〇〇さけおとこ

笹野にゃん吉

〇〇さけおとこ

 炎からは煙が立ちのぼるもので、空も赫々かくかくと燃えはじめれば、黒煙のごとく地上に伸びた影を大きくさせていく。三人の少年の背後に伸びた影もまた長く大きく、彼らがふみ出すたび、笑いに肩を震わせるたびに、意思をもったように揺曳ようえいした。


「そういえばさ、二組の奴がケガして学校休んだらしいやん」


 学校からの帰り道。

 ふいにそう切りだしたのは、噂話や怪談に目がない沖井おきいだった。まだ話のさわりに触れてもいないのに、眼鏡の奥の狐目をいっそう細めてほくそ笑んだ。


「あー、名前思い出せんけど、なんか地味な奴やろ?」


 一方、家礼多けれたの反応は冷たい。ぼりぼりと眉を掻いていかにも興味がなさそうだった。


 その隣をとぼとぼと歩く辻居つじいも、また始まったと思わずにはいられない。沖井は、なんでもかんでも怪談話や都市伝説に結びつけたがる悪癖があるのだ。


 とはいえ、いつも同じ三人組。

 話題などとうに出尽くしていて、結局は沖井の話に付き合ってやるしかない。


「そうそう、あいつなんでケガしたか知ってる?」

「知らん。なんで?」

「追っかけられたんやって」

「追っかけられた?」


 辻居はオウム返しにたずねた。どうせくだらない事だろうと判ってはいるけれど、回りくどく主語を省略されると、なんとなく聞いておかなければいけない気になってくる。


 沖井にとっては、そのやり取りが理想的だったらしい。ニタニタ笑って、柵をカンカン撫でながら十も歩くと、ようやく答えた。


「口裂け女だよ」

「はぁ?」


 これには温厚な辻居も顔をしかめずにはいられなかった。予想以上のバカバカしい答えに辟易する。今まで沖井の想像力だけは買ってきたつもりだったが、ついにそれまで切らしてしまったらしい。あまりにくだらなくて逆に笑えてきた。


「あのさぁ……。口裂け女って、あの口裂け女やろ? 武井壮とかウサイン・ボルトより速い奴。ターボばあちゃんみたいな。今更、そんなん流行らんて」

「いや、ターボばあちゃんは全然違くない? あれはトンネルで驚かせてくる奴やん。めっちゃ速いんは違いないけど」

「あ、そうやっけ? 襲ってきたりせんの?」

「よう知らんけど、ないんやない? 俺は聞いたことないわ」

「へぇ」


 家礼多からの指摘があって、すっかり話題がすり替わる。

 もちろん沖井は気に入らないようで「それがさ!」と、二人の会話を大声で遮った。


「ちょっと前に通り魔事件あったやん? あん時にマスクつけた女が目撃されたんやって。それもマスクの横のほう、頬のあたりまで、真っ赤な傷痕みたいなのが引かれてたって」


 一月ほど前に、この辺りで通り魔事件があった。被害者は大事にこそ至らなかったものの、犯人は未だ捕まっていない。


「それで? 二組の奴を襲ったのも、マスク女なん?」


 家礼多の口調は嗤笑ししょうめいていた。

 すると沖井が口をへの字にして「そうだよ!」とそっぽを向いてしまう。


 こういう時、二人を宥めるのが三人目の役目なのだろうけれど、辻居は面倒で道端の石を蹴った。二人のケンカはいつもの事だ。元々そんなにそりの合う二人じゃない。そのくせ明日になれば、二人ともケロっとして漫画の話でも始めるのだろうし、仲裁なんてするだけ無駄だった。


 コン、と石ころが電柱にあたって足許へはね返ってきた時だった。

 沖井と家礼多の二人が「そんじゃ」と手をあげ、角を曲がっていくところだった。


 気付けば、二人と別れる交差点まで来ていた。一拍おくれて「そんじゃ」と手を振った辻居は、友達って面倒だと思いながらも、いざ別れの時が来ると、胸の奥が索漠さくばくとするのを抑えようがなかった。


 それだけならよかったが。


 独りになった途端、電柱も建物も、過ぎる鳥の影さえも、太くながく伸びて気味悪く感じられた。空は黄昏の色に濃く、燃え尽きて灰になっていく。通いなれた道のはずなのに、影がすっぽりと自分を覆って、より暗いどこかへと呑みこんでいくような気がする。


 辻居は足を速める。影は伸びる。いつまでも追いかけてくる。

 通行人の一人もいない。まるで、二人と別れてから、世界に自分以外の人間が存在しなくなってしまったような錯覚に陥る。


 辻居はさらに足を速める。

 道をはさんだ住宅の柵や塀が高くなっていく。大きな怪物に見下ろされているような気がする。影はいつまでも追いかけてくる。


「ハァ……! ハァ……!」


 いつの間にか辻居は駆けだしている。それでも影は追いかけてくる。ひき離せない。足を速める。ひき離せない――!


「わっ!」


 その時、道の角から女性が現れ、危うくぶつかりかけた。急制動をかけた所為で尻から崩れ落ちたものの、衝突は避けられた。


「あ、ご、ごめんなさ――ッ!」


 辻居は女性に謝罪しようとして、ふいに息を止めた。

 黄昏を負い、こちらを見下ろすその顔の半分が、白いものに隠されていたからだ。


 マスク。


 辻居は反射的に、その下に隠されたものを想像した。真っ赤な紅に彩られた、裂けた口――。


「ボウヤ、大丈夫?」


 女性はそう言って手を差し伸べたが、辻居は恐ろしさのあまり転がるように逃げだした。


 口裂け女なんて信じていなかった。使い古されたくだらない都市伝説だと一笑に付したはずだった。


 それなのに、マスクをつけた女性を見ただけでこの始末だ。違うと解っていても、もしもを想像せずにはいられない。例の俊足で、追いかけてきているかもしれない。ふり返ったら、もう、すぐ目の前に迫っているかもしれない――!


「ハァ……! ハァ……!」


 辻居は死に物狂いで駆ける。もはや帰り道を辿っているのかも知れない。ただあの女から逃げなければ、この恐怖をふり払わなければ、と走り続ける。


「ハァ、ハァ……! ゲホッ、ゲホッ!」


 やがて、カラスの鳴き声も空の淵に融ける頃。

 ようやく辻居は足をとめ、振り返った。

 

「……おらん。なんも、おらん……」


 影はより長く大きくなっていたけれど。背後に立つ女の姿はなかった。

 気付けば、近所の公園にまで来ていた。家はもうそう遠くない。


 助かった。

 安堵がこみあげてきた。


 辻居は公園の水道で喉を潤して、普段はサビっぽいにおいのする水を、初めてうまいと感じた。水が涸れてしまうのではと思うほど飲んだ。


 たっぷり水分補給をして、平静を取り戻すと、とたんに尿意がこみあげてきた。家まではもう五分とかからないものの、とても我慢できそうにない。この公園のトイレは汚く臭いので、あまり乗り気ではなかったけれど漏らすよりはいい。立小便もちんちんが腫れると再三親に脅されているから、真偽はともかくする気は起こらなかった。


 雨風にさらされ、様々な汚れの付着した黒ずんだトイレへ、辻居は駆けこんでいく。近くに行っただけで、つんとアンモニア臭が鼻をついた。


 やっぱりくせぇ……。


 とは思いつつも、短い間だ。我慢できないもののために、我慢するしかない。

 そう自分に言い聞かせながら、トイレに入った辻居は、驚きのあまり足をとめた。


「……っ」


 二つしかない小便器。

 その一方に、


「ふぅ……」


 先客がいたからだ。


 なんやこいつ……。


 それも、明らかにまともな男ではなかった。

 髪はオールバックに撫でつけられ、目許には銀縁の眼鏡。痩身にフィットしたスーツは、厭味ったらしくテロテロと光っている。一見すれば、ただの気障男だ。


 だが異様なのは、スラックスを全部下ろして用を足していることだった。

 おまけに、太腿に下がった下着は、いまどき辻居たち小学生でも穿かないブリーフだ。


 同級生にこんな奴がいれば、真っ先に笑いものにされる。しかし大人がやっているとなれば話はべつだ。笑いなど湧いてこない。こみ上げるのは恐怖だった。


「ンッン……」


 驚愕と恐怖のあまり立ち尽くしていると、男がブリーフをあげてこちらを見た。

 目が合った途端、膝が笑いだした。

 眼鏡の奥の双眸には光がなかった。一切の光がなかった。スーパーマーケットの生鮮コーナーに横たわる魚たちのような虚ろな眼だった。


「ねぇ、きみ」


 ふいに男が呼びかけてきた。辻居は、この男に関わってはいけないと思った。にもかかわらず、全身が棒を呑んだように固まって動かない。膝だけが笑い続けている。


 そんな少年を前に、男がなぜかおもむろに背を向けた。下げたスラックスはそのまま。


 意味が解らなかった。

 こいつなにしようと?

 疑問が沸々と湧きたっては弾ける。恐怖は割れずに膨れあがっていく。


 その間に男が、おもむろに、上げたはずのブリーフを下ろし始めた。


「え……?」


 ようやくしぼり出せた声は、それだけだった。

 辻居はわけも分からずくずおれた。尿意はもう感じなくなっていた。股の間で黒いシミが拡がっていった。


「あ、ああ……っ!」


 そして辻居は、見てしまった。

 男のブリーフの、その白い下着のしたから現れた白皙はくせきの臀部を。

 その間から覗いた見るも無残な紅の、


「ねぇ……」


 切れ痔の痕を。


「うあ、うあああっ……!」


 間違いない。

 痛々しい傷痕を前に、辻居は確信した。


 こいつは、


「ぼくのおしりきれい……?」


 けつさけおとこだ。

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