夕暮れの粘土と藍色
結城七
夕暮れの粘土と藍色
忘れてしまった。当たり前の様にそう思った。
ついさっきまで見ていたはずの何かは、頭の中にほんの少しだって残っていない。境目の点線をハサミでばつんと切り分けたように、断絶してしまったのだ。
薄い壁の向こうにあるみたいに、目覚まし時計の音がくぐもって聞こえる。
意識はまだ濁っていて、机の上にある目覚まし時計の存在を正しく認識しようとしても、その形はぐんにゃりとしてしまう。
同じような光景をどこかで見たことがある、と思った。切り取られた記憶が写真のように額縁に飾られている。
絵を見たのだ。数年前、プレハブの美術室でのことだったと思う。ぼんやりと眺めていた教科書で見つけたその絵には、ぐにゃぐにゃと柔らかい懐中時計が描かれていた。机の縁に垂れ下がるもの。木の枝に洗濯物のように掛けられたもの。先生が、「この絵を描いた人は、どんなことを表現したかったとみなさんは考えますか」と問いかける。私がなんと答えたのかは覚えていない。
一度大きくあくびをし、水たまりに触れる猫のようにこわごわと目を開くと、いつもと変わらない天井が見えた。
とても日常的な朝だ。
まだ重たい目元をこすり、左手で毛布を勢いよく払いのける。
枕元に透明な粘土で作られた人形が転がっていた。幼い頃に母にねだって買ってもらった特別な粘土。それを使って私はかつて、男女の人形を作った。その片割れが棚から落ちて、私の枕元にいたわけだ。
そっと人形を元に戻し、ベッドから抜け出す。陽の光の薄く透かせる空色のカーテンを開け放つと、外には雲をどこかに置き忘れてしまった空が広がっていた。たった一つの青で塗りつぶされたキャンバスはどこかのっぺりとしている。少しくらい、白い絵の具を塗り重ねるともう少し現実感があると思った。
窓を押しあけると、冷たく澄んだ朝の風が部屋に満ちていく。深く息を吸い肺の空気を入れ替える。夏はまだ少し遠い。
意識はやおら覚醒し、感覚が少しづつくっきりしていく。
目にかかる銀色の髪をそっと払う。いつも聞こえる路線バスの走る音がしないことに疑問を覚えつつ、ふらふらと身支度を始めた。
気まぐれに屋上へやってきた私を待っていたのは、一人の青年の背中だった。
藍色のシャツが風に膨らみ、生き物のようにはためている。
その光景に私は、親友に数年ぶりに再会したような懐かしさを覚えた。理由が知りたくてシャツを隅々まで眺めてみるけど、揺らめくしわがあるだけだった。
いつまでも人の背中を不躾に眺めているわけにもいかず——もっとも彼はその時点では私に気づいてはいなかったが——ゆっくりと彼に近づき声をかける。
振り返った青年は、人がいたことに驚いたように見えた。え、と言う口の形のまま私をみて固まっていた。
彼は静かに泣いていた。
なぜ、泣いているのだろうか。
「悲しいことがあったんだ」
彼はシャツの袖で涙を拭い、恥ずかしそうに笑った。
悲しいことがあったから涙を流す。それはとても自然なことだと思った。
彼の横に並び、屋上からの景色を眺める。今朝よりほんの少し暖かい。
吹き抜ける風を感じていると、突然私は奇妙な観念に囚われた。
私は今日一日かけて何かを捨てる必要があって、それを避けることはできない。そんな気がしてならなかった。
私は何を捨てるのだろう。
おそらくそれは、粉々に砕けたガラスをより集めて無理やり丸めた、歪なボールのようなものだと思った。強く抱きしめ続けていれば、いつか元の綺麗な形に戻ると私はまだ信じている。それは、決して叶うことはない願いだ。
「名前を聞いてもいいかな」
彼の声に、私は先ほどの懐かしさの正体を知った。
暗かったのに、明かりをつけようとはしなかった。
母の帰りを待つ幼い私は、ソファーに腰掛け一人ぽつんと映画を見ていた。手持ち無沙汰な両手で透明な粘土を転がし遊ばせている。
取り立ててその映画を見たい理由があったわけではなかったのだと思う。多分、なんとなく暇つぶしに見始めたのだ。だからだろう、映画の内容はほとんど覚えていない。その映画を見たという記憶だけがわずかに残っている。
ただ、ある場面だけは鮮明に覚えていた。映画の終わりかけ、ほんの数分の場面だ。
夕焼けの色が、とりわけよく目の奥に焼きついている。町の外れにある白浜の海岸で、若い男女が並んで海を眺めていた。
二人はお互いの名前をそのとき初めて知る。映画の最後の最後になって、ようやく。
「素敵な名前。あなたによく似合っているわ」
「君の名前こそ素敵だね。ガラス瓶に詰められた蜂蜜のようだ」
「詩的な人ね」
くすくすと笑い合う声がする。
ふたりはやがて手を取り合い、揺蕩うように踊りはじめる。
これが「幸せ」というものなのだと、そのとき幼心に確信した。
黄昏の中で重なる黒いシルエット。二人は飽きることなく、いつまでも踊り続けていた。
やがて待ち焦がれていた母が帰宅し、私はそこで映画を見るのをやめた。
その日寝る前、私は粘土で二体の人形をつくった。男女の人形だ。橙色の折り紙に「しあわせ」と書いて、二体の透明な人形をそこに立てかけると、とても満ち足りた気持ちになれた。
後になってあの映画をもう一度見ようと探したけれど、なぜかどこにもなかった。
『藍色の記憶』という映画だった。
肌寒さを感じ始めた頃、屋上からは夕日を見ることができた。
とりとめのない話を二人でしていた。洗濯物の匂い、煉瓦の手触り、好きな雨の音、風の行き先。明日には忘れてしまうようなどうでもいいことを、いつまでも語り合っていた。
たった半日程度の時間を一緒に過ごしただけなのに、私たちは確かに、特別な感情を共有していた。
恋、とは違うと思う。愛情に近いのかもしれないけれど、なんだかしっくりこなかった。この感情の名前はなんだろう。
眼下の町並みに人の影はなく、ひっそりとしている。私たちを残してみんな消えてしまったかのようだ。
いや、初めから誰もいなかったことを私は知っていた。誰もいないはずなのに、彼だけが屋上にいた。
隣に座っていた彼はおもむろに立ち上がり私に手を差しだす。じっと彼の目を見つめていると、彼は照れたようにはにかんだ。
私たちは手を取り合い、踊りはじめる。
「映画のワンシーンみたいだね」
歌うように彼は言う。
あの日映画の中で見つけた幸せを、私は思い返している。
彼は静かに泣いていた。
なぜ、泣いているのだろうか。
「嬉しいことがあったんだ」
嬉しいことがあったから、涙を流す。それはとても、とても自然なことだと思った。
「君の名前、好きだよ。素敵だと思う」
彼の涙が拭われることはなかった。幾度も幾度も、頬を伝っていく。
——ガラス瓶に詰められた蜂蜜のようでしょ?
私たちはくすくすと笑いあう。
「詩的だね」
夕日はもうすぐ沈む。
私はこれから何かを捨て、何かを見つけにいかなければならない。腕に抱いていたボールを投げ出すのだ。バラバラと散らばるガラス片は、夕焼けの中で踊る二人を映しているのだろう。
映画を見た日、母はそう遠くない未来の話を、私にしてくれた。
「愛情の残り香を、かつての輝きを正しく懐かしむことで、また幸せになりなさい」
そう言って、私の髪を優しく撫でてくれた。
地平線に完全に消える一瞬前、太陽が緑色に輝く。
青年の姿はもうどこにもない。
忘れてしまった。当たり前の様にそう思った。
ついさっきまで見ていたはずの何かは、頭の中にほんの少しだって残っていない。境目の点線をハサミでばつんと切り分けたように、断絶してしまったのだ。
とても日常的な朝だ。
路線バスが走る音が聞こえる。
ベッドの上の棚には、「しあわせ」書かれた橙色の折り紙だけが置いてあった。
夕暮れの粘土と藍色 結城七 @yuki_7
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