雨足は強くなり、瞬く間にどしゃ降りになってしまった。こんな状態では視界も悪く地面も滑りやすいだろう。彼らは適当な木陰で雨宿りして過ごした。

 ようやく雨が上がったころには、既に日は高くなっていた。今日はまだろくに食事をしていないので、ジェラールはひどく空腹だった。

 森の中をうろうろしていると、前方に地面が盛り上がっているところがあった。

 近づいてよく見てみると、小山の下からシカの頭と足がはみ出ている。何者かが中途半端に埋めたようだ。

「なあエリク、ちょっと見てくれ」

 ジェラールは後ろで茂みを探っているエリクに声をかけた。

「どうしましたか?」

 エリクが早歩きで彼に近づいた。

「これ、きっと誰かの食べ残しだよな? 取ったシカを食べきれなくて、土に埋めて隠したつもりにしてるんだよな?」

 随分そそっかしい狩人だと思い、ジェラールは軽く笑いながら話す。

「……何を仰るつもりでしょうか?」

 エリクはジェラールが次に言わんとすることに、既に慎重になっているようだ。

「エリク、私たちは今朝ベリーを数粒食べただけだ。このままじゃ体がもたないと思うんだよ。此処にこんな栄養価のあるものが埋まっているのは、紛れもない幸運だと思うんだが」

 するとエリクが二、三歩後退りして首を振った。

「何を仰いますか? 駄目ですよ! これはきっと『鳥獣人』か肉食動物が獲って埋めたものに違いありません。下手に私たちが掘り起こして、目をつけられたらどうなりますか? 今度こそ無事ではいられませんよ!」

 エリクの声には危機感がある。だが此処を去るのは惜しかった。辺りを見渡して「鳥獣人」や動物がいないか確認しようとする。

「私たちがぱっと見てわかるような相手ではないでしょう。残念ですが、此処は諦めるのが賢明かと存じます」

 とエリクが言ったとき、

「何をしている」

どこかで別の声がした。

 ジェラールは声のした方を向くが、人影らしきものは見えない。

「そこから離れろ、早く!」

 割と近い所から、男の声が聞こえる。しかもその声は、エスニア語を喋っていた。敵国の言語とはいえ、ジェラールはエスニア人との遭遇も想定してエスニア語を習得していた。

 地面を踏みしめる音が聞こえ、木の陰から奇妙な風体の人物が姿を現した。

 頭からオオカミの毛皮を被った男が、弓に矢をつがえてジェラールたちの前に立ちはだかった。オオカミの全身ひとつながりの毛皮を纏い、胸元だけ露出している。

「君は誰なんだい? 私たちに何の用だ?」

 ジェラールもエスニア語で答えた。この男、もしかしたらエスニア人かもしれない。

「おれはこの辺りに侵入者がいないか見張ってるんだ。此処はお前たちが来る場所じゃない。とっとと失せろ!」

 男の口調はよりきつくなり、矢尻を向けたままじりじりと迫ってくる。ジェラールたちもそれに合わせるように少しずつ後退りするが、彼は納得がいかなかった。この男は何者なのか、何故こんな怪しい人物に追い払われなければならないのか。

「ちょっと待ってよ。君は一体何なんだ? 私たちが来る場所じゃないってどういうことなんだ!」

 とジェラールが尋ねて間もなく、何かが猛スピードで地面を蹴って迫ってくるのが聞こえた。振り向いた時には、褐色の巨大なクマが既にジェラールたちのすぐ目の前にいた。咄嗟にエリクがジェラールの前に出て矛槍を構えたが、クマは鋭い鉤爪の生えた腕を振り下ろし、一瞬にしてエリクをなぎ倒した。被っていた兜が外れ、長いくせ毛の金髪が露わになる。

「エリク!!」

 クマはさらに攻撃を加えようと仁王立ちになる。その直後、クマのわき腹に矢が刺さった。

「グァッ?!」

 クマはよろめき矢が飛んできた方を向く。矢を放ったのは、あの毛皮を被った男だ。

 男はさらに二本ほど矢を放つ。クマがエリクから注意を逸らした隙に、ジェラールはエリクを抱きかかえた。

 そばかす顔の若い護衛は無言で苦痛に顔を歪めている。幸い胴体は鉄の防具に守られていたため無傷だったが、動きやすさと軽装のため防具を付けていなかった腿は大きく引き裂かれていた。血がドクドクと吹き出し、目を背けたいほどの有様だが、そんな余裕もなくジェラールはエリクを抱えて逃げ出した。

 だが自分と大して背丈も変わらない、しかも武装した兵士をそんな長距離にわたって運べるはずもなかった。五十歩ほど進んだところで力尽き、ジェラールは倒れるように座り込んでしまった。

 背後でクマが地響きのような悲鳴を上げている。やがて静かになり、振り返ってみるとクマは倒れて動かなくなっていた。

 ジェラールはエリクの方に向き直り、傷口に手を押し当てて止血しようとする。だが指の間から絶え間なく血が噴き出してくる。

 そこへ先ほどの男がジェラールたちのもとへ駆けつけてきた。「どけ!」と言って割り込むと、腰の袋から厚手の布を取り出し、それを傷口に当てて両手を乗せ、体重をかけて圧迫した。しばらくして出血が治まると、男は包帯のような細長い布を取り出し、止血する時使用していた布を被せたまま傷口をきつく縛った。

 オオカミの毛皮を被っているという、見るからに野蛮そうな風体からは想像がつかないほど、男は手際良くエリクの応急処置をしてくれた。

「傷口は心臓より高くしたほうがいい。倒木に足を乗せて寝かせるんだ」

 ジェラールは男に手伝ってもらいながらエリクを抱え、朽ち始めている倒木に両足を乗せ、頭を下にして寝かせた。

「このまましばらく安静にさせておけばいい」

「ありがとう! 助かったよ!」

 ジェラールはこの命の恩人に心から感謝を伝えたが、男はクールだった。

「こんなところで何をしてたんだ? まさかヒグマの食べかけを漁ろうとしてたんじゃないだろうな」

「………………」

 男は両手を腰に当て、大きくため息をついた。

「お前たち、全く森で生活したことがないんだな。動物の死骸に無闇には近づかないなんて、常識だぞ」

 男は動かなくなったクマを見つめていた。

「お前たちのような無知な侵入者のせいで、また精霊の使いが悪霊と化してしまった……」

 男の声は悲しげだった。ジェラールは恐る恐る男に話しかける。

「……私たちに立ち去るよう言ったのは、クマから私たちを守るためだったのかい?」

 男はキッとこちらを睨みつけるように顔を向ける。だが毛皮のオオカミの頭が邪魔で下の顔がよく見えない。

「馬鹿を言うな! むしろ逆だ。このクマが、人を襲って悪霊になってしまうのを防ぎたかったんだ。移民どものせいで、不幸なクマがどんどん増えているんだ」

 男の言うことにジェラールは面食らったが、ひとつ気になる言葉があった。「移民」とは、誰に対しての言葉だろう。またクマの方が大切だったというなら、何故エリクの手当てをしてくれたのか。冷たい言い方をしておいて、本当はジェラールたちのことを仲間のエスニア人だと思っているのではないか。

「君は……本当に何者なんだ? そんな格好で、何をしてたんだい?」

 ジェラールは相手をエスニア人だと思って、そして自分もエスニア人になったつもりで尋ねた。

「お前たちには関係のないことだ」

 男はきっぱりと言った。下を向いていて顔が見えないので、オオカミが喋っているようにも見える。

「こっちも聞きたいことがある。此処で何をしていた?」

 男が顔を上げて尋ねてきた。ようやく毛皮の下の顔が見えたが、無数の模様が描かれているため顔立ちがよくわからない。――――否もしかして、仮面か……?

 ジェラールが無意識に男の顔を凝視していると、男が「何だ?」と尋ねた。

「それは、仮面かい?」

「はあ?」

「毛皮のフードに加えて、仮面までつけてるのかい?」

「それがどうした?」

 男は自分の容姿について、まるで気にもかけていないかのように触れない。

「それよりおれの質問に答えろ。此処で何をしていた?」

「……だから、此処でクマの食べかけを漁ろうとしてて……」

「そういうことじゃない。この土地――――カハラディアへ何しに来たと聞いてるんだ」

 男は間髪入れずに問い直す。まさかこの男、ジェラールたちがエスニア人ではないと気付いているのだろうか。

「いや……それはその……自然調査だよ」

 ジェラールは適当なことを言ってやり過ごそうとする。

「ふうん、自然調査ねえ。カハラディアはおろか、森のことを何も知らないから、調べに来たのか」

随分嫌みな言い方だ。男はジェラールの言葉を真に受けていないように感じられる。

「本当はもっとそれ以上の目的があるんじゃないのか?」

 ジェラールの予感は的中した。背中に嫌な汗をかくのを感じる。

「実はお前たちのことは、ずっと前から見ていた。お前たちの仲間はネネ・ピズたちに殺されたり連れていかれたりしてるようだが、お前たち二人は悪運が強いのか今日までずっと生きながらえているようだな」

 今男から聞きなれない言葉が出てきた。だがそれよりも、ずっと見られていたということにジェラールは恐怖を覚えた。

「おれが現れるまでお前たちはおれの知らない言葉を喋っていたから、ああ、恐らく別の部族から来たんだなと思ったよ。カハラディアを開拓しようとする移民の部族は他にもいるんだなって」

 男が言う部族とは、国家のことだろうか。国を部族と捉えるあたり、どことなく未開人らしい感じがするが、もし「鳥獣人」だとしたら何故エスニア語が話せるのだろう。いや、そんなはずはない。今まで関わってきた「鳥獣人」たちは、ジェラールたち人間を見るなり襲ってきた。そんな彼らが、ユーリタニアの言葉を話せるわけがない。やっぱりこの男は、エスニア人に違いない。毛皮を被って「鳥獣人」になりきったつもりなのだ。だから国のことを部族と言ったり、アルゴメア王国のことを知らないふりをしたりしているのかもしれない。

 ジェラールは覚悟を決めた。この男は未開人になりきってジェラールたちに探りを入れようとしているに違いない。こちらがアルゴメア人だとばれてしまったのなら、今更エスニア人のふりをすることもない。

「そうかい、わかったよ。君はそうやって『鳥獣人』になりきって私たちに接近しようとしてるんだ。『もうお前たちがアルゴメア人だってことは知っている。今更隠し通せるなんて思うなよ』って言いたいんだろう。クマから助けてくれたのも、私たちから情報を聞き出すためだったんだな」

 ジェラールは心臓の鼓動が早くなり、手がぶるぶる震えていたが、必死に平静を装った。まさかこんな早く宿敵と対峙する時が来るとは思ってもみなかった。

 だが男の方は、ジェラールの言っていることが伝わっていないのか、きょとんとしていた。

「はあ?」

 男は首をかしげて腕を組んだ。

「アルゴメア……? それがお前たちの部族名か?」

「い……今更気付いたように言うな! 最初から知ってたんだろう!」

 男はジェラールを見つめたまましばらく無言だった。かろうじて見える目元は木目のような模様だった。

「ああ、お前はおれのことをそんなふうに思ってたのか」

「え……?」

 男の予想外の反応に、ジェラールは拍子抜けした。

「ならそれでいい。おれのことをなんと思おうとお前の自由だ」

「なんだ……それ」

 自分がエスニア人であることがばれてしまい、言い逃れできなくて開き直ったのだろうか。いや、やっぱりエスニア人ではないのだろうか。ジェラールは急に、靄を掴むような感覚に襲われた。

「まあな、さっきは本当にお前たちにどいてほしかったんだけどな、やはり目の前で人が怪我すると放っておけないだろ。だからつい助けてやりたくなっちまったんだ」

 男はエリクの方を向いた。エリクは寝かされたまま動かない。

「で、おれを敵だと認めたところでどうする?」

 男がジェラールに向き直った。

「見た限りじゃ、お前はあの若い護衛がいないと明日にでも死んでしまいそうだよな。怪我が回復するまでおれがお前たちの面倒見てやった方が良いんじゃないか?」

 口元は仮面ではなくフェイスペイントなのか、動くのが確認できた。

(え……?)

 犬歯の辺りが少し尖っていたように見えたが、単に八重歯だったのかもしれない。

 一瞬違うことを考えてしまったが、ふと我に返って、今男が恐ろしいことを言っていたことに気付いた。エスニア人の世話になるだと?! それってもはや彼らの捕虜になるも同然ではないか!!

 ジェラールは深く後悔した。やはりクマの食べかけに近づくべきではなかったのだ。頼りにしていた護衛は怪我を負い、その結果「鳥獣人」に扮したエスニア人の捕虜となってしまった。彼のカハラディア探検は、失敗に終わった。

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