小さな世界
ひじりあや
第1話
あたしの通う中学のとなりには図書館が建っている。
放課後、その図書館に行くのがあたしの日課。帰宅途中に寄り道をするのは校則で禁止されているんだけれど、図書館だけは黙認されている。読書は情操教育にいい、というのがその理由。仮に見つかっても、おとがめはなし。
図書館に着くなり、あたしはいつもの場所へ直行した。二階にある読書室。その窓際にある席に、そのひとはいる。
「今日もきたね、希美ちゃん」
あたしの気配を察したのか、そのひと──星野さんは読んでいた本から顔をあげて微笑んだ。
星野さんは、この図書館の主みたいなひと。といっても、司書というわけじゃなく、ここの利用者のひとり。本当の年齢は知らないけれど、あたしより十歳は年上なのに──あたしは十三歳──なぜか毎日のように図書館に出入りしている。学校に行っているわけでもなければ、仕事をしている様子もなく、なんとなく不思議なひと。
「なに読んでるんですか?」
聞くと、星野さんは本を閉じて表紙を見せてくれた。飯田雪子の『眠る記憶』。かわいいイラストが描かれている女の子向けの小説。大人の男のひとが読むジャンルとは思わないけど、もう慣れた。
「おもしろい?」
「けっこうね。希美ちゃんも好きだと思うよ、こういうの」
「ほんと?」
その言葉に、星野さんはにこりと笑ってうなずいた。なら、ぜひとも借りなくちゃ。そういってから、あたしはとなりの席に座った。知らず知らずのうちに頬がゆるんでしまう。
──一日のなかで、この時間が一番好きだなあ。
星野さんの笑う顔を見るたびに実感する。
星野さんと親しくなったきっかけは、あまりに普通すぎて話すのをためらってしまう。
それよりも大切なのは親しくなってからのこと。あたしたちは本の好みが、とてもよく似ていた。
いつだったか、こんな会話をしたことがある。そのとき星野さんが読んでいたのは安房直子の童話。
「あたしも安房直子は好きだなあ。アリスもミヒャエル・エンデも好きだけど、安房直子は特別って感じがする。本のなかに吸いこまれそうっていうか」
変なことをいっちゃったかな、笑われたらどうしよう。そんな不安もよぎったけれど、星野さんはあっさり同意してくれた。
「それ、分かるよ。僕もそう感じたことあるし」
「星野さんもっ?」
思わず声が大きくなってしまった。「吸いこまれる」という感覚を分かってくれたのは、星野さんがはじめてだった。クラスにも本が好きな友だちが何人かいるけれど、そのことを話すと、必ず笑われる。夢と現実がごちゃまぜになってるって。
「何冊かそういう本に出会ったことあるよ。たぶん、相性もあるんだろうね。感性の方向が一緒っていえばいいのかな、その本とそっくり同調してしまうことってあるよ。まあ、本だけとは限らないけど」
うれしさのあまりはしゃいでしまって、このあと自分がなにをいったかは、ちょっと覚えていない。『きつねの窓』や『南の島の魔法の話』がどうとかといった気もするし、全然ちがうことをいったような気もする。
この日を境に、あたしは星野さんから本をすすめてもらうようになった。上橋菜穂子、梨木香歩、荻原規子。あたしも大好きな本からはじまって、北村薫、加納朋子、米澤穂信、名前は知っているけれどそれまで手をださなかったミステリーも読んだ。インターネットでだけ公開(販売)されている作品を、わざわざプリントアウトしてもらったこともある。名前すら知らなかった作家の本もたくさん読んだ。読書中、何回も泣いた。たまに本に吸いこまれそうにもなった。
そうやって星野さんと世界を共有するたびに、あたしの気持ちは彼に傾いていった。いつのまにか好きになっていた。
学校では今、あたしが年上の男性とつきあっている、という噂が流れている。
彼氏のいる中学生なんて珍しくもないけれど、相手が大人だとちがうみたい。話に尾ひれがついた。どこどこのホテルから出てきたとか、実はもう同棲しているとか、星野さんには奥さんも子供もいるだとか。
噂は噂でしかなく、実際に星野さんとつきあっているわけじゃない。ただの片想い。でも、噂にはあたしの希望もちょっと入っているので、それを否定したりはしなかった。もちろん、肯定もしなかったけれど。
けど、ひとつ気になってしまうのは、奥さんも子供もいるという噂。
星野さんは自分のことをあまり喋らなくて、あたしがさり気なく聞いても、いつも誤魔化されてしまう。結婚していてもおかしくはないし、独身だとしても恋人はいるかもしれない。いたら嫌だなあ。絶対勝ち目がないもの。
「……希美ちゃん?」
その声でわれに返った。怪訝そうに星野さんが、あたしの顔をのぞきこんでいる。
「話、聞いてた?」
「ごめんなさい。あたし、ぼうっとしてた。なんの話でしたっけ?」
しょうがないなあ、と星野さんはあきれたように笑った。
「今度の週末はなにか予定ある? って聞いたんだけど」
「なんにもないですよ。もしかしてデートのお誘いですか?」
土曜も日曜も予定はなかったし、あったとしてもキャンセルする。
「かな。知り合いの舞台があるんだけど、よかったら一緒にどうかなと思って。東京なんだけど」
「東京かあ」
即答するのを躊躇してしまった。星野さんと出かけるのはうれしいけど、気軽に行って帰れる距離じゃなかった。
「もちろん費用は僕が負担するよ。帰りに神保町に行くのはどうかな。あそこは本がたくさんあるし」
無邪気な星野さんを見て、少し悲しくなった。
「一応あたし女の子ですし、帰りが遅くなったり外泊したりってのは、ちょっと……」
噂のこともあるし、ということは黙っておいた。
あたしの返事に星野さんはきょとんとし、一拍置いてから、
「そっか。そうだよね。ごめん、うっかりしてた」
星野さんは本当に残念そうだった。その表情がなんだかおかしくて、かわいくて、あたしは吹きだしそうになってしまった。ここが図書館じゃなかったら、たぶん笑ってた。
「でも、残念だな。何年か前もその公演はやったんだけど、とてもいい舞台なんだ。希美ちゃんもきっと気に入ったと思うのに」
「ほんと?」
「絶対に」
心が揺らいだ。今まで星野さんが「絶対に」といってすすめたものにハズレはなかった。どんな舞台なんだろう。気になってしまう。しかも、好きなひとと一緒。ダメだ。誘惑に勝てそうにない。
「……善処します」
星野さんは子供のように笑った。あたしって、この顔に弱いなあ。
いくら本の虫といっても、あたしは女の子なんだなあ、と自分でもおどろいていた。
気がつけば、頭の中はいつも東京行きのことばかり。どんな服を着ていこう。いつも制服でしか会っていないから、ここぞとばかりにめいっぱい着飾っておどろかせてやろう。あ、でも星野さんって、派手なのはそんなに好きじゃないかも。というか、あたしもそんなに持ってないし。
そんなことばかり考えていた。
当日になるまで、いくつか事件が起きた。
ひとつは生まれてはじめて告白されたこと。相手はふたつ年上の去年図書委員会で一緒だった谷原先輩。高校生になった今も図書館で見かけるひと。
校門で呼びとめられて、他愛ない会話をして、それがすごくぎこちなくて、なんとなくそうなのかなあと思いはじめたそのとき、
「野々宮さんがよかったらさ、つきあってくれないかな。ぼくの彼女になって、ほしいんだ」
谷原先輩の顔は真っ赤だった。
どう返事するかは決まっていた。でも、少しだけあたしは戸惑った。なんであたしなんか好きなんだろう、と思ってしまう。正直いって、あたしは地味。顔もそんなにかわいくない。
「ごめんなさい。あたし、好きなひとがいますから」
「……うん。知ってる」
ぽつり、と一言。それから急に谷原さんの口調が変わった。無理に明るくふるまうような、そんな感じの声。
「図書館のあのひとだろ? 前からそうじゃないかなって思ってたんだ。でも、気持ちに整理つけたいし、ダメもとで告白したんだけど、やっぱりダメだったか」
「ごめんなさい。でも、気持ちはうれしかったです」
谷原先輩はなにかをいいかけて、口をつぐんだ。「じゃあ、またね」と手をふって、あたしたちは別れた。
ふたつめは古本屋で一冊の本を見つけたこと。星野巡一郎というひとの『Bon Voyage!』。手に取った瞬間──正確には作者の名前を見た瞬間──に予感はしたのだけれど、読んでみて、あたしはその本に恋をした。
雰囲気は、どことなく安房直子の『鳥』に似ている。主人公の翔子と、記憶喪失の幽霊の真帆の交流が描かれた現代ファンタジー。
ふたりの少女に感情移入して、読みながらあたしは泣いた。それと同時に、星野さんもこういうの好きだろうなあ、と思ったりもした。あした、図書館でこの本のことを話そう。そう心に決めた。
なのに星野さんは図書館にいなかった。それが、みっつめの事件。
約束をしているわけじゃないので、星野さんがいつも図書館にいるとは限らないんだけど、あまりに唐突だったので少し不安になってしまった。なにかあったのかな、と嫌な想像も浮かんでしまう。それから閉館までねばったものの、結局星野さんはこなかった。
その夜、星野さんから電話がかかってきて東京行きは中止になった。
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