6
「落ち着いた? 手首、切っちゃったんだね」
雨があがったばかりでまだ黒い雲に覆われた空からくすんだ朝日が差し込む。
目覚めたメルが声を掛けると、傍でうとうとしていたカユラも目を開けた。
「うん。そっちは?」
「久しぶりで変な感じだけど、大丈夫」
「よかった。……あのさ」
「ん?」
大声で思うままに喚き散らしたカユラはまだどこか高揚していて、ぽつりぽつりと語りだした。
「約束、破らせちゃってごめん」
「え? ああ。私こそ破ってごめんね」
「違うよ。僕がもっと強かったら、君があんなことになる前に助けられたんだ」
「そんなこと。うふふ、ありがとう。でも大丈夫。男の子だから強くなきゃとか、そんなの求めてないよ、私。あ、もしかしてそれで手首?」
「……うん」
「ばか。逆に心配しちゃうよ。カユラは死んじゃうんだからね。もうダメだよ?」
「……うん。ありがと」
メルがカユラの傷付いた手首に両手を添えてゆっくりと持ち上げ、愛しげに優しく口づけをした。
カユラは少し驚いた様子だったが、すぐに照れ臭そうにはにかんだ。
「僕、絵が好きなんだ」
照れ臭いついでなのか、まだ高揚した気持ちの名残か、カユラが本音を漏らす。
「うん、そうね」
「だけど今は趣味や娯楽の絵は禁じられてるだろ。だから内緒で写実絵をこうして描いてる」
「カユラの絵、本物みたいだものね」
「でも写実絵は時間がかかるから、きっと今しか描けない。仕事をするようになったり徴兵されたりしたら、描けても毎日少しずつだけだ。そんなの、辛い」
「……」
メルは静かに聞いていた。
「なれるものなら国家絵師になりたいんだ。だけどうちは絵師学校に行けるような金なんかないから、このご時世に絵を描きたいなんて育ての親を困らせるだけだし」
「ふうん」
「思ってることを言うくらいって、前にメルが言ってたけど、こんなの言うだけ無駄なんだよね」
苦く笑って夢を誤魔化すカユラに、姿勢を正して向き直ったメルがすう、と息を吐いて、また、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「ねえ、国土記録絵師とかで離島を選択するって条件でタダで行ける学校がいくつもあるの、知らない?」
「え? タダなの?」
カユラは耳を疑った。国家絵師はこの国のあらゆるものを全て記録に残すための国家重要職だ。学び舎の門を叩くには相応の財力が必要なはずで、それがタダとは、にわかには信じがたい発言だった。
「そうよ。離島の詳細を記録する絵師はなりてがいないのよ。だからタダ」
「場所なんかどこだっていいよ! それに僕は人が少ない場所のほうが好きだ」
「ふふ。そうよね。それか軍属絵師なら学費タダどころか給金も出るわよ。すごーく狭き門らしいけどね」
目に輝きを宿らせるカユラにメルは少し茶化すように付け加えた。
「そんなの、全然知らなかった。メル、物知りだ」
「見た目より長く生きてるもの。望みってね、言ったからって即、叶うわけじゃない。でも有益な情報や道標が得られることなら結構あると思う」
メルが、続けた。
「……私ね、今まではずっとこの体を忌々しいと思ってた。でもカユラの絵のおかげで傷つけなければ歳をとれるって知ることができた。それに自分とカユラを守るために使えた。生きるために死んだの、あれが初めてよ。カユラは絵を描くべきだわ」
そう言って、メルがからりと笑った。その屈託のない笑顔をカユラはいつまでも見ていたいと思った。
「今度こそ約束して、メル。もう死なないって」
「うん。約束する。だからカユラも、ね?」
「うん。わかったよ。ねえ、死ぬまで君の絵を描いてもいいかな」
「喜んで」
メルは目を細めて左腕をカユラの前に差し出す。カユラは真剣な表情でその上に自分の腕を重ね、右手でメルの右手をそっと包んだ。
黒い雲の隙間から届いた陽光が建物の中に差し込んで、ほんの束の間、無彩色の壁と二人を虹で彩っていた。
END
しにたい君×いきたくない僕 寿すばる @kotobukisubaru
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