ジャクリーンの腕

ジャクリーンの腕

「ジャクリーン・シャーウッドを知ってるか？」

「――もちろん。有名ですから」

　師のフィリップの問いにクリフが答えるのに、一瞬の間が空いてしまった。あまりに簡単すぎるから、イエスと答えるだけで良いのかどうか疑ってしまったのだ。これは、不出来な弟子を慰めるために世間話でもしてやろうという、フィリップなりの気遣いなのだろうか。

　彼らがいるのは、フィリップの工房だった。つまり、業界でも指折りの精密義肢師の仕事場だ。微細な部品や人工皮膚のサンプルの数々、各種人工神経の束に囲まれる中、彼らの目の前には一本の新品の義足が鎮座している。とある顧客のためにクリフが一から作り上げて調整し――そしてつい先ほど、キャンセルされて廃棄の運命を辿ることになったものだ。

　キャンセルの理由は、顧客とクリフの信頼関係の不足によるもの。つまりは、お前が作った義足など使いたくないと言われたのだ。

　一体その客に何を言ったのか、なぜそこまで怒らせたのか。クリフにとっては報告と釈明、フィリップにとっては説教と反省点の洗い出しの場になると予想していたのに。師の真意を量り切れないながらも、クリフはとりあえずよく知られた事実を並べてみる。

　ジャクリーン・シャーウッドは天才と謳われたピアニストだった。あるいは繊細に、あるいは情熱的に。彼女が奏でる曲は聴衆を魅了した。音楽の才能に加えて、強い眼差しの美貌にも恵まれた彼女はファンも多かったとか。それから――

「あの、事故の人でしょう？」

　ピアニストだった、と。過去形になるのは、彼女のデビューから三十年以上経っているから、ではない。今、彼女の名前を検索したら、華々しい受賞歴より先に、ある映像が上がってくるだろう。もう十年ほど前の、とある事故の映像だ。

　黒煙を上げる車、割れたフロントガラス、歪んだボンネット。救急車の赤色灯。担架で運び出される被害者。そして被害者――ジャクリーンに掛けられたシート、その右腕の部分は明らかに平らだった。その映像は、ピアニストの命とも呼ぶべき美しい白い手指が失われたことを世界中に知らしめた。

　音楽ファンを騒然とさせたジャクリーンの事故も、それ自体は、クリフにとってはよくある出来事に過ぎない。

　樹脂と金属でできた義肢に、血の通った人体さながらの造形と動きを可能にさせるのがフィリップの技だ。メカニックというよりも芸術家の域に入っているとさえ評される。実際、顧客にもアスリートやダンサーなど、緻密な動きと外見の美の両立を求める向きも多い。だから、単に四肢のいずれかに欠損があるというだけなら、フィリップやクリフの他の顧客と同じなのだ。

　それでも、ジャクリーン・シャーウッドの名はクリフにとって特別だった。なぜなら――

「さすがに知ってるか」

「先生の顧客じゃないですか。当然ですよ」

　事故から一年後、ジャクリーンは大々的に復帰コンサートを行った。その際、失われたはずの彼女の右腕を拵えたのが、他ならぬフィリップだったのだ。

　クリフもそのコンサートの映像に接したことがある。スポットライトを浴びるジャクリーンは、事故の影響を感じさせず美しかった。輝く金色の髪も、凛とした碧い目も。新雪のような白い肌も。――ただ、マスコミや聴衆の関心は、彼女の外見にはなかった。どんな重症も一切の跡を残さず治療するのは、当時の医学でもさほど難しいことではなかったのだから。

　問題は、彼女の指だった。かつて天上の調べを奏でた十本の精密な機構。その神経と関節の絶妙な連携。――それらが、義肢で再現できるのか。日常生活を送れる程度では到底足りない複雑すぎるバランスを、人の技術で作り上げることができるのか。ピアノに向かうジャクリーンに、好奇と期待――失敗と成功、両方への――の視線が突き刺さった。

　その、結果は。クリフも、もちろん公的な記録や報道は知っている。でも、彼女だけのための人工関節や神経の仕様だとか樹脂の配合だとかは、報道記事を読んでも分からないのだ。だから当事者であるフィリップが師として裏話を聞かせてくれるなら願ってもないことだった。彼にはできなかったこと――心に傷を負った顧客と信頼関係を結ぶこと――に成功しなければ、ジャクリーンの再起はあり得なかったのだから。もしかしたら、その辺りからアドバイスをしてくれようということなのかもしれない。

「そろそろメンテナンスの時期でしたか？　チケットの手配をしますか？」

　頭の中でメモを取る準備をしながら、クリフは師に尋ねた。事故から十年以上経った今でもフィリップとジャクリーンの信頼関係は健在だ。定期的に彼女の自宅に招かれて、メンテナンスを行うほどに。

　先回りしたつもりの提案に、でも、フィリップは苦笑すると半白の頭を振った。

「お前の役目は雑用じゃないだろうに」

「だって暇になりましたから」

　本来ならば、仕上げた義足の最終調整や納品後のフォローアップで、しばらくは顧客のところに通い詰めになるはずだったのだけど。今や彼は出入り禁止を言い渡された身だった。

　高名なフィリップの元に集う人材は多いが、彼の弟子の中でもクリフは出来が悪い方だった。技術だけならともかく、人の心に寄り添うことが彼はとにかく苦手なのだ。義肢師に依頼する客のほとんどは、理由は病気にしろ事故にしろ、身体の一部を失った不安や苦しみや悲しみを抱えているもの。そんな彼らの神経を、どうもクリフは逆撫でてしまうのだ。

　だから他の弟子たちよりもフィリップの仕事を手伝える場面は少ないし、そろそろ、ということで客を任されてもらったらこの有り様な訳だけど――

「暇じゃなくなるぞ。今度のメンテナンスにはお前を連れて行く。ジャクリーンに紹介してやろう」

「ええ……」

　思いもよらぬ師の宣告に、クリフは弱々しく抗議の声を上げた。アドバイスも、そしてできることなら次のチャンスも欲しかったが、これは幾ら何でも話が急すぎる。ジャクリーン・シャーウッドといえば、フィリップの客の中でも特に対応に気を遣う相手のはずだ。よりによって彼が、彼女の気に入ってもらえるとは考えづらい。

「僕に音楽は分かりませんよ……」

「そう言うなよ。とりあえず一緒に来い。良いな？」

　怖気づいた弟子の反論に、師匠は全く取り合わず笑うばかり。この気楽さ前向きさは、彼の魅力ではあるのだろうけど。でも、今度ばかりは易々と見習おうとすることなどできそうにない。

　ジャクリーンの復帰コンサートは喝采で迎えられた。事故を乗り越えて再度花開いた天才の復帰劇――ということになれば、さぞ美しい物語になっただろう。だが、現実はそこで終わらなかった。

　その後の彼女をも知るからこそ、クリフは楽観的になることはできなかった。

　　　　　　＊　＊　＊

　ジャクリーン・シャーウッドは、今は某国の地方都市に住んでいるということだった。飛行機と列車を乗り継いで、更に車を使っての旅路は、クリフはともかくフィリップには堪えたらしい。白い壁の洋館に辿り着く頃には、彼の師はしきりに腰を叩いていた。

「ジャッキー、久しぶり」

「ええ、遠いところをありがとう、フィル」

　そんなフィリップも、さらりとしたワンピース姿で出迎えたジャクリーンには笑顔を作ってラフに挨拶を交わす。と、ジャクリーンの碧い目が彼を捉えて疑問の色を浮かべた。

「こちらは？」

「弟子のクリフ。そろそろ引継ぎをしようかと思ってね」

　フィリップの答えは、多分ジャクリーンの疑問への答えになっていないだろう。クリフは、非礼を承知で口を挟むことにした。これは乱暴過ぎるだろう、と。彼にさえも理解できる。

「ちょっと先生、それだけですか？」

「引継ぎ……？」

「そう。メンテナンスはいつもの部屋で？」

　ジャクリーンの怪訝そうな表情にすら構わず、フィリップは躊躇いなく屋内に進む。愛称で呼ぶことといい、勝手知ったる、といった様子に二人の関係が窺える。でも、彼も同じように振る舞って良いものか、師の無造作な振る舞いはクリフをまたも混乱させた。

　ふたりが通された部屋には、グランドピアノが鎮座していた。傍らに備えられた丸テーブル上のカラフルな飴やチョコレートは、子供のためのものだろう。ジャクリーンは、今はピアノ教師をしているのだとか。音楽学校を目指すような英才ではなく、あくまでも普通の少年少女たちの習い事だ。かつての彼女の名声とは、不釣り合いなのかもしれないけれど。あまりにも数奇な人生を送ったピアニストの心中など、クリフに想像できるはずもない。

「――貴方も歳ということなのかしら、フィル」

　丸テーブルに三客のティーカップが並べられた。それに、駄菓子ではないクッキーも。客をもてなす態度は示しながら、でも、ジャクリーンの声には不信が満ちている。不信――つまりは、クリフへの。

「ああ、そろそろ長旅もキツくてね」

　ジャクリーンが眉を寄せているのは気付いているだろうに、フィリップは素知らぬ顔で紅茶を啜っている。すると、惚けるのは許さないとばかりに、ジャクリーンはやや強い口調を作った。

「それならもう来ていただかなくて良いわ。一般用の義肢に換えて頂戴」

「ピアノを辞めるの？　貴女がそんなことを？」

「授業には十分よ。私の耳は変わらないのだし」

　私の腕は変わったけれど。ジャクリーンの言葉は、暗にそう告げているようだった。

　ジャクリーン・シャーウッドの実力は彼女の天性のものか、優れた義肢によるものか？　成功したはずの復帰コンサートの後、音楽界をそんな疑問が席巻した。彼女の演奏は素晴らしかったが、事故の前と本当に何も変わっていないのだろうか？

　前よりも機械的で面白みがない。前よりもタッチは正確、ただし、最先端の精密義肢なら当然だが。マシンの音楽に芸術性はない。天才は失われてしまった。

　容赦ない、心ない批判が浴びせられる一方で、義肢でここまでの演奏をするのは素晴らしい、という賞賛も、あるにはあった。でも、それは誉め言葉と言えるだろうか。かつては最高峰のステージで競い合っていた彼女だというのに。

　ジャクリーンはそれらの声のいずれにも、ひどく傷ついたのだろう。だから、かつての名声、華やかなステージを捨てて、田舎町のピアノ教師に甘んじているのだろう。それは誰にも責められない。

　でも、それでもフィリップの義肢を使い続けていたということは。演奏の喜びまでも捨てることは、彼女にはできなかったのだ。そう、クリフが勝手に導き出しても飛躍していることはないだろう。一流の義肢師を呼び出し、特注の義肢を使い続けることの手間と費用、その負担は決して軽いものではないのだから。信用されないのは仕方ないが――彼の訪問が、彼女に残された喜びを諦めさせるのだとしたら。せっかくの師との信頼関係を、損なってしまうのだとしたら。

　そんなことはあってはならない。そう、咄嗟に結論付けて、クリフは声を上げようとした。

「ミズ・シャーウッド――」

　だが、ジャクリーンはおろか、フィリップも彼の方を見ていない。

「こいつの腕は確かですよ。貴女とは案外相性が良いかもしれない」

「でも、私のことを知っているでしょう？　哀れみも好奇心も、もう沢山。余計な気遣いもね。そうじゃないと思えるのは貴方以外にいないと思うの、フィル」

　そうだ、有名なスキャンダルの主役を前に、哀れみも好奇心も見せずに接するのは多分とても難しい。もしかしたらクリフの前にも、師は引継ぎを試みては失敗していたのかもしれない。だが、今日のフィリップは引き下がらない。

「とにかく、一度貴女の曲を聞かせてやってはくれないか？　その感想で、採用するかを決めるとか」

「そんなこと……」

　クリフは人の心の機微を読み取ることが不得手だ。それでも、フィリップの申し出が図々しく、ジャクリーンの困惑が正当なものであるのは理解できる。ただ、どう口を挟めばこの場が収まるのかが分からない。

　悪戯っぽく微笑むフィリップと、眉を顰めたジャクリーンは数秒見つめ合った。そして、根負けしたのはジャクリーンの方だった。

「一曲だけよ……？」

　不機嫌そうに呟くと、ジャクリーンはワンピースの裾を捌いてピアノの前に座った。

　まずは幾つかのスケールから。メジャーからマイナーへ。またメジャーへ。音は淀みなく滑らかに流れる。やがて興が乗ったのか、ジャクリーンは身体を揺らし、抑揚の幅を広げながら鍵盤に指を躍らせていく。

　ウォームアップが終わると、ジャクリーンは「華麗なる大円舞曲」を奏で始めた。有名であってもさほど難しい曲ではないのは、彼が侮られているのか、生徒によく教える曲だからか。さすがに軽やかに、指先はまさに踊るよう。

　でも、クリフは天才と呼ばれたピアニストの演奏に聞き入ることなどできなかった。演奏が終われば、彼女を満足させるコメントを述べなくてはならないのだから。人間的で情感が篭った演奏だった、とか？　冗談じゃない、そんな言葉は彼女がもっとも嫌うものに決まっている。

「クリフ。いつも通りで良い」

　思考を行き詰らせるクリフに、フィリップは無責任に囁く。客を怒らせて、拒絶されて――彼がこれまで犯した数々の失敗と失態を、誰より知っている癖に。

　クリフの義足をキャンセルした客も、女性――というか少女だった。陸上競技に熱中していたところ、事故に遭って片足を失った彼女は、ジャクリーンの境遇にも通じるものがある。その少女がまた走れるよう、クリフは技術と知識の最善を尽くしたし、サンプルを納品した段階では彼女も義足の完成を楽しみにしてくれていたようだった。彼女の笑顔を壊したのは、彼の無造作なひと言だった。

『軽い素材で作ったんです。ダイエットに成功したって思えるくらいですよ』

　師のフィリップがそう言って別の客を喜ばせていたのを傍で見聞きしていたから、彼はそのまま真似てしまったのだ。だから、少女が突然顔を歪めて泣き出した理由を、フィリップに懇切丁寧に説明されるまで理解することができなかった。

　フィリップの客は、モデルを職業とする女性だった。先天性の障害で足を持たないことを個性として、義足の繋ぎ目を隠すことなくカメラの前で微笑むことができる人だった。生まれつきのことだから障害にも義肢にも――苦労はあったとしても――慣れているし、スタイルが命の職業柄、ダイエットという単語は親しみやすいものだった。フィリップが手掛けたのも、彼女が衣装のように「着替える」、幾つもの義足のうちのひとつでしかなかった。そういったことを分かっていたからこそ、フィリップは先の冗談を口にすることができた、らしい。

　一方、クリフの客「だった」少女は、人生のほとんどをいわゆる健常者として過ごし、事故の衝撃から何とか立ち直ろうとしている最中だった。彼が無神経に放ったダイエットという言葉は、少女に自身の身体に起きた変化を不意に突きつけてしまったのだ。失われた部位の重さと大きさ、入院生活の中でやせ細った筋肉。義足でのリハビリの困難さ、本当に再び走れるのかどうか、しなやかな肉体を取り戻せるのか。そんな不安が一気に押し寄せたからこそ、そしてその不安を軽く扱われたと思ったからこその涙だったのだ。

　他の人間や、それこそフィリップだったら結果はまた違ったかもしれない。同じ言葉でも、口調や表情によって受け取られ方は全く違ってくるものだから。

　でも、クリフでは駄目だった。上っ面をなぞった言葉にへらへらとした薄っぺらな笑顔、傷ついた少女の心の裡を想像するということをしなかった彼では。そんな彼が、どうやってジャクリーンの信頼を得られるというのだろう。軽やかなはずのピアノの音が、彼を追い詰めていくようだった。この演奏に感想なんて持てやしない。芸術を理解し、音の響きから物語や情景を汲み取るような感受性とは、彼は無縁なのだ。

「さあ、どうだったかしら？」

　最後の和音の残響が消えて、ジャクリーンの指が鍵盤から離れて。彼女の碧い目が彼を見据えても、なお。クリフは何を言えば良いか、どうすれば良いか答えを見つけられないままだった。

　彼女の心に近づく言葉なんてない。初対面で、世界中の好奇の目に晒されて心を閉ざした人を相手に。フィリップは相変わらず悠然と微笑んでいて、助けてくれる気配はない。

「……素晴らしい演奏、ありがとうございます」

「こちらこそ」

　諦めて、クリフは口を開いた。まずは当たり障りのないこと、ジャクリーンの表情も何ら揺らぐことはない。

「でも」

　これは先生のせいだ、と言い訳をしながらクリフは続けた。ちゃんと紹介も説明もしてくれないなら、本当にいつも通りにやるしかない。無粋で無神経で空気が読めない、相手の心を解す気の利いた冗談も言えない、いつものクリフのやり方で。

「人差し指のタッチが重かった――人工神経が摩耗している兆候です。伝達の鈍さがご自分でも分かるからでしょう、力が入ってしまっています。よく使う指だから顕著ですが、多分他の指や関節にも摩耗と影響はあるかと。早めの点検をお勧めします」

「貴方……？」

　ジャクリーンは絶句した。だってクリフがすらすらと述べた口上は、およそ人間らしくない。感情のない機械が読み上げたレポートのよう。恐らく、彼の正体を物語ってしまっているだろう。

「言い忘れていたが。こいつの本名――正式名称は、ＳＴＬ‐０１Ｃ。ステラ社製の、最新の技術とＡＩを搭載したアンドロイドだ」

　ここでやっとフィリップの説明が入る。できれば一番最初に済ませるべきことだったと思うけど。

「アンドロイド」

　ジャクリーンの目がクリフに突き刺さる。彼にとっては馴染みの、探るような視線だ。人工の肌の継ぎ目はどこか、自然に見える表情は造り物なのか。疑い、不審がる眼差し。

　人だと思って接していた相手が機械だったと知れば、大抵の人は不安に思う。ただでさえ彼の物言い、思い遣るようで型通りでしかない言葉は客を鼻白ませるのに。だから彼は今まで客の信頼を得ることができなかった。フィリップから人とのやり取りを学んだつもりでも、結局から回りするだけだった。きっと、ジャクリーンも彼の受け答えに気分を害しただろう。

「技術的には一人前なんだが、受け入れてくれる客がいなくてね。人間はなかなか機械を信じない。貴女もよく知っていると思うが、ジャッキー」

「私に――ジャクリーン・シャーウッドに採用されたのを箔付けにしようというのね」

　あくまでも軽く笑うフィリップに、ジャクリーンは呆れ顔で呟いた。その言葉に、クリフは目を見開いて意外を――正確を期すなら、彼にとっては計算外を――示した。だってこれでは――

「まるで採用してくれるみたいな言い方だ」

　フィリップの笑みは崩れず、けれど一方でジャクリーンの不機嫌な面持ちも変わらない。だから素直に喜んで良いものか、クリフには判断できなかった。いつもこれだ、人間の表情も感情も複雑すぎる。

「機械であることを理由に拒絶はできないわ。私にはね。それを見越すなんて……！」

　ジャクリーンの解説で、やっと少しだけ彼女の心理を把握する。機械の腕のために醜聞の的になった彼女は、アンドロイド相手でも同じことはできないということ、らしい。フィリップが相性が良いと言ったのもこういうことなのだろうか。――でも、本当に？

　何を言えば良いのか――クリフが迷う間に、ジャクリーンはふ、と口元を綻ばせた。右手が左腕に伸び、幾つかの操作を行う。

「お世話になるなら、私もちゃんと説明しなければね。クリフ――見て」

　上腕から見事に外れたジャクリーンの左腕と、その断面に見える精密な機械とコードに、今度こそクリフは言語機能を完全に放棄した。彼の記憶野に記憶されたジャクリーンの事故の映像――どの角度から再生してみても、彼女が喪ったのは右腕のはずだったのに。

「私とフィルの付き合いはあの事故のずっと前からよ。両手の使い方を教えてくれたのも、神経を馴染ませるためにピアノを習うよう勧めたのも彼。あの事故まで、特別言うことでもないと思っていたんだけど」

「あの、映像は――」

「あの時は、右腕の損傷が特に激しかったんだ。だから取り外した。その瞬間を撮られたからややこしくなったが」

　クリフは、厳密には感情を持たない。状況に応じてそれらしく振舞うように作られているというだけで。ただ、言葉を失った彼の顔は、さぞ間が抜けていたのだろう。フィリップとジャクリーンの悪戯っぽい微笑みは、まんまと彼を「驚かせた」ことへの喜びに溢れていた。アンドロイドの反応を楽しもうなんていう人間は、これまでフィリップ以外にいただろうか。

「ミズ・シャーウッド――では、貴女は、最初から――」

　何と言えば良いのだろう。彼女が元々両腕を持っていなかったというなら。彼女の音楽は最初から機械のものだった？　違う、そうではない。彼女の真実は、でも、それなら――

「ええ、私は最初から私よ。ずっと、ね」

　言葉にできず言い淀んだクリフの後を、ジャクリーンはあっさりと引き取った。機械と人間の差なのか、彼女には自明のことだからか――とにかく、彼女の笑顔はクリフの人工の目にさえ眩しかった。