ニャン月記

八島清聡

第1話 才能がショボいと〇〇にもなれない

 


 都内某所――ましろの月が煌々と輝く晩のことである。


 深夜、残業を終えた遠藤克久は、自転車に乗って家路を辿っていた。

国家公務員で内閣府に勤める彼は、激務のため職場の近くに住んでいた。職場へは運動もかねて自転車で通っていた。生まれは地方で、大学から上京し、現在は1LDKのマンションに一人暮らしである。

 チラリと見た腕時計の針は、午前2時をさしていた。小腹が空いたので、途中でコンビニに寄り、缶ビールとチーズかまぼこ、おにぎりなどを購入した。

 コンビニを出て再び走り出し、商店街を通った時だった。

 スナックの前に積まれたゴミの山から、俊敏な影が飛び出してきた。

「おっと」

 慌ててブレーキをかける。前輪がアスファルトを擦り、ギギッと嫌な音をたてた。何かにぶつかったような衝撃はなかった。影は器用に車輪を避けた。

 街灯の下、目を凝らすとそれは痩せた茶トラの猫だった。猫は尻尾を垂直に逆立てたまま、遠藤の方をちらりと見た。

『うおっ、あぶねーな』

 突然、猫がしゃべった。遠藤は驚愕し、辺りを見回した。通りはしいんと静まり返り、人っ子一人いない。

『ヤベェ、轢かれるとこだった』

 猫は、尚もヤベェヤベェと繰り返した。

 そのまま立ち去ろうとしたのに、遠藤は思わず叫んだ。

「待って。その声は、ズッ友、アチョーじゃない?」

 遠藤はかつて郷里一の秀才で、抜群の記憶力を持っていた。人語を話す猫の声に聞き覚えがあった。

「僕だよ、高校で一緒だった遠藤」

 猫は振り返り、遠藤の顔をまじまじと見た。そして、同郷の親友であることを理解した。顔は若干フケたものの、細身に上品な黒のスーツがよく似合っている。

『うっそ! マジで? 遠ちゃん?』

「やっぱりアチョーか」

 遠藤の声は、学生の頃のように若々しく弾んだ。

 二人……もとい、一人と一匹は約12年ぶりに再会を果たした。


 茶トラの猫は、人の名前を「阿長ミノル」といった。あだ名がアチョーだった。

 立ち話もなんだからと、遠藤はとりあえずアチョーを自宅に連れていくことにした。

 アチョーは遠藤の自転車のカゴに乗り、黒の革カバンとコンビニの袋と共に運ばれた。

 家に入ると、アチョーは腹が空いていたらしく食べ物を欲しがった。

 遠藤はチーズかまぼこやおにぎりをあげ、自分は缶ビールを飲んだ。飲みながら、久方ぶりの友を上から下までしげしげと眺めた。

「それにしても、アチョーは随分とイメージが変わったね」

 イメージ云々以前に、今や種族まで異なっている。彼に何があったのか気になった。


 人間であった頃――。学生時代のアチョーは内向的で、人一倍プライドが高く、自分より劣ると判断した人間は見下し馬鹿にすることが多かった。読書と文章を書くのが好きで、読書感想文のコンクールで何度も賞をとった。友人は少なかったが、アイドル並の美形だったので女にはモテた。

 遠藤とは不思議とウマが合った。遠藤は温和な性格で面倒見もよく、同輩後輩から「遠さん」と呼ばれて頼りにされていた。

 アチョーはよくノートに小説や詩を書き、それらをこっそり遠藤に見せた。遠藤は丁寧に読み、「物語を書くなんて僕には絶対にできない。これはすごいことだよ」と褒めた。決して否定しなかったので、アチョーの承認欲求は存分に満たされた。

 高校三年になると、成績優秀な遠藤は東大合格が確実視され、本人も周囲の期待に応えるべく一層勉学に励んだ。

ある日、アチョーは勇気を振り絞って遠藤に言った。

「遠ちゃんは卒業したら東京へ行くんだろ。でもさ、ここを出ても、どこで何をしていてもずっと友達でいてくれよ」

 遠藤は朗らかに笑って返した。

「ああ、アチョーはズッ友だよ」と。


 猫のアチョーは腹がくちくなると、これまでのことをポツリポツリと語った。

 高校卒業後、アチョーは地元の三流大学に進み、学業そっちのけで創作活動に没頭した。

とにかく、一日も早くデビューして小説家になりたかった。人々の心を揺さぶる傑作、教科書に載るような秀作を書いて、文学史に名を残したかった。

 しかし、彼の懸命な努力とあり余る情熱は報われなかった。何十もの賞に応募したものの全て落選。書いても書いても、一向に芽が出なかった。アチョーは自分の才能を認めない世間を憎み、数限りなく絶望し、やさぐれて酒びたりの日々を送るようになった。

 四年生の時には、遊びでつき合っていた女を妊娠させてしまった。不本意ながらも、責任をとって結婚することになった。なんとか大学を卒業すると、親族のコネで地元の市役所に就職した。

 そこまで語ると、アチョーはハアと盛大に溜息をついた。

『思えば、デキ婚しちまったのが運のつきだったな』

「そういや、随分前におめでた婚したって聞いたよ。赤ちゃん用の靴下を贈ったんだけど届いた?」

『靴下? 覚えてねーわ。もう生活するだけでいっぱいいっぱいで』

 社会人になったものの、アチョーは職場の人間関係につまずき、すぐに仕事をやめてしまった。家から一歩も出ず、かといって家事をしたり子供の面倒をみるわけでもなく、小説家になるという妄執じみた夢を追い続けた。

来る日も来る日も執筆に専念したが、プロになれないまま月日は虚しく過ぎた。家計は苦しくなる一方で、毎日夫婦喧嘩が絶えなかった。元々好きで一緒になった女ではないので後悔ばかりが募った。実家や知人へ借金を繰り返し、それらも踏み倒して信用を失った。

 数年後、万策尽きたアチョーは仕方なく外へ働きに出た。が、田舎で職歴も実績もない彼にできることは限られていた。派遣で工場に勤務し、低賃金の単純作業に従事した。仕事は苦痛でしかなかった。年下で高卒の同僚からの指示や叱責にも耐えられなかった。職場に溶けこめず、挫折を繰り返し、職を転々とした。

 爪に火をともすような貧乏生活が続き、息子が6歳の時、とうとう離婚に至った。息子は妻が引き取ったものの、それで自由になれたわけではなかった。毎月払わなければならない養育費と自分の生活のために、相変わらず働かなくてはならなかった。夢は叶わず、何一つ上手くいかない現実に疲れ果て、徐々に精神を病んでいった。

そして、今年の春。仕事を求めて東京に出てきた彼は、湾岸地域に立ち並ぶ倉庫の清掃作業中についに発狂した。突然作業着を脱いで全裸になり、訳のわからぬことを叫び、飛び出したまま戻ってこなかった。

 出奔したアチョーが、公然わいせつ罪で逮捕されることはなかった。

 気がついた時には猫になっており、四つん這いで街を全力疾走していたのである。


「――その後は野良になって、生ゴミを漁りながら彷徨っていたと」

 遠藤は、長々と続いた身の上話をまとめた。

アチョーは真剣な目で遠藤を見つめ、声を顰めて言った。

『そうなんだよ。気がついたら、俺は虎になっていたんだ』

「虎じゃなくて猫でしょ」

 冷静なツッコミに、アチョーは不服そうに頬を膨らませた。

『俺は動物の中で、虎が一番好きなんだよ。息子にも虎太って名づけたくらいだし』

「色と縞模様は似ているけど、きみは猫だよ」

『虎だってネコ科だろ。もう、虎ってことにしてくれよ。虎は百獣の王で最強なんだから』

 アチョーは憤慨したが、外見はあくまで猫。愛玩動物の代表なれば、怒っても喚いても可愛いだけだった。

「まぁ、猫で良かったよ。もし虎だったら、今ごろ警察や猟友会が呼ばれて大騒ぎになっていた」

 遠藤はホッと胸を撫でおろした。都心に猛獣の虎が出没なんて、考えただけでゾッとする。最悪、アチョーはその場で射殺されていた。

「それでこれからどうするの?」

 気を取り直して尋ねると、アチョーは急にシュンとして項垂れた。

『どうするも何も、人間には戻れそうにないし、戻っても何の展望もないし。野良として生きるのもしんどい。俺、人見知りだし、猫になっても猫見知りだし、縄張り争いにも勝てないし』

 遠藤の膝によじ登ると、媚びるように上目遣いで見上げた。

『だから、遠ちゃんには悪いんだけど、俺を飼ってくれない?』

 アチョーは、人のいい遠藤の性格をよくわかっていた。

 実は部屋に入った時から、彼に飼われて暮らすのが一番安全かつ最良と考えていたのである。

「いいよ。ここペット可のマンションだし」

 遠藤は、あっさり承諾した。彼は彼で、家と職場を往復するだけの単調な毎日に変化が欲しかった。

『マジで? うわ、遠ちゃん大好き! 神!』

 アチョーは喜び、遠藤の顔に飛びついた。危うく爪を立てて引っ掻きそうになった。

 

 こうして、人と元人間の猫という奇妙な同居生活が始まった。

 遠藤は、早速キャットフードや猫用のトイレなどの猫用品を買いそろえた。

 朝、遠藤が仕事へ行ってしまうと、アチョーは我が物顔で部屋を歩き回り、勝手気儘に過ごした。用意されたごはんを食べ、眠くなるとリビングのクッションやベッドの上に丸まって好きなだけ寝た。

 心に余裕ができると、彼は人間であった頃の生き甲斐を思い出した。また小説や詩が書きたくなった。猫になってしまっても、創作に未練があった。

 アチョーは遠藤のノートパソコンに目をつけた。猫の手ではペンを握って文字を書くことはできない。が、キーボードをポチポチ押せば文字が打てる。彼はパソコンをたちあげると、文章作成ソフトを使ってせっせと書き始めた。

 猫の体力では、長時間書き続けることはできない。疲れるとごろりと寝転がって昼寝した。執筆に行き詰まるとテレビを観たり、本棚にある美術書や小説を引っ張りだして読んだり、ネットでエッチなサイトを眺めたりした。

元々が引きこもりなので、外に出たいとは思わなかった。食っちゃ寝を繰り返すニート生活は天国そのもので、あっという間にまるまると肥え太った。

 遠藤は、毎晩深夜に帰宅した。彼はアチョーのすることに何も言わなかった。散らかった部屋を片付け、猫用のトイレを掃除し、寝床を整えた。頻繁にアチョーをブラッシングし、あれこれと世話を焼いた。


 爽やかな秋晴れの日、遠藤は自転車のカゴにアチョーを乗せると、海が見える公園へ出かけた。緩やかにうねったサイクリングロードを走り、お昼になるとベンチに腰掛けて仲良く弁当を食べた。

食べ終えると、アチョーは近くの運動場へ行き、地面に手で文字を書き始めた。

 遠藤は傍へ行き、手もとを覗きこんで尋ねた。

「縁台、昼餐、蒼天。小春日和……。なんで漢字ばかり書いているの」

『たまには手で書かねえと言葉を忘れちまうんだよ』と、アチョーは得意気に言った。

「読みがわかればパソコンで変換できるでしょ」

『そうだけど、読み自体を忘れることもあるし。頭が忘れても、手が覚えてれば不思議と書けるんだ』

 アチョーは、大真面目にことわざや四字熟語を書き連ねた。

そこに5、6歳くらいの子供が数人やってきた。アチョーを見ると、あれぇと素っ頓狂な声をあげた。

「この猫ちゃん、すごい。字を書いてる」

「何これ、お話? 模様?」

「難しくて読めないよ。わっ、ふわふわしてる!」

 しきりに感嘆しながら、アチョーに手を伸ばして触ってくる。

『うわ、なんだこのガキどもは。ほっとけ! 俺は忙しいんだ』

 アチョーは嫌がって逃げたが、子供たちは歓声をあげて追いかける。捕まえると、全身を撫で回した。

『やめろ、触るな。セクハラだセクハラ! あっ、やめ、そんなとこ……ダメェ!』

 もてあそばれて身をくねらせるアチョーに、遠藤は呑気に呼びかける。

「アチョー、良かったね。可愛がってもらえて」

『何言ってんだ。早く助けろって。ガキどもを止めてくれ』と、アチョーは怒鳴った。

「言えばいいじゃない。下ろしてって」

『馬鹿ァ! 俺の言うことがわかるのはお前だけなんだよ』

 そこで遠藤は気がついた。子供たちが、アチョーの抗議を全く理解していないことに。

アチョーがいくら怒って叫んでも、「よく鳴く猫ちゃん」と、けらけら笑っている。

不思議なことに、遠藤以外の人間には、ニャアニャアという猫の鳴き声にしか聞こえないのだった。


 幸か不幸か、その日以来、アチョーの生活は一変した。

 子供たちが話してまわったのと、SNSで拡散されたこともあって、文字を書く猫のことは、瞬く間に世間に知れ渡ってしまった。

翌週にはテレビ局の取材班が自宅に来てしまい、遠藤は飼い主としてアチョーをカメラの前に出さざるをえなかった。アチョーは手にインクをつけ、習字よろしく紙にすらすらと字を書き、人々を驚かせた。ついでにパソコンも操作してみせた。

 アチョーは、一躍お茶の間の人気者になった。取材が殺到し、愛くるしい容姿が雑誌の表紙を飾り、グッズも沢山作られた。ネットでは、「天才キャット」「猫神」と崇められる一方、「猫の皮をかぶった精巧なAI」「CG合成のやらせ」「第19使徒ニャンエル」「実は犬」などと叩かれて大炎上した。

遠藤はアチョーと共にテレビ番組に出演したり、各地のイベントやショーに呼ばれたりした。公務員は副業を禁じられているので、どれもノーギャラで引き受けた。

 やがてアチョーが書いた小説は「猫疾記」「光と風とササミと」という本になり、そこそこ売れた。遠藤は仕事と、アチョーのマネジメントとで多忙を極めた。猫の手も百本借りたいくらいだった。


 アチョーは精力的に執筆を続けたが、時々スランプに陥った。

 ひどく気分が落ちこみ、弱気になって愚痴ばかりこぼした。

 こういう時、遠藤は大抵アチョーをお風呂に入れた。風呂場に連れていき、大きな洗面器に入れ、シャワーでお湯をかけた。アチョーは、湯を浴びながら大仰に嘆いた。

『ダメだ、やっぱり俺は文才がないんだ。本を買ってくれた人は、猫だから面白がっただけで、俺が人間だったらきっと見向きもしないんだ』

「そんなことないって」

『本当は小学生の作文並に下手くそなのに、それを認めたくなくて空威張りして。批判されるのが怖くて、人の声に耳を傾けず逃げてばかりだった。クソみたいなプライドが俺の前途を阻んだんだ』

「はーい、目を閉じてね」

 充分に濡らすとシャンプーをつけて、ごしごし洗う。指の腹でマッサージする。アチョーは洗われながらも、クダをまく。

『これじゃいけない、仲間を作って切磋琢磨しようとカルチャーセンターの小説講座に通ったこともあった。来てるのは暇なジジババばかりで、それも幼稚な駄文を褒め合ってて。馬鹿馬鹿しくてすぐに辞めた。でも、あの時投げ出さずに続けていれば今頃は芥川賞をとれたかも……』

「お湯熱くない? かゆいとこあったら言ってね」

『あ、首の後ろ。お願い』

 洗い終わるとシャンプーを流し、洗面器に再びお湯を入れる。

アチョーは縮こまるようにして湯船に身を沈め、じっとした。からだの芯から温まってポカポカしてくる。気持ちよくて段々眠くなってくる。

『……今でも夢に見るんだよ。俺の本がベストセラーになって、本屋の平台に山と積まれている様を。サイン会をするとファンが殺到して、朝から整理券が配られたりしてさ』

 切ない妄想をとろとろ吐き出すと、遠藤は柔らかく微笑んだ。

「今日はもう寝なよ。クッション洗って干したからフカフカだよ」

『……うん』

 アチョーは素直に頷いた。眠い目をこじ開けると、何げなく尋ねた。

『そういえば、遠ちゃんは夢とかないの?』

 予期せぬ質問だったのか、遠藤は困ったように目をしばたかせた。少し考えてから言った。

「夢というほどじゃないけど、今いる課の課長になることが目標かな」

『なんで?』

「偉くなれば、国民のためにできることが増えるからね」

『そっか。官僚だもんな。東大出て国のために働くなんてすごいよな』

 遠藤は、戸棚からタオルを取り出しながら微苦笑した。

「全然すごくないよ。僕は何の才能もないから、勉強するしかなかったんだ」

 だから、アチョーが羨ましいとしみじみ言った。アチョーは少しだけ元気が出た。


 忙しない日々が続いたが、世間の流行り廃りほど目まぐるしいものもない。

お笑い芸人のモノマネをする猫が現れると、人々の関心はそちらに移った。アチョーの人気は急落し、ブームは半年ほどで終わった。アチョーを持ち上げ、チヤホヤしていた人たちも潮が引くように去っていった。

遠藤は「世の中そういうものだよ」と気にしなかったが、アチョーは密かに傷ついた。自分に誰もが認めるような文才がないから、世間に飽きられ、見捨てられたのだと思った。

 マスコミへの露出もなくなった頃、アチョーの元妻である麻美から連絡があった。

 麻美は、一年以上前に出稼ぎに行ったまま失踪したアチョーを今現在も探していた。

たまたまテレビで目にした遠藤が、高校の同級生と知り、行方を知らないか尋ねてきたのだった。

 事情を知ったアチョーは、熟慮した末に言った。

『麻美には俺は死んだと伝えてくれ。実際死んだも同然だし、これ以上探し続けさせるのも悪いから』

 遠藤も同意した。

「わかった。本の印税やグッズの売り上げがあるから、そのお金もご家族に渡すことにするよ。折角だから最後に会いに行こう」


 遠藤はアチョーを猫用のキャリーケースに入れ、東京から新幹線で一時間ほどの某県へ赴いた。まっすぐ麻美と息子の虎太が暮らすアパートを訪れた。

 外階段から二階に上がり、角部屋のドアを叩くと、よれよれのトレーナーとジーンズ姿の茶髪の女が出てきた。麻美だった。

汚れた食器や衣服で散らかった部屋に通されると、奥から九歳になる虎太も出てきた。

父親に似て整った顔立ちで、神経質そうな目をしている。

遠藤は虎太に会わせてあげようと、アチョーをキャリーケースから出した。

アチョーは、久しぶりに会った息子の顔を感慨深く見つめた。

『虎太、パパだぞ』と呼びかけたが、虎太には「ニャー」としか聞こえないようだった。

 遠藤は、麻美に阿長ミノルが不慮の事故で死亡したことを告げ、三百万近いお金が入った封筒を渡した。麻美は封筒を開けると、中の札束をせっせと数えだした。数え終わると、フンと鼻を鳴らし、煙草に火をつけた。

「あ~ミノルさん、死んじゃったんだぁ。ま、あの人はどうでもいいんだけどね。ホラ、虎太の養育費があるから。こっちも母子家庭だから色々厳しくてさ、貰えるもんは一円でも貰っておかないと。でもこれくらいあればしばらくは平気。ラッキー」

 麻美は満面の笑みを浮かべ、煙をふかした。礼の一つも言わないまま、用は済んだとばかりに背を向けた。携帯でメールを打ち始めた。

黙って見ていた虎太が、突然アチョーを指差して言った。

「おじさん、その猫は何?」

「これは……虎太くんのお父さんが飼っていた猫。今は僕が預かっていて」

 遠藤が簡潔に説明すると、虎太はアチョーを食い入るように見て

「虎みたいな猫だね。虎は大きくて強くてジャングルの王様なんだ。パパは虎が好きだったんだよ。これは小さいし弱そうだけど」

 と言った。アチョーは、息子の言葉に胸が締めつけられた。

麻美が携帯で誰かと話しだしたのを見て、遠藤は部屋を辞した。何はともあれ、これで自分の役目は終わったと思った。

 外に出て、階段を半分ほど降りた時だった。背後から『遠ちゃん』と声がした。

 振り返ると、アチョーが足を止めて、じっと見下ろしてくる。

「どうしたの?」

 問いかけると、アチョーは少し逡巡した後、おずおずと切りだした。

『俺、ここに残るわ』

「えっ」

 予期せぬ申し出に、遠藤は唖然とした。

「アチョーがそうしたいの?」

『うん。考えたんだけど、これからはただの猫として生きようと思う。たぶんそれが一番いい』

 アチョーは口角を上向きに反らし、自虐的な笑みを浮かべた。(ように遠藤は見えた)

『俺さ、マジで自分のことしか考えてなかった。今回のことで、初めて虎太のことを思い出した。ひどいよな、自分の子なのに』

「ずっと忙しかったから仕方ないよ」

遠藤は慰めたが、アチョーは即座に「違う」と吐き捨てた。

『俺は最低だ。たった一人の息子も忘れるようなクズなんだ。だから、人間ですらあれなかった。元からダメダメで文才もないのに、強い虎になんてなれるはずもなかった。猫になっちまったのは、その程度の器だからなんだ』

「……」

『でも、遠ちゃんと暮らしたこの半年は、小説家ごっこもできたし、俺のショボい人生で一番充実してた。本当に楽しかったよ。あんがとな』

 アチョーは、ペコリと頭を下げ、さっと踵を返した。

『虎太の傍にいたいんだ。アイツを守ってやんなくちゃ』

力強く言いきると、振り返ることなくアパートへ戻っていった。

 一人残された遠藤は深く嘆息した。アチョーとの別れは悲しかったが、これで良かったのだと言い聞かせた。空っぽのキャリーケージをかかえて東京に帰った。


 数ヶ月後――。

 その日の天気は荒れに荒れていた。濃い墨を流したような漆黒の空から、雨がざんざんと降りそそぎ、アスファルトを勇ましく叩いている。月が見えない分、地上に生えた人工の白色灯が冷ややかに明るい。

 深夜、遠藤はタクシーに乗って帰ってきた。最近は休日も自主的に出勤し、何かにとり憑かれたように仕事に没頭していた。

マンションに入ると、エントランスから階段にかけて濡れたモップを引き摺ったような跡がついている。訝しみながら上階へあがると、それは三階の遠藤の部屋まで続いていた。

 ドアの前に、濡れぼそった茶色の塊が踞っていた。それは泥で汚れたアチョーだった。

「アチョー?」

 驚いて駆け寄ると、眠っていたらしいアチョーは目を開け、のそりとからだを起こした。初めて会った時のように痩せてしまっている。ひどく弱々しい声で言った。

『ああ、遠ちゃん。俺、やっぱダメだった』

「どうしたの。家族と暮らしてたんじゃなかったの?」

『そうしたかったけど、もう無理。マジ無理』

 アチョーはブンブンと勢いよく首を振った。目には薄らと涙が滲んでいる。

 よくよく見ればからだのあちこちに細かい傷を作り、後頭部の毛はごっそりと抜けていた。ここに来るまでの苦労がしのばれた。

 遠藤はアチョーをかかえて家に入り、風呂場で丁寧に洗い、傷の手当てをしてやった。

ごはんを食べて落ち着くと、アチョーは堰を切ったように一気に捲し立てた。

『ヤダ。もう麻美たちのところには戻らねーから。だって、アイツらは本を読まねーんだ。教養もなければ、向学心もないんだ。わかってたんだけどな。俺が人間だった頃も、大事な本を勝手に売り飛ばしたし。心血注いで書いた原稿をゴミと一緒に捨てやがったし。最悪だよ。超最悪。母親がそうなら、虎太も先が見えてる。アイツはダメだ。嫌なことがあると見えないところで俺を叩くし、蹴るし』

「……それは辛かったね」

『最初は我慢した。低俗で劣悪な環境に頑張って慣れようとした。けど無理だった。ストレスで禿げちまって、腹は下すし、息切れするし、よく眠れないし』

 遠藤は、アチョーの真なる不幸を察した。アチョーと麻美は生きる世界が違った。麻美は夫の夢も理想も理解できず、彼の生き甲斐を否定し傷つけ続けた。繊細なアチョーは、不遜で高尚な自意識ゆえに、家族であっても価値観の違う人間との暮らしに耐えられなかった。

アチョーは、涙声で訴え続ける。

『結局、俺はどこまでもクズで我儘で身勝手なんだ。猫になっても、文化的な生活がしたいんだよ。人と話したいし、本が読みたいし、文字が書きたいんだよ!』

 遠藤は聞きながら、アチョーの揺るぎない人の性(さが)を哀れんだ。人間の社会に適応できず猫になってしまったのに、彼は本を読み、創作をし、人間にしかできないことを切望し続ける。異類の身上を受け入れられず、分相応に生きることができない。ダメ人間は、猫になってもダメなのだ。

しばらく黙考した後、遠藤は静かに言った。

「わかった。アチョーは人間でいたいんだね」

『うん』

「なら、ここで暮らせばいいよ」

『うん……』

「僕もアチョーがいなくなって寂しかった。仕事で気を紛らわせていたけど、誰もいない家に帰るのが辛くて。だから戻ってきてくれて嬉しいよ」

 円形脱毛してしまった頭を優しく撫でると、アチョーは髭を震わせ、グズグズと鼻を鳴らした。遠藤の膝によじ登ると、固い腹に甘えるように額を擦りつけた。

やつれきった顔にようやく安堵を滲ませ、消え入りそうな声で鳴いた。

『あんがと。遠ちゃんは、マジで、最高のズッ友』と。


 ――それからの月日を、遠藤とアチョーはまた共に暮らした。

 猫ブームは去ってしまい、世間に省みられることはなかったけれど、アチョーは相変わらずパソコンで小説や詩を書き、遠藤はそれを読んだ。時には口述筆記をして創作を手伝った。ある程度文章がたまると、同人誌にしてフリーマーケットで売った。赤字であっても気にせずイベントを楽しんだ。

 休みの日は、晴れていれば一緒に自転車に乗って公園へ行った。海をボーと眺めたり、運動場の砂にあてどなく字を書いたりした。

 雨の日は家にこもり、ソファに寝転がって本を読んだり、映画を観たりした。

 アチョーはどんな猫よりも人間らしく、遠藤という唯一無二の理解者を得て幸福だった。



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