ネージュ・ルージュ-時の女神は過去にかえる-

小谷杏子

カゴノイエ

「――ちょいと、そこのお嬢さん」

 呼ばれたので振り返った。ここには「お嬢さん」と呼べる人物が彼女一人しかいなかったから。

 見ると、小さな老人がいる。白髪とヒゲで顔が埋もれており、どんな表情をしているのか判らない。

 ノエル・バルドーは愛想を浮かべずに話した。

「なにかしら」

「そこのお屋敷は入っちゃあいかんよ」

「何故?」

「いろいろあったんでなぁ」

 彼は、鬱蒼と生い茂った草むらの奥にそびえ立つ赤煉瓦の屋敷を見つめた。その視線につられて彼女も屋敷を見やる。

 じっと佇んでおけば、時がゆるりと流れていく様がよく分かる。陽が雲に隠れていき、屋敷が陰った。

「そんな大荷物で、どこから来たんだね」

 脇に置いた真っ赤な旅行かばんを指す老人。確かにここらは人の立ち入る場所ではないし、古びた旅行かばんを持つ少女が佇むには似つかわしくない荒地だ。

 だが、その問いに

 彼女は思案し、小さな唇を小さく開かせた。 

「遠くの国から汽車を乗り継いで」

「……そうかい、よく来たねぇ」

 老人は感慨深げに言うと、しばらく何も言わなかった。こちらからも話しかけないでおく。

 やがて、時の流れとともに陽が雲から顔を出し、屋敷を照らす。

 その瞬間、目の前が一変した。

 手入れの行き届いた芝の真ん中に、屋敷へと続く小道が現れる。鉄製の門はピカピカに磨かれ、荒廃した屋敷は新築したてのように真新しさを放った。

「もう云百年と前の話でな」

 横にいた老人が静かに話し始める。

「旦那様と奥様、そして幼いお嬢様の三人家族がお住いになられていた。ほら、あそこにいるだろう」

 老人が指差す方向に、若い男女と駆け回る幼女がいた。三人仲良く戯れている。

「旦那様は厳格だったが、家族にはとてもお優しい方で、特にお嬢様を大切にしていた。奥様はそれはそれは女神様のような方で。お嬢様もそんなご両親に似て、優しく素直な子でねぇ」

 キラキラと瞬く陽の光を浴びる家族を、彼女はじっと凝視して見た。

 こんなことが起きうるのだろうか。あり得ない。いや、時を駆け、あらゆる世界を行き来している者が何を不思議に思うのか。

 首を振り、目を瞬かせると、老人がおもむろに門を開けた。

「お嬢さん、この屋敷に何か用があるのかい?」

 陽がまたもや雲に隠れ、屋敷に暗がりが訪れる。元の荒れた廃屋に戻っていた。光が射しこむ時にしか、元に戻れないのだろう。

 ノエルは老人をまっすぐに見つめた。

「えぇ、もちろん。その為に来たのだから」

 その答えに彼は鬱蒼とした草むらへ入り、手招きした。

「お入り」

「いいの?」

「あぁ。荷物も重たかろうて。ここで立ち話もなんだから、入るがいいさ」

 しわがれた声で笑い、中へ促す。

「お嬢さんも見ただろう。幸せな家族の在りし日を」

「えぇ」

「家族の許しを得た証拠。それなら、招かねばなるまいよ」

 老人は得意げに言うと、返事も待たずに先を進んだ。

 自身の背丈程もある草をかき分け、小道を歩く。見上げれば、近づく赤煉瓦の在りようが認められた。

 随分と汚らしく、苔と草木が屋敷を覆っている。かき分けた草から見えてくるのは黒く古びた木製の扉。長らく出入りされていないのか金具の部分が錆び付いている。老人の力じゃ固くてとても開けられないだろう、と思っていたら目の前の彼は易々と扉を開けた。鈍く重々しい悲鳴を上げながら扉が開いていく。



 中は湿っぽく、陰気だった。玄関は広く、大きな柱時計が脇に置かれている。当然、動いてはいない。

 廊下の横手には暖炉があり、応接間がある。かつて、この屋敷にはきっと色んな人間が出入りしていたのだろう。今はその影も見えないが。

 ソファは腐敗し、絨毯はほつれた糸を象ったまま風化している。その上に堂々と掛けられた肖像画には、若い女の微笑みが見下ろしていた。

 描かれている女は、ブロンドの髪の毛が艶めかしく、ゆったりしたウェーブがかかっている。目鼻立ちは精巧で美しい。

 太陽の光が肖像を照らし出す。瞳がキラキラと目映く光れば、女の瞳がノエルを

「これは……」

 透き通った瞳がこちらを見ている。ノエルは思わず肖像に手を伸ばした。

「お嬢さん」

 老人の咎める声で我に返り、彼女は小走りでその場を離れた。

 それから長い廊下を抜け、広い空間が現れる。家族がここで幸せな時間を築いていたのだろう、大きな居間が姿を現した。ぼろぼろに朽ちたカーテンから光が射す。

 途端、明るい光景が目の前に広がった。

 冬の日だろうか。暖炉が焚かれ、豪華絢爛なシャンデリアが輝きを放つ。その空間で幼女が大きな窓を眺めてはしゃいでいた。

「おかあさま! あれは何? 白いフワフワがお空から落ちてきているの!」

 幼子は繰り返し繰り返し、母に尋ねる。

 肖像画に描かれていた女とそっくりな青い瞳をした夫人が幼女のそばに立っていた。幼女の目線まで屈み、優しげな笑みを見せる。

「あれは、雪というのよ。冷たくて、でも優しい、お空からの贈り物なの」

 母は子に優しく語ると、幼女を抱き上げた。

「ねぇ、おかあさま。お外へ出てはいけない? 私、とってもユキと遊びたくなったの!」

「まぁまぁ、本当にお転婆さんだこと。でも今日はやめておきましょう。明日、お父様がお戻りになられたら一緒にお外へ行きましょう」

 娘は素直に従った。笑顔で頷き「約束ね」と母の首に手を回し、頬にキスをする。

 母親にそっくりなブロンドの髪に、真っ赤な頬、大きな灰色の瞳、小さな唇から可愛らしく覗く白色の歯。そんな愛らしい小さな子供を、ノエルは押し黙って眺めていた。

「旦那様は」

 幸せな家庭にそぐわない、しゃがれ声が横から聞こえる。

「遠方の仕事がほとんどで、あまり家にはいらっしゃらなかったんだよ。奥様は寂しかったろうが、一人娘のお嬢様が活発な子で……毎日、楽しそうだったよ」

 陽の光が陰ると同時に夫人と幼女の姿はおろか、暖かな暖炉や神々しいシャンデリアが消え失せ、元の湿った陰気な空間に戻った。

 カビ臭いソファに見る影もなく腐った短足のテーブル、欠け落ちた硝子の上空には危なっかしくぶら下がっているシャンデリアの残骸、カーテンは引きちぎられた布切れと化している。ピカピカに磨かれていた床もホコリが積もっている。

「お嬢さん」

 いつの間にやら老人は、居間の向こう側へ向かっていた。

 在りし日の母娘がいた場所を見つめながら、ノエルは小走りに追いかけた。

「ねぇ、質問があるのだけれど」

「何かな」

「あなた、この屋敷に住んでいるの?」

「まさか」

 老人は鼻で笑った。確かにこの荒れようじゃ住んでいるとは言い難い。

 老人は薄暗がりの居間を抜け、汚れた階段を上った。一歩、一歩、上る度に腐敗が進んだ木が悲鳴を上げる。階段はゆるやかな螺旋状になっており、一周して二階へと続いていた。踊り場があり、老人はそこで立ち止まった。

 光が裂かれたカーテンの隙間をくぐり、辺りは例のごとくきらびやかな屋敷の姿を現した。

 歓声を上げる子供の声が大きくなっていき、やがてぼんやりと幻影を映し出した。二人の前を通り過ぎて行く娘は、楽しそうに廊下を駆け回る。

「あっ」

 ノエルは思わず手を伸ばした。だが、空をつかむだけで虚しい。

 子供は足を踏み外し、階段を滑り落ちていった。

 遠くで女の甲高い悲鳴が続く――

「お嬢様は、しばらくして息をお引取りになられた」

 老人の残酷な言葉が、悲鳴の中をかいくぐっていく。



 二階へ上がると、真っ直ぐの廊下を真ん中に、左右四つずつの部屋が均等に向かい合っていた。客間と主と夫人と娘の部屋のみがある。

 かつては重厚な装飾が施されていたであろう各扉は今では汚らしく、錆び付いていて原型を留めていない。

 老人は客間を過ぎ、家主と夫人の部屋を過ぎ、亡き娘の部屋も過ぎて行った。

「中に入らなくて良かったの?」

 それまで黙っていたノエルが訊く。

「何も残っとらんよ、なーんにも」

 老人はそれだけ答えた。どうやら、彼の「記憶」は各部屋には残っていないらしい。いや、思い入れがないのか。

 全体的に屋敷は南側を向いて造られている。東西に向かって横長の造りなので、今いる場所は東側に位置する。

 彼は更に東へ進んだ。その度に、床板の重たい悲鳴が聞こえてくる。今にでも抜け落ちそうな、脆い板を何のためらいもなく進み、突然に足を止めた。ノエルも合わせて止まる。

「お嬢さん。今から見るものは決していいものではないが、それでもついてくるかね?」

 腰の曲がった老人はノエルの背丈に満たない。見上げるような格好も不思議ではなく、彼はノエルの目を覗き込もうと爪先立つ。

「構わないわ」

 毅然として答えた。その態度に、老人は頷くとしおらしく「そうかい」と呟いた。悲しげに憂う声である。

 しばらく待てば、陽の光が射しこんでくる。すると、ノエルの目の前をやつれた夫人が早足に歩いていった。

「今度は上手くいくはずよ」

 腕に抱かれているのは生まれたばかりの赤ん坊。白い布でくるまれ、安らかな寝息を立てている。

「私の可愛い子。あの子にそっくりだわ。名前はもう決めてあるのよ。あの子とおんなじ名前よ。あなただけは絶対に失うわけにいかない。なんとしても……」

 娘に語りかけ、彼女は進む。絹のような滑らかなブロンドは疲れたように痛んでいて、艶もない。青く澄んでいた瞳も淀んだ曇り空を写す海のよう。最初の娘を亡くしてから彼女の美しさは陰ってしまったのだろう。ノエルはそう思った。

「旦那様は、仕事に熱を上げ、家庭を顧みなくなった。それが夫人にとっては幸か不幸か。帰らない夫に娘は亡くなったとだけ伝えて、彼女は一人で地下室にいる二番目の娘を育てることにした」

「誰にも言わずに?」

「あぁ。この時、夫人はあまり誰とも接触せずにふさぎ込んでいたもので、また、使用人にも話しかけるなと脅していたということもあってな。誰一人、彼女の行動を知る者はいなかったのだよ」

「しかし、生まれた娘の安否くらい、誰か訝る者がいてもおかしくないでしょう」

 ノエルの問いに、老人は首を振った。そして、夫人の後を追う。

 暗く湿った地下室は、腐敗が進んだ今の屋敷とさほど変わらぬ陰気さを放っていた。石段を降り、すぐに木製の扉が現れる。

 蝶番の甲高い耳障りな音を鳴らしながら、夫人は扉を開けた。先を進んでいた老人は一緒に中へ入らずに立ち止まる。

「もう一度問うが、お嬢さん、あんたはこの先を見るかい?」

「……えぇ」

 くどいとは思うが、この異様さに悪寒を覚えていたノエルは覚悟を決めるために、一呼吸置いた。老人が重々しく扉を開ける。

 陽が射さない地下なのに、幻影は鮮明だった。夫人が子守唄を歌っている。赤ん坊は気持ち良さそうに眠っている。

 その部屋は、地下にあるというだけで寂しくはない。赤ん坊のゆりかごに、テーブル、絨毯、ストーブ、肘掛け椅子……どれも上等の物だ。

「奥様は、二番目のお嬢様を大事に大事に可愛がっておられたよ。だが、お嬢様を地下室の外には出さなかった。絶対に」

 老人は思い出すのが辛いのか、苦々しい口調で続けた。

「そして、お嬢様が歩き始めてから、奥様は更なる異常ぶりを見せるようになった」

 老人の言葉と共に、ゆりかごに揺られた赤ん坊がたちまち歩き初めの幼女へと成長した。皮肉にも最初の娘と同じ顔立ちで、同じ髪色、目の色だけが違う。母親と同じ青い瞳だ。

 幼女は好奇心旺盛で、部屋の中を歩き回っては色々な物に触れた。夫人がその後ろを付いて行き、転びそうになるとすぐに抱きかかえる。

 窓も無く、唯一ある扉は固く閉ざされ、幼女は外の世界を知らずに育った。

 既に娘も言葉を理解し、話す言葉も達者になり、彼女は扉の存在を母に問うようになる。

「この先には何があるの、おかあさま」

 しかし、母は首を横に振ると、

「この扉は絶対に開けてはダメ。触れるのもダメ。お母様とのお約束、守れるわね?」

 ノエルと老人は静かに、幼い娘の成長を眺めていた。老人が何を考えているのかは相変わらず分からない。

 そして、目の前の娘は母という人間と地下室だけの世界で幾年の月日を過ごした。

 やがて、

「おかあさまは扉を開けるのに、どうして私は開けてはいけないのかしら」

 ふと疑問に思ったのだろう。母は部屋にはいない。

 幼い娘は、そっと扉の元へ向かい、しげしげと見つめる。

 思わず、ノエルは娘のそばへ駆け寄った。

「ダメ! その扉を開けては……!」

 聞こえるはずのない過去の人に訴える。その時、小さな娘は一瞬だけノエルを見たが、すぐに扉に向き直ると、ドアノブに手を伸ばす。石段を上り、木製のドアに手をかける。

 その先で彼女を待ち受けていたものは、あまりにも残酷な世界だった。

 初めて見る世界、目に映るすべての物が彼女の好奇心をかき立てる。

 彼女は知ってしまった。外の世界を。

 地下室を抜け、彼女は東側の階段を駆け上る。

 広い、静かな長い道。その脇に大きな扉が左右に規則正しく並んでいる。

「すごいわ! ここは一体何かしら?」

 こんなにも広い空間は見たことがない。ふかふかのカーペットに、きらびやかな照明、開放的な天井、窓から差す太陽の光、大きな花瓶に生けられた花……目にするものが真新しく、彼女にとってそれらは初めて触れる景色だった。ただの屋敷の廊下なのに。

「――お嬢さん」

 娘の無垢な笑顔を見つめていたノエルの後ろから、老人が話す。

「君はこの先に待ち受けていることを知っている。そうだね?」

「………」

「それでもこの続きを見るのかい?」

 そう。彼女はこの話の続きを知っている。

 秩序を正すべくして、彼女は逆向きの懐中時計を用いて異世界を旅し、過去を知り、未来を知り、現在を正す。自身の時を止められ、世界の時を動かし、操り、正すことを義務付けられた囚われの少女である。

「知っている。でも、思い出せない。私は……」

 思い出せないのはその記憶のみ。

 先は知っているのに――

「何をしているの!」

 突然、背後から女の甲高い悲鳴にも似た声がする。

 振り向くと、娘の母親が髪の毛を振り乱し、娘の元へと近づいてきた。同時にノエルの背筋も凍りつき、動けなくなる。

 一方で娘は母の異変に気付かずに笑顔で振り返った。

「おかあさま、ここはすごいのよ! なんだか……」

 ――夢の中にいる気分だわ。

 ノエルが唇だけで言う。娘の思いを汲み取るように。

 娘は母親に手を引っ張られ、強引に元いた場所へと連れ戻された。

「どうして言いつけが守れないの? 絶対に外へ出てはダメだと言っていたのに!」

「どうしていけないの?こんなにも素敵な所なのに!お母様だけずるいわ」

「いいえ。ここは怖い所なの。貴方には良くない場所なの」

 哀れな娘は、まだ理解していなかった。母が何故これほどまでに執拗に反復し執念深く「外」との接触を避けるのか。

「――二番目の」

 老人が母娘の後ろ姿を見送りながら、重々しく噛み締めて言う。

「二番目のお嬢様はやはり、あなただったのだね」

 老人が傍らに居た私を見上げる。

「おかえりなさい」

 そう言う、彼の声は慈しみに満ちて優しい。


 ***


 二人は、東側の階段を降りてすぐにある食堂へ入った。陽は陰り、屋敷の中は陰気な暗がりを纏って廃墟と化す。

 食堂はこじんまりとしたものだった。長テーブルとそれに見合った椅子が並んでいる。荒れているのかと思えば、ここだけは整頓されていた。

 老人は簡易式のストーブを焚き、錆びたヤカンで湯を沸かしていた。忙しなくも動作はゆっくりだ。

「好きなところに掛けなさい」

 ノエルはストーブから三つ離れた椅子に手をかけた。湿っぽく、固い木片のような不細工な椅子を引く。クラシカルなワンピースをふわりと揺らし、椅子に落ち着ける。床に積もった埃が大袈裟に舞うが気にしない。革のブーツが埃まみれにもなっていたが気にしない。旅行かばんは脇に置いておく。

 程なくして、老人が危なかしい手つきで欠けたティーカップを持ってきた。

「こんなものしかなくてな」

 老人はそう建て前を述べ、手を震わせながら湧かした湯をカップと揃いのポットに流す。

「どうぞ」

 仄かに薫る爽やかな柑橘にノエルは少々驚いた。しげしげと、出された紅茶を見つめる。

「大丈夫だよ。茶器も紅茶も新しい物だから。さすがに古い茶葉は使わんよ」

 彼女の心情を察したのか、老人は愉快そうに笑った。

 紅茶にはレモンを浮かべるのがノエルの好みだが、ここは老人の好意もありストレートで頂く。飲み干し、向かいの老人を真っ直ぐに見た。

「紅茶のおかわり、どうかね」

「いただくわ」

 老人はポットを危なっかしい手つきで持つと、小刻みに震えるその手で紅茶をカップに注いだ。琥珀色の液体は薄暗がりの中でユラユラ揺れる蝋燭の火で照らされて、小さな輝きをちらつかせる。

「この茶は、奥様がいたく気に入っておられてね」

 老人が懐かしむように言う。

「柑橘系の香りが大好きだった奥様の為に、旦那様が異国から取り寄せた茶葉を使っているのだよ」

 幸福な夫婦を想い出すように、老人は語って聞かせる。

「でもそれも、最初のお嬢様が亡くなられてあなたがお生まれになった時期を境に、旦那様は茶葉を取り寄せようとはしなかった。旦那様と奥様の間には修復不可能な時間のズレが出来てしまったのだよ」

 ――勿論、最初のお嬢様にもあなたにも非は無いのだけれどね。

 老人は付け加えるように呟くと、紅茶を啜った。

「……それにしても、以前の面影は全く残っていないのだね」

 老人は首を傾げて言う。

 かつてのノエルは最初の娘――姉と同じ容姿だった。しかし、今ではブロンドの髪の毛は白く、肌の色は血の気もなく、唇でさえ色を失っている。

「唯一残っているのは、その瞳だけなのかな。お母様によく似ている。実に綺麗だ」

 憂いの余韻を響かせ、彼はため息を吐く。そして、紅茶のおかわりを勧めた。

「いらないのかい?」

「ええ。もう充分よ」

「あなたの好みだと思ったのだが」

「えぇ、それはね。でも、お腹いっぱいだわ」

 突き放して言っても、老人は笑っているような気がした。表情は相も変わらず見えないのだが。

「それは残念。沢山作ってしまったのに……これは困ったなぁ」

「じゃあこれに入れてちょうだい。お持ち帰りするわ」

 仕方なく、ノエルは旅行かばんを開け、赤い蓋付きのボトルを取り出した。

「ほう。また、随分と面白い物を持っておるなぁ。しかし、これに入れると冷めてしまわないかい?」

「大丈夫。保温のまじないを施してあるもの」

「そうか、そうか」

 彼は私からボトルを受取ると、ポットの中身を移し始めた。

 立ち上る乳白色の湯気が仄かに香り、鼻腔をくすぐる。

 幸福だった家族は、ここでこの紅茶を飲んでいたのだろうか――

 思いに耽っていると、またもや光が射した。目映い光が筋を造り、食堂を照らす。

 瞬間。激しい爆音が辺りに響き渡り、屋敷が揺れた。茶器が落ち、華奢な音を響かせる。

 唐突な轟音に、ノエルはその場で固まってしまった。目を瞑る。

「……お嬢様」

 目の前で声がした。こんな状況なのに老人は穏やかな声である。持っていたボトルをこちらへ寄越してくる。

 ノエルは震える手でそれを受け取った。温かい。ここではない異世界の呪いが効いているらしい。しかし、この温かさをもってしてもノエルの心臓は一度怯えてしまった以上は忙しなく早鐘を打つ。

 嫌な予感がよぎった。

「安心しなされ。ここは儂の。単なる記憶。戦争はもうとうに終わっている」

 ノエルはおそるおそる目を開けた。

 いまだ爆撃は収まってはいなかったが不思議と二人のいる空間は止まっていた。よく見ると、内装が先ほどの廃墟とは違う。過去の幻影であるが、爆撃による振動で家財が倒れていく。

「あなたも知っておるだろうが、この時、屋敷の近くにあった森に爆弾が投下されてしまってね。滅多に帰らなかった旦那様と地下室から出て来られた奥様と、使用人が犠牲になったんだ。地下室に閉じ込められ、外に出たがったあなたは皮肉にも不幸中の幸いで、生き残ったんだよ」

 時折、屋敷の奥から悲鳴が上がる。そしてついに爆撃で屋敷の至る所が破壊された。森を見ると、一面、真っ赤に燃え盛る炎が広がっている。火の海で焼け死ぬ人間の断末魔、爆撃音が耳をつんざく。色々な音が混ざり、不協和音となって聴覚をマヒさせていく。もう二度と音が聞こえないような感覚に襲われた。

「――もう、済んだことだ」

 指揮棒で演奏を止めたように、老人の声でピタリと騒音が止む。

 同時に陽は陰り、凄惨な景色は元の廃墟へと戻っていく。

「過去の話だ。旦那様や奥様のご親戚も戦死したり爆撃に襲われて、この屋敷を手直しする者はいなかった。森を抜ければ集落があるが、彼らの誰一人として、この屋敷に近づこうとはしなかった」

 老人が言う。その口調は重苦しく、悲しげだ。

「あなたが生き残ったことが、周囲の人間たちを脅かした。死臭漂う凄惨な場で生きているなんて、まるで魔女のようだと」

 ここは魔女の棲家として名を馳せた荒地だった。

 もう何百と永い時間、ゆっくりと朽ちながら存在し続ける。

「私は、ただ……」

 ――本当の事を知りたかったから。

 そう言おうとして口をつぐむ。子供じみた願いだった。時を操る者が私用で過去に帰るなどあってはいけない。正しくない。

 時と空間に囚われた者のささやかな願いがついに叶ったものの、凄惨な記憶は取り戻せはしない。

 なんとも言えない脱力が彼女の胸中を占めていた。それを見透かしてか、老人が声を上げて笑う。

「あなたは真実を知る為にここへ来たのだね。そうか、そうか。立派になられたものだ」

「大層なことじゃあないのよ。私は――偶然にここを訪れただけなのだから」

 あるのは事実のみ。地下にいたという記憶はやはり欠片も残っていないのだ。当時に感じたことは全く残っていない。これだけ悲惨な目に遭っておきながら。

 この屋敷に来れば何らかの記憶は蘇るだろうと期待していたのだが、どうやら無駄足だったようだ。

「無理に取り戻す必要はないさ。幼き頃の忌まわしい過去なんか忘れてしまった方が幸せだ。そうは思わないかね」

「そうかしら」

「そうとも」

 ノエルはもう諦めて唸った。確かに言う通りかもしれない。本当は取り戻したかったが、どうやらこの記憶はノエルにとっては不要らしい。脳が拒むならば諦めよう。

 それから、老人は太く汚れた指を組み、ノエルの顔を見るようにまっすぐ顔を上げた。

「儂なんか忘れたくとも忘れられないのだからなあ……そこで、あなたに一つ、お願いがあるのだよ」

 彼女にしか出来ぬことなのだと強く言った。


 ***


 ノエルは首に下げていた逆向きの懐中時計を出した。

 時刻は十六時。そろそろ夜闇に変わる刻。

 すると、食堂にまで響き渡るくらいに大きな鐘の音が辺りに響いた。大きく、ゆっくり、それでいて鈍い鐘の音が鳴り止まぬうちに、調子の外れた音色が微かに聞こえてくる。かつては綺麗な音色を響かせていたのだろうか。酷く不安定で曲調も音階もばらつきがあって、不気味さを帯びている。

「もうお帰りなさい」

 老人が静かに言う。音に紛れても、不思議な事に彼の声はよく通るのだ。

「陽が落ちればこの地は暗闇に包まれる。本物の魔女が降り立つ前に」

「……そうね。分かったわ」

 ノエルは素直に立ち上がると赤い旅行かばんを持ち、食堂を出た。暗い大広間に出る。

「さようなら」

 一人佇む、老人に言う。寂しげな彼は手を振った。

「お元気で」

 踵を返す間際、彼はさらにこう言った。

「会いに来てくれてありがとう」



 広間を抜け、廊下に出る。暗く、湿っぽい、静かな空間にノエルの足音だけが響く。幸福な家族の面影は依然として無い。

 廊下に出、玄関ホールにある柱時計に目を向ける。針は相変わらず止まったままだったが、四時を指していた。

 ――この屋敷だけは生きている……

 そう感じられる。ノエルはゆるりと歩を進め、玄関へと向かう。

 老人との約束を果たすべく、思い扉を開け、外に出る。湿っぽい異臭と不愉快に淀んだ空気から開放され、ノエルは大きく息を吸った。

 そして、旅行かばんのポケットに入っている大楠の杖を出し、先端に火を灯す。

 火の粉を足元に落とした。赤い粉はどんどん膨らみ、やがて鬱蒼と生い茂る草木がすぐに燃え上がっていく。

 煉瓦が音を立てて崩れた。炎は怪物のように驚異的な力を放つ。

 この屋敷は息絶え絶えになり、やがて死んでしまうのだろう。

 でも、これは彼が望んだこと。

 ノエルは、屋敷の最期を見届けるため、懐中時計の針を一周だけ反対に回した。炎が巻き起こり、彼女の周囲だけ時を早めていく。やがて、そこは焼け野原だけと化した。

「……あなたに会えて良かったわ」

 これでもう思い残すことはない。崩れ行く屋敷を目に焼き付けて、彼女は踵を返した。

「さぁ、次の世界へ行かなければ。時というのは忌々しいほどに儚く、有限なのだから」

 次に往くのはどんな世界か。それは彼女自身も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネージュ・ルージュ-時の女神は過去にかえる- 小谷杏子 @kyoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ