第2話

「ごめん。入院してた父親が昼に亡くなって、舞台どころじゃなくなってしまったんだ」

 電話越しに謝る声は、平静を装っていたけれど、いつもと様子がちがった。たぶん、普通なら気づかない微妙なちがい。

「あたしのことはいいです。それより、星野さんは大丈夫なんですか?」

「なにが?」

「泣きそうな声してます」

 一瞬の沈黙のあと、苦笑いがもれた。

「まいったな。見抜かれちゃってるよ」

 好きですから。声にださず返事をする。

「今、どこにいるんですか?」

 聞くと、学校の近くにある喫茶店の名前をあげた。

「そこに行きますから、待っててください」

 通話を切ってから、あたしは財布だけを持って家を飛びだした。


 あたしになにかができるとは思っていなかったけど、実際に星野さんと会ってみて、想像していた以上に自分が無力なんだと痛感した。

 星野さんは見るからにやつれていた。テーブルの上にはパスタと珈琲が並んでいるものの、手をつけないまま放っておかれている。店内には星野さんの好きな遊佐未森が流れているのに、それも聴こえていないようだった。ときどき、目の前にあたしがいることも忘れているんじゃないかって思ってしまう。

「どんなお父さんだったんですか?」

 癌を患っていたお父さんが、この春から入院をしていたのだということは、さっき聞いた。

「……変なひと、かな」

 意外な返事だった。

「──でバイオリン弾いてたんだけど」

 と地元の人間なら誰でも知っている交響楽団の名前をあげ、

「普通の神経だと音楽なんかできないのかな、とにかく変なひとだったよ」

「好きでした?」

「大嫌いだった」

 あたしは黙ってしまった。こういうとき、なんていえばいいのだろう。「お父さんは天国で元気にしてますよ」とか「息子さんにこんなに想われて、お父さんはしあわせだったと思いますよ」とか、ありふれているけれど、はげましの言葉を用意していたのに無駄になってしまった。

「ごめんね。さっきからリアクションしにくいことばかりいってるよね」

「いえ、そんな、全然」

 あわてて首をふったら笑われた。あたしのバカ。逆に気遣われてどうするのさ。

「自分でもおどろいているんだ。まさかこんなにもショックを受けるなんて思ってもいなかった。前々から危ないって聞かされてたし、近いうちに亡くなることは分かってたのにね」

「それは、たぶん」

 やさしいから、といおうとして少しちがう気がした。

「それはたぶん、星野さんだから」

 星野さんは疲れたように微笑んだ。

「かもしれない。そういえば子供のころから感受性だけは強かったしね。感性なんて全然なのに」

 どんな子供だったんだろう、とあたしは考えてしまった。そのころ出会っていれば、あたしも年齢のことで悩んだりしないですんだのに。

「本人は認めたくないのに、こんなときは僕もあのひとの子供なんだって痛感して嫌になってくる……」

 なんとなく分かってしまった。

 星野さんは、お父さんが死んだことにショックを受けて、ショックを受けてしまったことにまたショックを受けて、自分の感受性の強さは大嫌いなお父さんからの遺伝のせいだと思ってしまって、思考の泥沼にはまっちゃっているんだ。

 胸が痛くなった。

 なんて、あたしは小さな存在なんだろう。なにか言葉をかけてあげたいのに、それが見つからない。手を差しのべたいのに、それができないなんて。

 あたしがいえるのは、せいぜいこのくらい。

「場所、変えましょう。気分転換したほうがいいですよ」


 夜の公園を歩いている。

 園内の中央にある池のまわりを、ゆっくりと。ひと気はなくて、すごく静かだった。聞えてくるのは風の音と、たまに鳥の羽音がするだけ。

 こういうシチュエーションを夢みていたけれど、できればもっとちがう形でこうなりたかった。神さまは意地悪だ。

「星野さん」

 ちょうど半周くらいしたところで、あたしは足を止めた。そこには池の真ん中にある小島へ続く橋がかかっている。小島は広場になっていて、休日になるとフリーマーケットや名前も知らないバンドのミニライブがあったりする。

 星野さんが立ち止まるのを待ってから、あたしはいった。

「オルフェウスって知ってますか?」

「竪琴の名人だね。ギリシア神話の」

 そして死んだ奥さんを冥府まで迎えにいったひと。

「星野さんもエウリディケみたいなひとっています?」

「いるよ」

「お父さん、じゃないですよね?」

「まさか。友達だよ。とても大切な」

 どんなひとなんだろう、と気になったけれど聞くのはよした。もしも女のひとだったら、きっと嫉妬してしまう。こんなときに醜い感情にしばられるのは嫌だった。

「本を読んだんです」

 オルフェウスの名前が浮かんだのは、その本の影響だった。星野さんに話そうと思っていた、『Bon Voyage!』。

「その本に幽霊の女の子がでてくるんです。真帆っていうんだけど、真帆は恋人がくるのを公園でずっと待っていて、でも記憶を失っちゃってるんです。自分のことも、恋人のことも。主人公──翔子っていうんですけど──彼女のおかげで記憶は戻って、恋人とも再会できて、天国に旅立つんですけれど……」

 途中で口をつぐんだ。伝えたいイメージはあるのに、上手く言葉にならなくて、すごくもどかしい。きれいな世界なのに、あたしがいうと陳腐に聞えてしまう。

「上手くいえないけど、オルフェウスは間違ってたと思うんです。気持ちは分かるんですけれど。でも、大切なのは死んだひとを迎えにいくことじゃなくて、そのひとのために現世でなにができるかってことだと思うんです」

 あたしはかぶりをふった。ダメだ。やっぱり上手くいえない。こんなことを伝えたいんじゃないのに。

「それ、僕の本だよ」

 星野さんは笑った。

 星野さんの本──。その意味を理解するのに、少し時間がかかってしまった。

「ええっ! だって下の名前がちがう!」

「ペンネームだよ」

 といって小島に向かってゆっくり歩きはじめた。あたしもそれに続く。

「あれはデビュー作なんだ。気に入ってくれた?」

「とても」

「よかった。なら正解だ。希美ちゃんと行くはずだった舞台、実はそれなんだ。もちろん脚色はしてあるはずだけどね」

 二重のおどろき。心臓が早鐘を打ちはじめた。星野さんが自信を持ってすすめるわけだ。

「見たかったな」

 あたしがいうと星野さんはまた笑った。

「見せたかったよ」


 この小島をイメージして『Bon Voyage!』を書いたんだという。

 あたしは広場の中心に立ってみた。申し訳程度に外灯があるだけで、景色を楽しむことはできないけれど、かわりに星空がきれいだった。星も、あの作品のキーワードのひとつ。

 空一面に埋めつくされた星々。南にはアンタレス。東にはヴェガ、デネブ、アルタイル。西にはスピカ、アルクトゥルス、デネボラ。レグルスはもう沈んじゃっている。

 目をつむると、いくつかの場面と、いくつもの感情があたしのなかにあふれてくる。星が降るなか、消えていく真帆。それを見送る翔子。あたたかくて、やさしくて、さびしくて、せつなくて。ああ、あたしは星野さんの作る世界が好きなんだなあ、と思う。でも──。

「ねえ、星野さん」

 目をあけて、ベンチに座っている星野さんにいった。

「少しは元気になりました?」

「元気かどうかは分からないけど、希美ちゃんといると気がまぎれるよ。ひとりでいると変なことばかり考えてしまうから」

 よかった。あたしでも少しは役に立っているんだ。

「あたし、星野さんが好きです。星野さんが好きな世界が好きです。星野さんが作った世界も好きなんだって、さっき知りました。ふたりで世界を共有するのが楽しかったです」

 突然の告白に星野さんはおどろいている──と思う。暗くて彼の表情が全然分からない。

「静かに笑う星野さんの顔が好きです。今日みたいに泣きそうな顔も好きです。そういう繊細なところから、『Bon Voyage!』が生まれたんだと思いますから。でも、泣いている顔よりも笑ってる顔のほうがずっと好きだから、早く元気になってください。お葬式が終わって、星野さんが元気になって、それで間に合うようだったら一緒に舞台を見に行きましょう。一日くらいなら、あたし、学校サボっちゃいますから」

 しばらく黙っていた星野さんは、やがてぽつりと、

「……困ったな。学校サボらせたら、なんだか僕がいけないことをしているみたいだ」

 聞いていて脱力してしまった。悲しくなった。一世一代の告白だったのに。あたしの気持ちなんてお構いなく、星野さんは続けた。

「でも、そうだね、ご褒美があると思うと早く立ち直れるかもしれない。約束するよ。一緒に舞台を見に行こう」

 ご褒美という言葉がくすぐったい。

「絶対ですよ」

「絶対」


 それから数日後。

 約束どおり舞台を見に行った。期待していた以上にいい舞台で、あたしは泣いた。となりで星野さんも泣いた。

 そのあと星野さんの知り合い──小日向さんといった──に会って、

「こちらは野々宮希美さん。僕の大切な友達」

 と紹介された。胸がうずいた。あたしは友達でしかないんだ。

 それでも救いだったのは、小日向さんから、星野さんがまだ独身で今は恋人もいないと聞けたこと。つまり、あたしにもまだ可能性はあるわけだ。

 もうひとつ、あたしを自己嫌悪させることも知ってしまった。

「星野さんの新作って、いつ読めるんですか?」

 無邪気を装って聞くと、困ったように微苦笑されてしまった。

「ごめんね。今は休業中なんだ」

「そう、なんだ」

 語尾は声にならなかった。

 星野さんのことが好きだといっておきながら、あたしは彼のことをほとんど知らないんだ。お父さんが癌だったことも知らなかった。きっと、それだけじゃない。あたしより長く生きているから、あたしが経験していないことも経験してるはず。つらいことも、悲しいことも。その逆も。

 たとえ恋人になれたとしても、あたしは星野さんの支えになれないにちがいない。そんな自信もない。当って砕けるよりも前に、この恋の結末は決まっていたんだ。

「そんなにがっかりしないで。できるだけ早く読めるようにするから」

 あたしはうなずいた。泣きたくなったけれど我慢した。

「楽しみにしてます」


 あたしの恋の話はこれで終わり。だから、ここからは余談になる。

 星野さんの新刊がでたのは、それからさらに月日がすぎて、次の年の春だった。夏休みに入ったころから、図書館にくる回数が減っていたので、たぶんそうなんだろうなと予感はしていた。

 発売日になって、電話で呼びだされて、手紙と一緒に手渡しされた。

「おもしろい?」

 意地悪して聞いてみる。

「まあまあ、かな」

 自信がないというよりは、たぶん照れているんだと思う。そんな口調だった。

 ゆっくりとページを開く。胸が痛くて、でも愛おしくて、不思議な気持ちになる。

 本を閉じて、星野さんの顔を見上げてみる。怪訝そうな表情。

「どうかした?」

「なんでもないですよ」

 嘘をついた。

「家に帰ってから、ゆっくり読ませていただきますね」

 真新しい本を胸に抱いて、あたしは笑った。

 ページのなかには、あたしの好きな世界が広がっているはず。それはたぶん、星野さんも好きな世界。

 何年かして、あたしが星野さんに手を差しのべられるくらいになったら、また告白しよう。

 それまでは、あたしの小さな世界を広げていこう。

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小さな世界 ひじりあや @hijiri-aya

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