これは語られることが無かった、ある親友への述懐である。
- ★★★ Excellent!!!
この話は、光蟲冬茂という光が池原悦弥という影を浮き彫りにする作品である。主人公池原悦弥が小学生時代に受けたいじめは、光蟲という存在がいなければこれまでも、これからも決して語られることはなかったのだと思う。
話の構成としては最初に大学時代の池原の日常を描いている。人付き合いに無関心で自信の興味の範疇で生を満喫しようとする彼は、囲碁と茶道の二つ(あと光蟲)には興味を持っており、それらを軸に話が進む。
池原は過去の栄光に囚われるタイプの人間である。また、自分は優秀だ(った)という自負がある。第八話で高校時代は優秀な生徒だったという描写がある。“勉強は”という但し書きがついてはいるが、大学も上位私立に入り、社会人になった後も大きく道を外さないかぎりは、彼は賢いのでおおっぴらにはしないにしろ、死ぬまでエリート意識を持ち続けそうな人間性である。ただ、この性格も、後々の展開を読んでいけば、仕方のない癖のようなもののように思えてくる。
ちなみに、大学時代にはルノアールなどの喫茶店が出てくるが、私はこの小説を読んで初めてルノアールに足を運んだ。
そういった無気力ながらも淡々と過ぎていく大学時代から、話は小学生時代に移る。
小学生時代、彼は担任である首藤にイジメられる。理由は色々あるだろうが、要因の一つは他人とズレており、可愛くなかったからだと思われる。池原少年は周りよりも大人びており、首藤や取り巻きのクラスメイトたちを自分よりも精神年齢が幼いと思いこむことで自我が壊れないよう保っていたのではないかと思われる。
さらに、池原少年はただイジメられるばかりではなく、首藤の奸計を出し抜いて見せるという賢さも持っていた。
しかしどれだけ耐えても、池原少年に降りかかる理不尽はまだ幼い彼のキャパシティを超えていってしまう。そして限界を超えた時、彼の中で何かが壊れてしまう。
――余談で、さらにネタバレになるので詳細は控えるが、この話が書籍化するとしたら、表紙は『葉巻を吸う池原母の絵』を一案に上げたいほど、そのシーンは名場面だと思う。
そうして、池原が小学生時代の思い出を光蟲に向けて述懐することでこの話は幕を閉じる。
池原が凄絶ないじめを受けてきて、また孤独の中にあっても生きてこれたのは、各環境で出現する孤独な彼に寄り添う同性の友達と、要所で起きる異性からの救いの手が彼を保ってきたのだと思う。
作者は光蟲を書きたかったと言っていたが、それは半分嘘だと思う。何故なら作者はナルシストであるし、光蟲よりかは池原の人生を見ている方が面白かったからだ。
私はこの話を四周した(2019年8月12日0時時点)。半笑いの情熱は、作者の生き方を描いた原点といってもいい小説だと私は思う。