星流夜
夏村響
第1話
最悪のタイミングとはこういうことを言うのだと、二十何年間生きてきた中で初めて知った。
付き合い始めて一年。
初めて彼と過ごすクリスマスだった。
普段は軽く済ませるお化粧も念入りに、この日のために新調したワンピースとパンプスを履いて、待ち合わせの時間に遅れないように、早めに家を出て駅のホームに立っていた。
やがてやって来た電車に乗ろうと、ひと足踏み出したところで、バックの中のスマホが鳴った。
まだ時間には余裕がある。
ひとまずホームに下がってスマホを確認すると、彼からのメールだった。
彼も待ちきれないのかな、なんて、にやける顔で画面を開くと、そこには愛想のない文字が並んでいた。
『ごめん。仕事が詰まっていて行けそうもない。今日の約束はキャンセルさせて。必ず埋め合わせはするから』
は?
私は唖然として、何度もその短い文面に目を這わす。
約束をキャンセルって、何?
今日はクリスマスだよ?
キャンセルするにしても、何でこのタイミング?
今、まさに電車に乗ってあなたのところに行こうとしていた、この瞬間にこのメールはあまりにひどい。
辺りを見回すと、今まで気が付かなかった賑わいが目に入る。
楽しそうな家族連れ。
幸せそうなカップル。
耳を澄ませば、どこからかクリスマスソングも聞こえてくる。
世界はこんなに楽しそうなのに。
自分ひとりが取り残されているようでひどく悲しくなった。
さっきまで浮かれていた自分が道化にすら思える。
ふらふらとベンチに座って、しばらくじっとしていると、厚手のコートをものともせず寒気が身体の中に侵入してきた。
寒さに震えながら、のろのろと空に向けて顔を上げるといつの間にか真っ黒に沈んでる。
あ、もうこんな時間か。
気が付くとあれほど賑やかだったホームには乗客の姿はなく、制服姿の駅員さんと私のふたりきりになっていた。何となく焦った私は、急いでベンチから立ち上がる。
「すぐに次の電車がきますよ」
明るい声で、親切に駅員さんが教えてくれた。けれど、もう帰るのだ。電車に乗る必要はなくなった。
曖昧に笑って、ホームを歩き出そうとした時、すっと光が走って、暗い線路に電車が滑るように入ってきた。
私が驚いたのは、その電車が他の電車と比べて走る音が静かだったことではない。
その先頭車両の、言わば電車の顔の部分に付いている白いパネルに、流れるような文字で『星流夜』と書かれていたからだ。
この電車の……名前?
せいりゅうや、かな?
通勤でこの駅を長らく使っているが、こんな名前の付いた電車を見たのは初めてだ。もしかして、クリスマスだから?
首を捻ってあれこれ考えていると、駅員さんが開いたドアの前に立ち、やはり明るい声で言った。
「どうぞお乗りください。すぐの発車となります」
「あ、いえ。帰るので……」
言いかけたけれど、後の言葉を呑みこんだ。
どうせ、帰ってもひとりだ。
だったら、ちょっとだけ、このクリスマス仕様の電車に乗って、クリスマス気分を味わってみるのもいいかもしれない……。
私は駅員さんに軽く会釈すると、その電車に乗り込んだ。
電車の中はがらんとしていて、薄暗かった。
二人掛けのシートが向い合せに並んでいて、ちょっとした特別感がある。暖房も効いていて、私はコートを脱いで窓際のシートに座った。
しばらく何も考えずに夜の景色を眺めているとふと、気が付いた。電車の走る速度が遅いようなのだ。
ゆっくりゆっくり走るその電車から見る夜空は、随分近い。星の形や色まで妙にはっきりと見える。それらが電車の速度に合わせて、ゆっくりゆっくり後ろへと流れていった。
最初は妙な気持ちになったけれど、そんな夜の景色も悪くないと思えた。
そっか。私の歩く速度が速すぎたんだ。
だから、空の星すら見えてなかった。
空から目線を降ろすと、ビル群が見える。どの窓からも煌々と光が漏れていた。
あいつもこの光の中で働いているのかな。
もっとよく見ようと、窓におでこがくっつくくらいに寄ると、ひとつのビルから出てきた人影が見えた。その人は手に何か赤いものを持って必死に夜道を走っている。
ここからでも、その人がその赤いものを大切そうに腕に抱いているのが判った。
あっと、思わず声が出た。
『次は○○駅。○○駅に止まります……』
車内アナウンスに私は慌ただしく、席を立つ。
電車から降りると、制服を着た駅員さんが明るい声で私に言った。
「すぐに次の電車がきますよ」
「はい。でも私、帰ります。反対側のホームに行くので……」
走りかけたが、ふと思い立って後ろを振り向いた。
「あの……」
「はい」
駅員さんは優しく私を見た。
「なんでしょうか?」
「これって……何と読むのですか?」
私が電車のパネルを指さして言うと、駅員さんはきっぱりと言った。
「せいりゅうや」
「あ、やっぱり」
「いや、せいりゅうよ」
「は?」
「いや、ほしながれるよる、というのもいいかな」
「え?」
ぽかんとする私に、彼は最後に満面の笑顔で言った。
「やっぱり、メリークリスマス、だな」
「ああ」
私も笑顔で返す。
「メリークリスマス!」
自分の住むマンションまで走って帰った。
思わず足を止めたのは、部屋のドアの前に、困った顔でインターフォンを押し続けるあいつがいたからだ。
「おーい、怒ってないで出てきてくれよ。な? 謝るから。お前の好きな薔薇の花束が枯れちゃうよ」
思わず、吹き出してしまう。
彼は私が怒って、居留守を使っていると思い込んでいるのだ。
彼の必死の形相とこの寒いのに薄っすらと汗がにじんだ額、それから腕に抱えている真っ赤な薔薇の花束を順番に見て、私は笑顔で彼の背中に飛びついた。
「メリークリスマス! 遅刻だよ!」
驚いて振り返った彼の顔も、見る見る笑顔になった。
おわり
星流夜 夏村響 @nh3987y6
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