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「っつ。ふうー」
錆びついた構造柱が所々剥き出しになっているひび割れた壁に寄りかかり、カユラは自身の細い手首に鉛筆削りの刃を滑らせた。
白いキャンバスの上で一筋の赤は次第にポツリポツリと点をつくり、それはやがてぷっくりと膨れ上がってくる。
その膨らみの表面が堪えきれずに崩れるようにして今度は腕を伝い肘に向かってゆっくりと流れてゆく。
その様子を、カユラは蜻蛉の羽化を見守るかのように息を止めて見ていた。
「なにやってるんだろ僕は。死ぬ気もないくせに」
流れる命の色彩が無彩色の床にポタリと落ちて赤い花を咲かせる。ひとつ、またひとつ。カユラはそれをひとしきり見届けてふうと深く息を吸い込んだ。
カユラにとって、この廃墟で時々こうして自身を傷付けるのが唯一の生きている証だった。
ガラスのない窓から差し込む薄曇りの西日が向かい合う建物の向こうに落ちて、辺りがさらに暗くなり始める。闇が来る。
「さあ、止血して帰らなきゃ」
「…………」
「え?」
「………はぁっ……はぁっ……」
それはまるで神話の竪琴が歌うような、微かな陽光に煌めく水しぶきのような高く澄んだ声だった。
カユラが止血することも忘れて声のするほうへと足を進めると、近づくにつれそれは誰かが呻いている声だと気がついた。
この辺りはどこも廃墟だらけで、よくないことをするのに打ってつけだった。不良が溜まり場にしていたり、カユラのように独り遊びに興じる者も少なくない。
「このビルは誰もいないと思ってたのにな……」
残念そうにカユラが手首の傷に目をやると、手のひらが乾きかけた血で赤茶色に汚れていた。
「はあ。血って結構簡単に止まるんだよな」
溜息と同時にカラカラと金属が床を擦る音が耳に届いた、その刹那。
「ふうっ! っく……うぅ!」
「え? ちょっと、え!?」
顔を上げたカユラの視界に飛び込んできたのは、薄暗くてもわかるほどに白い輝きを放つ長い銀色の髪を垂らして床に座っている少女の姿だった。
あり得ないことに鉄パイプを腹に刺し、いまにも血の海に沈みそうで、カユラは慌ててその少女の元に駆け寄った。
「ねえ! 君いま何したの!? まさか、自分でその鉄パイプ……」
「……い、の。……丈夫……」
「ちょっと! ねえってば! 死んじゃダメだ!」
カユラは自分の衣服が血まみれになるのにも気にせず少女を膝に抱き上げ、青白い少女の肩を揺らした。
「嘘だろ。なあ、ちょっと」
カユラの腕の中で少女の苦しそうに眉を寄せた表情は徐々に緩み、そして肩の力が抜けると手足はだらりと垂れ下がった。
「あ……」
カユラは、ただその赤いじゅうたんが敷き詰められていく様を眺めていた。人が死ぬのを見たのは初めてではない。長い紛争のさなかに生まれたカユラにとって、死はそれほど珍しいものではなかった。しかし、少女が目の前でこんな死に方をしたとなれば、話は変わってくる。
茫然とするカユラの膝で少女は次第に冷たくなり、関節が硬くなり始める。こうしていても死者が息を吹き返すはずもないと諦めたようにカユラは少女の体を静かに寝かせた。
「もう真っ暗だ。今日は帰れないな……あしたレンさんになんて言おう」
すっかり闇に飲み込まれた窓の外は厚い雲に覆われて月の光さえも届かない。ここにいるのは自分一人と死んだ少女だけ。その孤独な静寂がカユラにはかえって心地よかった。
横たわる少女に目を向け、カユラはカバンから画用紙と色鉛筆を取り出す。
カユラは暗闇に慣れた目で少女を画用紙に映しはじめた。赤い血の海を塗りつぶすために鉛筆を何度か削って、少し指を切った。
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