その後のことはケンジには悪夢でしかない。どのように弁解しても聞き入れてもらえないばかりか、ひたすらイヤミの気が済むまで罵声を浴びせられつづけた。


「これはおたくの会社に連絡しておくからね。覚悟しておくことだね」


 そんな捨て台詞をはいて、ようやくイヤミは去った。

 このバイトも最悪、クビかもしれないな、ケンジは思った。


「だけど、俺は正しいと思ったことをしたんだ」


 口に出して、落ち込みそうな自分を励ます。そうでもしないと、へこんで立ち直れそうになかった。

 その後は特に何事もなく過ぎ、ようやく日も傾きかけたころ。


「モデルルームはこっちでいいのかい?」


 途中、車から品のよさそうな中年夫婦に声をかけられ、「はい約1キロ先です」と応えた。

 それから腕時計を確認する。あと1時間もすればバイト終了の時間だ。

 今日はいろんなことがあった。否、ありすぎた。

 考える時間がいっぱいある、ということは落ち込み放題ということだ。あと1時間後、自分の運命がどうなっているか、想像もしたくなかった。


「おい、おまえ、どういうことだ」


 ケンジが思考の迷宮にはまり込んでいる時だった。驚いてふりかえると、さっき声をかけられた中年夫婦だった。

 声をかけられてからどれだけ経過したのかよく分からないが、とにかくケンジは混乱していた。

 先程とはうってかわって中年夫婦が、やたら攻撃的な態度だったからだ。


「俺になにか用ですか?」


「そうだよ、俺たちがモデルルームに行ったら、誰もいないじゃないか!」


「誰もいない?」


「バカにして、売る気がないなら看板なんて出すな」


 憤然としてその夫婦は去っていった。

 だが、いぶかしく思ったケンジは、自分のバイト派遣会社に電話を入れた。


「―――もしもし、大庭ですが」


「ああ、大庭くん・・・今回は、大変だったね」


「それより、お願いがあるんですが」


「なにかな?」


「このモデルルーム会社の上司の連絡先・・・イヤミ・・・いえ、その方よりさらに上の人の連絡先を教えて欲しいのですが・・・」


 十八時、バイト終了時間になり、ケンジはモデルルームの入り口にある事務所に入った。

 そこには誰もいなかった。

 ふいに「やあ」と声をかけられ、ふりむくと、イヤミの姿があった。


「今日は客がさっぱりこなかったな。君がサボったせいじゃないの」


「いえ、サボったのはあなたのほうですよ」


 ケンジは平然と応じた。


「な、なにを言い出すかと思えば、逆ギレかね」


「さっき、中年夫婦がそちらに向かったはずですが、逢わなかったですか?」


「・・・・・・」


「どこかへ出かけていたんじゃないですか?」


「私は見回りの担当でもあるんだ。そういうこともある」


「いや、そういうことはない!!」


 新たな登場人物が現れた。彼の顔を見て、たちまちイヤミの顔が青くなる。


「ぶ、部長、どうしてこちらへ?」


「そこのバイト君が連絡をくれたんだよ。向かった客が誰も居ないといって怒って帰ったとね。今日は受付嬢が有給を取って人手不足だから、見回りはしなくていいと言わなかったかな?」


「そ、それは、その・・・・」


「具体的な理由を説明してもらおうか」


 すっかりイヤミは押し黙ってしまった。

 どうやら彼は、見回りという立場を利用して、日ごろからちょこちょこサボっていたのだ。

 いつもは受付や他の人が代理をしてくれていたのだが、今日のように人の少ないときに同様のふるまいをしたのが命取りだった。


「じゃ、これ」


 ケンジは温和な笑みをたたえつつ、看板を差し出した。

 不審そうな顔をしてイヤミが受け取ると、部長はこう言った。


「おめでとう、明日から君が看板持ちだ」



 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 ―――それから一年後。

 ケンジは相変わらずバイトを続けていたが、彼の柔軟な対応力は評価され、バイトのリーダー的ポジションを任されるようになっていた。

 時給も上がり、仕事もヒラの頃より忙しくなった。

 今日も早朝から現場入りなので、あわてて玄関で沓紐を結んでいると、ごとんと音がした。

 郵便受けに一枚の絵葉書が入っていた。


『私たち、結婚しました』


 その明朝体の大文字と共に、ピースサインをした二人が映っていた。

 仲裁に入った甲斐があったというものだ。

 にっとケンジは満足そうに笑みを浮かべると、仕事先へ向かった。






 ――――了。

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とある看板もちの一日 チャンスに賭けろ @kouchuu

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