「おかしいの。先生、あたしの顔をそんなに見て、どうかしたの?」

 檸檬は今、目の前に座っている。私はその小さな手を握ってひそかに呼吸を整えていた。

「先生、また仕事しながら寝てしまったんでしょう。服にしわがついちゃうよ」

「そうだね、檸檬、気をつけなきゃね。ところで檸檬、水はもう飲んだ?」

「うん、先生寝てたから、起こさないように飲んだよ。看護師さんにもうすぐ朝ごはんできるから先生起こしてきてっていわれたから起こしに来たんだけれど、まだ起こさないほうがよかった?」

「いや、起こしに来てくれてよかったよ」

 檸檬は首を傾げた。よかった、顔はちゃんと見えている。

「まぁ、いいや。先生、お水のむ?」

「うん」

 檸檬の白い手が離れる。意識していないとまだ声が震える気がする。檸檬に聞こえないように、息を吸って、吐く。意識が明瞭になってきた。どうやら先ほど、檸檬を起こしに行ったのは夢だったらしい。その夢を見ている私を檸檬が起こしに来たというわけだ。

 医者たるもの、患者の死を怖がるなんて、と思いかけてすぐにその思考を打ち消す。

 檸檬はもう、私にとっての一人の患者なんかじゃない。

 そうではなく、檸檬がいつ死んでもおかしくないということを私がどこかで受け入れられずにいることが問題なのだ。

「先生、はい、お水」

「ありがとう」

 手渡してくれたグラスを受け取り、一口含む。渇いていた口と喉とが潤って、少し落ち着く。

「それから、これ」

「なんだい?それは」

 握った手のひらを檸檬が差し出す。私の手のひらを広げさせると檸檬も手を広げてコロン、と何かが落ちてきた。

「チョコレイト!」

 ぱぁっと、檸檬は笑う。それから、はっとしたように顔を近づけてささやく。

「応接間にあったの、取ってきちゃったの。溶けちゃうかなって思って、あたしの部屋の冷蔵庫に入れてあったんだけれど、ひとつ先生にあげるね」

 ささやきながらも、檸檬はにこにこしながら言う。

「どうして、先生にくれるの?」

「甘いものを食べると、元気になるから。でも、看護師さんには内緒ね!」

 クスクスと笑う檸檬の、金色に光る瞳は、澄んでいて、けれど明るくはない。無邪気な諦観。自覚のない残虐さ。

 じゃあ食堂に来てね、と言って檸檬は診察室を出ていった。チョコレイトの包みを開けると、檸檬が強く握りしめていたのか、表面がぬるく溶けていた。指先でつまみ、口に含む。噛みつけたチョコレイトの内側は冷たい。冷蔵庫に入れていたというのは本当らしい。そのことに子どもらしさを感じて、なんだか微笑ましくて口角が上がる。

 檸檬にとって、自分の死は当たり前。物心がつく前から死は自らの眼前にあり続けるものだ。檸檬はその美しい瞳で、常に死を含めた自分の世界を見つめている。私は、檸檬と向き合うと決めた時から、その「当たり前」を共有しているし、同時に自分がそれまでもってきた当たり前を排除している。

 それなのに。ため息をひとつ吐く。それなのにあんな夢を見てしまった。夢の中でも、死んでほしくないと願ってしまった。そう願うことは、檸檬の「当たり前」を壊すことだと、檸檬に絶望を与えるだけだと、知っているのに。

 檸檬は、哀れみなんて求めていない。日常を共有できる人を、一緒にいられる人を、求めているのに。

 指には、溶けたチョコレイトがくっついている。それを舐めとって、口の中に残る冷たいチョコレイトとともに飲み下す。糖分で喉がひりりとする。

「せんせー、まだー?」

「今行くよー」

 水を飲んで、診察室を出る。


 たとえ檸檬がいつ死んでも、哀れみだけはもたないように。


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