三 看護師

 泣いている彼の姿を、わたしはただ、美しいと思いながら眺めていた。霞の向こうで泣いている彼は、束の間、確かにひとりきりだった。そこにわたしはいなかった。あの子とふたりきりだった場所に、彼はひとりきりでいた。枯れた檸檬に絡んだ蔓の葉から、朝露が落ちる。それらをわたしは、ただ、眺めている。

 中庭の檸檬は、ならなかった。つぼみをつけて、そのまま枯れてしまった。あの子の病状が悪くなって、誰も檸檬の手入れをできなくなったから、揚羽蝶の幼虫に食まれて枯れてしまった。茎はもう、茶色とも灰色とも言い難いものに変色し、その棘は以前のように張りのあるものではなくなっている。触れると、ちくりとかすかな痛みをもたらした。指先を見ると、血は出ていないものの、薄皮一枚隔てたところにとげの先端が入っていることがわかる。触ってみると、先ほどのちくりとした痛みが再び生み出される。


 あの子だったらどうするだろう。こんな彼の姿を見たら、あの子はどんな反応をしたのだろう。図書館の、死を哀れむ本を「これはいらないから」と言って無表情に焼却炉に落としたあの子は、もしかしたら、彼の姿を見て怒るのだろうか。それとも、笑うだろうか。

 あの子の死から、一ヶ月が経った。「檸檬」と呼ばれた少女は「病気に追いつかれて」、あるいは「副作用に弱められて」、本当に、大人になることはなかった。あの子の死因はわたしには伝えられていない。それはわたしが一人の看護師に過ぎないからであり、彼がわたしに話そうとはしなかったからだ。このサナトリウムに患者はいなくなった。だから、役目を終えたサナトリウムはあの子の遺体の検査が終わり次第、閉鎖された。

 彼にとってあの子は最後の患者である以上に特別な存在だった。ずっと彼とあの子は、ふたりきりだったから。少なくともきっと、あの子にとっては。

 サナトリウムは荷出しも完了し、がらんどうになってしまった。それでも、ここはあの子の知りうる限りの世界で、すべてだった。そのすべての中に「先生」はいた。

 あの子の骨は、ほとんど、残らなかった。薬漬けの毎日がそうさせたのだろう。わたしと先生は、それでも残った脆い塊と、さらさらとした灰を集めて透明な薬瓶に入れ、この庭に埋めることにした。あの子を引き取る親族はいないから、葬るならわたしと彼の好きにすればいい、というのがこのサナトリウムの管轄部署からの答えだった。けれど実際には、彼があの子をこの場所に埋めることに決めた。わたしは「それがいいんでしょうね」と答えただけだ。

 見知らぬ世界のどこかに、それも、あの子の死を哀れむような場所に埋められることは、死への哀れみを否定したあの子の望むことではないだろうから。


 あの子は、檸檬。それも飛び切り弱いのに、棘のある檸檬の木だった。そして彼は、それを支えようと必死で絡みつく一筋の蔓だった。今だって、彼はきっと、あの子がいなくなったことを悲しみながら、その死を哀れまないように必死になっている。「わたしが目をそらし続けたことを、あなたはやってのけた。あの子と向き合った。それだけで、いいじゃないですか。それだけで、十分じゃないですか。あの子も、幸せでしたよ。あなたが自分を削ることはないでしょう」そんな風に思っていてもわたしは口に出せない。あの子から逃げたわたしが言ったところで何になるというのだろう。彼は赦しを求めてなどいない。ただ「檸檬」を。あの子を求めたくても求められない気持ちは、彼を蝕むだろうか。

「わたし、もう、行きますね」

「私も行くよ」

 答える彼の顔は、けれど、まだあの子を想っている。

「無理は、しないでくださいね」

 そう声をかけても、彼は立ち上がってしまう。

 ふたりの世界に居たがったのは、あの子だけではなかった。きっと彼もいつの間にかその中に生きていたのだろう。

 そして、残された彼はサナトリウムを夢に見る。一人だと知りながら、あの子をここで探す夢を。日常では普通に振る舞っていても、彼は夢の中であの子を求めてさまよい歩くだろう。それが、それだけが、あの子の生きた証になるのだから。

 蔓についていた露は、もう、跡形もなくなっている。この蔓も、もうすぐ枯れてしまうだろう。それまでは、ひとりきりで。


 あの子がいた、彼はいる。その低い声はもうあの子の名前を呼ぶことはない。当然、それに答える声もなく。

 それが、彼の世界のすべてになる。


 薄靄の中、烏揚羽が飛んでいく。




        ひらり、ひらひら。ひらり。




〈終〉

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檸檬の世界 迷歩 @meiho_623

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