はちみつキス
AKARI YUNG
兄貴の彼女に恋をした
機内の小さな窓から見える夜の日本。無数の光が、東京湾の形を作っている。
「帰ってきた……」
イギリスの大学を無事卒業、4年振りの帰国だ。
空港ロビーを、スーツケースを押しながら歩く。久しぶりの日本の空気。せかせかと動き、ペコペコと頭を下げる日本人は、忙しい忙しい、と、体中からエネルギーを発している。なんだか可笑しい。
夏の夜。空港のバスターミナル。蒸し暑く生ぬるい風の中、きちんと並ぶ日本人。バスも時刻ぴったりに来る。
東京駅へ向かうバスに乗車し、席に着くと、急に体が重たくなった。窓に映り込む自分の顔をぼんやり見る。
今までの暮らし。これからの暮らし。過去と未来が、頭の中で交差した。
空港まで見送りに来てくれたイギリス人の彼女、リサ。青い瞳が、本当は何を伝えたかったのか……。
4年振りにこれから会う家族……。本音を言いたいのに言えない、不自由な雰囲気は、すごく苦手だった。分かりたいのに分からない。話したいのに話せない。通じ合いたいのに、通じ合わなかった。
東京駅から、埼玉の上尾の実家まで、電車とタクシーで移動。夜の日本も平和だと感心する。タクシーを降り、久々に実家の前に立つと、緊張してきた。
腕時計を見る。夜11時。
少し落ち着こうと、息を吐いてから、インターフォンを押す。懐かしいチャイムの音の後、すぐに開いたドアの隙間から見えたのは、くったくのない兄貴の笑顔と、猫だった。
(……あれ? あれれ?)
兄貴に抱っこされている白猫は、赤い首輪を着けていて、金色の目をしている。
(……几帳面な母さんは、壁をひっかくから猫は絶対にダメだ、と言っていたのに……)
見たことのない兄貴の朗らかな表情に、カルチャーショック。
「おー、お帰り、浩司。無事でなにより!」
更に、聞いたことのない兄貴の明るい声に戸惑って、ただいまを言わなくては、と、何度も思考がうるさく僕に言うけれど、ぎこちない返事しかできなかった。
「……あ。うん」
「疲れたろ。ごめんなぁ。迎えに行きたかったんだけど、仕事があってさぁ~」
「…………」
僕は、下を向きながら、スーツケースを少し浮かせて玄関に入った。母さんが、兄貴の後ろから恥ずかしそうに顔をのぞかせ、小さな声で「お帰り」と言った。それにも、小さく、「……うん」と答えた。
久しぶりに会う母さんは、小さく見えた。
兄貴が、「半年前から猫、飼い始めたんだよ」と楽しそうに言う。
「……そうか。びっくりした」
*
階段を上がり、2階の自分の部屋の扉を開け、リュックをベッドにポンっと置き部屋を見回した。
「母さんは、相変わらず綺麗好きで、几帳面なんだよな。部屋、掃除してあるもんな。それにしても、なんか……。兄貴、変わったなぁ」
気持ちを口にしたら、びっくりが収まり、なんだか嬉しさが込み上げた。
*
1階に戻ると、母さんと、兄貴の会話が聞こえてきた。
「母さん。明日彼女のところ行ってくる」
「うん。気をつけてね……」
優しい。柔らかい。そして通じ合っている、と思えた。その家族の雰囲気に安心した。
リビングに入ると、あぐらをかいて座っている兄貴の膝に、猫が顔をこすりつけ、「ミュア~、ミュア~」と鳴いていた。その甘える猫に、兄貴が「まちゃか、またおやつが欲しいんじゃないでちょうねぇ~?」と、話しかけていて、その変わりように、僕は、思わずクスクスと笑った。
仏頂面で神経質な兄貴は、もうどこにもいない。僕に気がついて、兄貴は顔を上げる。しっかりと目が合う。
「留学はどうだった?」
「うん。いい経験になりました」
猫をなでたくて、兄貴の近くに座った。僕は小さな頃、猫を飼うのが夢だった。
「優秀な弟を持って、鼻が高いですよ」
「そんなこと言われたの初めてだなぁ」
「そだったかにゃ~?」
兄貴は照れたようにそう言いながら、僕のひざの上に猫を置いた。
「ミュア~、ミュア~」
人懐っこい猫だった。撫でられると、すぐに気持ち良さそうにして、ゴロゴロと喉を鳴らした。
*
翌朝、目が覚めると、全身にだるさが残っていた。時差ボケ。でも家族との間に抱えていた精神的な緊張が緩んだからかもしれない、とも思った。
時計を見る。10時。
1階に降り、キッチンに入ると、兄貴が皿を洗っていた。これもまた初めて見る光景で、口もとが自然と、ニヤリとしてしまう。
「兄貴、仕事は?」
「今日休み。俺、仕事変わったから。火曜日休み」
「そうなんだ」
兄貴は、皿洗いを中断し、手を拭きながら、「そうなんですよ。あなたがいない間に色々とあったんです」と、言ってから「朝食そこ」と、指差した。
のり、納豆、冷奴、卵焼き。
「うわー。日本の朝食」と、感動を大袈裟に表現しながら、食卓について思い出したのは、家族と、なんの会話も無しに、ただ、黙々と食事をしていたあの頃……。
今は、兄貴が、ご飯と味噌汁を用意してくれている。
「兄貴、今日彼女のとこ行くんでしょ?」
「うん」
「奥手の圭太さんにもついに!」
「ふふふ。お前も行く? 彼女、会いたがってたし、サプライズ好きだし」
「そりゃぁ、会ってみたいけど……。いいの?」
「うん。行こう。車で一時間半はかかるけど……」
兄貴は、温かい味噌汁を僕の前に置いた。
「じゃあ。会ってみたい」
「じゃあ。食べたら出発」
「ほーい。いただきまーす」
こうして僕は、兄貴の彼女に会うことになった。
*
兄貴の運転する車に乗るのも初めてだった。流れていく懐かしい街の風景。
「兄貴は安全運転なんだなぁ。で……、兄貴の彼女ってどういう人?」
兄貴は、カップホルダーにあるスマホを、指差し、「待受」と言った。手に取り、タップ。黒髪のセミロング、可愛い笑顔。
「兄貴、こういう子タイプだったんだぁ~」
「ん~。そうなのかもなぁ。美咲っていうんだけどね。帰国子女……。お前と気が合うと思う」
兄貴は、そうに言いながら、赤信号を見てゆっくりと停車。そして、静かに話し始めた。
「美咲に最初に会ったのはねぇ……。もう2年前だなぁ……。友人が開いた食事会の時にね」
「合コンだろ?」
「うん。まあ……。笑顔がほんわかしてて、いいなぁって思って。店を出て、後ろ姿を見つけて話しかけてさぁ」
「ふーん。兄貴って、そういうことできるんだね」
「いや……。初めてした。ふふっ。……僕もそっちに帰るんでって、嘘ついて並んで歩いたらさ……。違うよ!あっち!って、反対方向に歩き始めて。慌てて、僕もそっちっだった!って、ついてって……。そしたらさぁ。また、僕をみてニコっと笑って、やっぱあっちだった!って、くるって向きを変えて歩くの」
「本当に?」
「うん……。茶目っ気たっぷりでね。で、あー僕もそっちだった!って、コントみたいなこと何回かした」
交差点の信号が青に変わる。発進。兄貴は、クスクスと笑い出す。
「で、誰もいない公園で、美咲が急にベンチに座るから、慌てて横に座って……。そしたら、急に彼女が、お付き合いしてあげてもいいですよ!って言ったんだ」
「へ~!」
「あんまり突然だったから、返事に困ってたら、礼はいらねーぜっ!だって」
「何それ?」
「だから、可笑しくて。二人で大笑いして……。よくわかんなかったけど、連絡先を交換して……。なんとなく毎週のように会うようになって……」
「なんかさぁ、いいじゃん!美咲さん」
運転中の兄貴の横顔は、胸が一杯という感じだ。
国道に入った。平日は空いている。
「美咲とのデートはハラハラしたわ。ゲームセンターに行ったら、きゃーとかわーとかすごいの。注目の的……」
「キャラ濃いね」
「デート中、引率の先生みたいに毎回注意して。ここ日本だから声小さくねっ、みたいな」
「あ~。ちょっと外人は声大きめなことはある。明るくて自由なタイプなら」
「うん。わざと鬼太郎のオヤジの真似をして店内で話したりするし」
「いや……、それはもう、外国行ってたとか関係ねぇな。だいぶ変わってんな」
「うん。だいぶ……」
「飽きなさそうだね」
「そうね。飽きはしない……」
兄貴から、美咲さんへの熱を感じ取る。
すると、リサを思い出す。リサは頭が良くて、理性的で付き合いやすい子だった。しっかり者……。だから、時々、僕がいなくても、いいんじゃないかって……。
高速に入った。
車が加速する。
「それで、夜の方は?」と尋ねてみたら、兄貴は、「お前とそんな話しするの初めてだな!エロ男!」と、大きな声で笑った。
「エロ男じゃねぇしっ!ってか大事な話!」
「ははは。……確かに大事だ。……うん。……すごく良かった」
「ぷっ!はっはっはっはっ!」
「笑うなよ!なんかね、昼間は子供っぽいんだよ!でも夜になると全然違うからさぁ~」
「へ~。ギャップだな」
「うん。で、付き合って半年後くらいか。突然、僕の部屋に、美咲が転がり込んできて……。アパートの契約を切って来たって言うし。なんで相談しないの?って訊いたら、すいやせーんって、正座してしょんぼりしてさ。追い返すわけにもいかないし。仕方なしに一緒に暮らし始めて」
( 一緒に暮らした? 母さん似の几帳面な兄貴が? )
「あれ?じゃあ……」
「うん。ちょっとね。急に引越しちゃって」
「そっか~。残念だったね。はぁ~っ」
大きな溜息をついた。共鳴。距離が遠くなるってことに。
「俺の彼女、リサって言う子だったんだけどさ、一応別れてきちゃった。遠距離恋愛は大変だと思って……」
兄貴は「ふーん」と、なんとなく、返事をした。
「兄貴さ、同棲大変だったでしょ?苦手じゃない?」
「え?あ~。そうね。1週間くらいは別に大した問題はなかったけど。朝、美咲がさ、僕の顔をじーっと目をほそーくして2、3分見てるから、どうしたの?って聞いたら、オーラを見る練習だって」
「何?スピリチャルなの?」
「え?多分、ただの天然。そこはいいんだよ。次だよ、次。美咲、立ち上がってうんこちゃんしてきまーす!って言ってからトイレに……」
「へ?!うんこちゃん?人生、初ワード……」
「だよなぁ。母さんそういうの使わないじゃん。ってか、使わないか普通」
「うわ~。俺ダメだそれ」
「だろうな。いやでもね、慣れってのは怖いもんですよ。っていうかね、美咲がトイレから出てきた時に、爽やかな可愛い笑顔をしたの」
「なんだよそれ、ただスッキリしただけじゃん!」
「いや、なんか違ったの!」
「どんだけ惚れてんだよ!」
「その時は、本当にうんこちゃん出てよかったねって思ってさぁ」
「バカじゃないの!」
「かもな~。あの時に……」
「ん?」
「なんでもない……」
こうして、兄貴とざっくばらんに話し、笑い合えるようになったのは、美咲さんのおかげ。男性を変えてしまう女性は、魅力的だと思う。
リサと最後のお別れのハグをした時、感情を込められなかった。
好きになるだけ苦しくなる気がして。
でも、それは計算。
美咲さんの話を聴いていたら、悔しくなってきた。
素直になれば良かったのかもしれない。
そんな感情に浸っていたら、兄貴は、急に、ぷはっ!と吹き出した。
「ぷはっ!そうだ。俺、殺すって言われた」
「何それ?」
「なんかね。彼女は一途でさぁ……」
満足そうな兄貴の横顔。
美咲さんは、きっと一人しか好きになれないだろう、と思うとなぜか寂しかった。これから、リサはきっと誰かとすぐに……と、どこかで思ってるからかもしれない。
「ふふっ。美咲と二人で、旦那が浮気してしまうドラマを見てて。僕がもしも浮気したら?って訊いてみたら、殺す……だって。マジ殺気を感じたわぁ~」
「愛されてますなぁ~。……安心じゃん!」
「うん。なんかね……。珍しいくらい純粋で良い子でね。でも、あんまりふざけてばっかりいるから、気がつかなかったかも。女性としても、結婚する相手としても……。パートナーとして、居心地の良さは抜群なんだ……ってね」
「そっかぁ~。結婚しちゃえばいいじゃん!」
「ん?うん。そうね……結婚したかったよ」
「タイミングだなぁ。俺も、なんかさぁ。お互いの重荷にならないようにって……。まあ、外人だしな。文化の違いあるしなぁ」
「そうね~」
高速を降りる。車は減速し、田舎の国道に入った。
「でも、美咲さんといつかは結婚するだろ?」
「え?……そうねぇ。したいねぇ。ちょっとここに寄る」
兄貴は、小さな花屋の駐車場に慣れた手つきでバンドルを切って車を停めた。
「ちょっと待ってて」
「うん」
誰もいない車内で、「ベタ惚れだなっ!あーあー!」と大きな声を出して、悔しさと嬉しさが混ざったなんかを吐き出した。
兄貴が、小さなひまわりの花束を持って、車内に戻ってきた。
「小さいひまわりなんてあるんだな」
「そう。美咲の好きな花だから」
「へ~。ロマンチックですねぇ~」
一車線の国道を進む。
兄貴の雰囲気が、美咲さんに会える時間が近づくからか、少しずつ柔らかくなっていく。
(美咲さんは、兄貴の女神みたいなもんだ。まあ……。うんこちゃんってセリフを言っちゃう女神は、聞いたことないけど……)
「あと20分くらい」
「そう。楽しみ。ねえ、本当に連絡しなくていいの?」
「うん。会いたがってたし、サプライズ好きだし」
「ふ~ん。毎週会ってんの?」
「うーん。今は毎月」
「あぁ……休み合わないか。だって今日火曜日だもんな」
「そうだねぇ」
田んぼ。
かかし。
山。
懐かしい日本の景色を楽しんでいると、森の中の小道に、すっと車が入って行った。細いなだらかな坂を上がる。車は、霊園の駐車場に入り、止まった。
兄貴は、静かにシートベルトを抜きながら、「ここです」と、小さく、だけど、はっきり言った。
それから、唖然としている僕の顔を見て、
「事故でね。天国に、突然引っ越して……。引っ越す前の晩にね、僕に抱きついて、幸せになってねっ、て言った……。普通、女の子は幸せにしてねっ、て言うだろ?だけど、幸せになってねっ……だってさ……。行くぞ」
そう言って、兄貴は車のドアを開けた。
兄貴の今、過去、未来の気持ちを、想像しようと、さっきまでの沢山の会話を思い出す。うまく整理がつかない。車を降りて、兄貴の後ろを、ただただついて行った。
高台にある霊園は、自然が豊かで綺麗だった。
ここ、そう言って、兄貴が足を止め、ゆっくりと墓前に花を捧げた。
「美咲。会いたがってただろう? 浩司、連れてきた。なんかね。兄弟でこんなに笑って話したの初めてだったよ」
墓に優しく語りかけ、手を合わせ祈る兄貴の後ろ姿からは、まるで甘い香りが溢れてくるようだった。
格好良かった。
頼もしかった。
それから、兄貴は涙をにじませた笑顔で振り返り、「ほら、お前も!」と、墓の前から数歩下がって、僕の背中を押した。
勇気が必要だった。
どれだけここに兄貴は通っただろうか。
辛い心の整理をして、悔やんだり、感謝したり、泣いたりしたんだろうか。
覚悟を決めなければいけない気がした。
なにか、真っ直ぐに生きなければならない、と。
墓の前に立ち、手を合わせる。
「美咲さん……。……好きです」
「バカっ!俺の彼女だよっ!」
頭を後ろからスコーンと叩かれた。
「いてっ!」
反射的に振り返ると、そこには、笑顔で、はらはらと涙を流している兄貴。
「いや……だって。あんまり素敵な人だから……」
「早く、ちゃんと真面目にっ!」
もう一度墓に向き合う。
僕は心の中で、よくわからないけど、伝えるために感覚を研ぎ澄まそうとした。
美咲さんに、
「兄貴を愛してくれて、ありがとうございます」
って何ども何ども祈った。
美咲さんがいない事が、信じられなかった。
会いたかった。ものすごく、会いたかった。
夏。森から抜けてくる風は涼しい。手を合わせていると、セミの声や、森から聞こえる風の音が少しずつ遠のいて行く。
静寂。
僕の頬を何か柔らかいものが触れた。
かすかに、甘いはちみつのような匂いがした。
その瞬間、通じた、そう思った。
祈りが穏やかさを招いたのか、振り向くと、兄貴の涙は止まっていて、空に吸い込まれるような顔で上を見ていた。
ほっとした。
もし、いつか聞いた歌にあるように、生きる理由が愛を知ることなら……。
兄貴はもう生きる理由を知ったんだと思った。
霊園を後にして、車内に戻ると、また苦しくなる。
(兄貴はどれだけ……)
兄貴は、シートベルトを締めると、優しく言った。
「なあ、浩司……。リサさんのこと……。一生懸命……愛してごらん」
「うん。そうだね。連絡取ってみる。兄貴の遠距離に比べたら……ごめんな」
「何?」
「なんか……」
兄貴が車のエンジンをかけ、その音が自然と会話を終わらせてくれた。ありがたかった。それから、何度か、声を掛けようと思ったけど、言葉が見つからなかった。車内に静かな時が流れた。
兄貴が小さな声で「このまままっすぐ帰るから」と言ったから、僕も「うん」と小さく応えた。
高速に乗った。
*
「あんな。日記出てきて」
「ん?」
「美咲の。面白い」
「……」
「そこにある。付箋つけてるとこ見てみ」
兄貴が指差す後部座席には、ピンク色の厚めのノート。
「え? いいの?」
「見て欲しい」
兄貴の返事は、しっかりしていた。
体をよじらせて、ノートを掴む。付箋が8箇所くらいつけてある。最初の付箋のページを開く。
『 9月5日
今日はお食事会。圭太さんに会った。私のことをチラチラ見てて明らかー!!どっちに帰ります?だって。だからわざとあっちって右さしてみた。そしたら僕もそっちだって。明らかー!!もう1度やっぱあっちだ!って、向き変えたらついてきた!犬みたいだワン!もう1回やってもついてくる!気に入ったワン!……きっと名前はポチだワン!と思った……』
「ポチ……」
「圭太ですって言ったら、ポチじゃないんだって笑ってた……」
『……圭太さんと一緒にいると自由になる。優しさに甘えてるんだな。ジャパニーズボーイはI love you って言わないのね。シャイね。圭太さん、可愛い!』
「ふふふ」
「面白いだろ?」
「うん。なんか悪い気するけど。人の日記読むなんて。でもさぁ、なんか……愛されてたね」
「うん。なんかな……。愛されてた。ごめん……うっうっうっ……」
兄貴が肩を震わせていて泣き始めた。
大粒の涙がポロポロと溢れている。
「ほら……」
箱から、テイッシュを2枚取って渡すと、兄貴は受け取りながら、急に笑った。
「はっはっはっ!なんか、おかしくて。お前とこうやって二人で腹割って話せるなんてなんか……嬉しくて」
「なんだよ~。俺まで泣きそうじゃん!っていうか、早く美咲さんのこと言えよ。びっくりするじゃん。マジで、心の整理つかねえし」
「ごめん。なんか死んでないんだよ。まだ、なんか……」
「ほらぁ。前ちゃんと見て運転して!」
「やべ~。うんこちゃんして~」
「はあ?!兄貴がこのまま高速乗って帰るって言ったんだぞ!!今??我慢してよ!我慢できる?ねえ!?」
「嘘ぴょーん!」
「なんだよ!」
また大きな声で笑う兄貴。
鼻水を拭き終わった丸まったティッシュを僕に渡した。
それから、兄貴は1度、深呼吸した。
「美咲はね……まだ生きてるんだ。俺の中で……。記憶がさ、楽しいことしかないの。だからね、毎月、花捧げにいくだろ?だけど、墓の前で吹き出すこともあった……」
「……兄貴さぁ。強くなったな」
「……うん。そうね。乗り越えたっていうんじゃないな。なんか、受け取ったんだろう」
日記のページをめくる。
『……圭太さんからは手も握らない。日本に帰国して一番寂しかったのはスキンシップのなさ。留学中の7年間はホストマザーにハグされて、I Love You と言われて、なにもかも流れていく感じがして。よくわからないわだかまりだって、ハグしてしまえば消えていくのに。もう少し手を繋いで、もう少しだけ褒めて、もう少しだけハグすればいいのに。言葉を超えて愛はエネルギーで伝わるのに……。なんつってぇ~! あたしいいこと言う!』
「ふふふ……。俺さあ。マジで美咲さん好きだわぁ」
「うん……。多分、会ってたら……好きになってたと思うよ」
「最後のページ。不思議なんだ。結婚のこと書いてあって」
最後の付箋のページをめくる。やっぱり覚悟がいる。人の想いは尊い。
『……結婚してもいいけど。でも、私には結婚向かないかも。圭太さんがいいけど、圭太さんには私じゃなくて、日本人的な穏やかな人がいいと思う……。今度、生まれ変わる時は、圭太さんみたいなパパのところがいいな……』
「これってさ……予知?」
「多分違う。よく話してたから。生まれ変わったら、何になりたいとかって」
「ふぅ~ん」
「でもね。なんか少し楽になった。会えるかもしれない……。またいつか。それに、幸せになってねって言われたからさ。幸せになろうとは思ってる……。でも、刺激的でしたからね~、美咲との生活は。まだ、他の彼女とか考えられないな……かめはめ波、真面目に練習してたし」
「……嘘でしょ?」
「これホント。できると信じてたから、その練習に付き合わされて。でもね、だんだん楽しくなってきて。……よく一緒にふざけた。ふざけるっていうのがこんなに大事だとは思わなくて……。あとね、あれやりたい日は、バキュンってピストルで撃つ真似すんの。で、俺がベッドに倒れるだろ。それがサイン」
「うわ~。楽しそう……」
「楽しんでたよ。ふふふ。キスは、いつもはちみつの味がしてさぁ」
「は、はちみつ?」
「うん。リップいつも、はちみつのを使ってたんだ」
「はちみつ……。あのさ、さっき……」
「ん?」
「あっ。なんでもない……」
「……そうだ、仕事変わったのさ。リストラに合って……」
「あっ、じゃあ、そういう経緯で」
「今の仕事楽しいんだ。それも美咲のおかげだな。リストラにあった日は落ち込んだ。でもさ、本当に好きなこと探せるチャンス!って美咲が明るく言ってくれて、今の仕事見つかるまでサポートしてくれてさぁ」
「……美咲さん。頼もしいな」
「うん。でも、俺がいたから、美咲……死んじゃったのかなとも思ったよ」
「何それ?」
「日記に書いてあったんだ。急にアパートに転がり込んできたの、アメリカに行くかどうか考えてて……。試しに一緒に住んでみようと思ったんだって……。もし同棲無理なら、将来結婚の可能性が多分ないから……。それを見極めたくて無理やり同棲始めたみたい。ダメなら、秋にアメリカに行こうと思ってて。もし、行ってたら……」
「そうなんだ……」
話を遮るように相槌を打った。
二人は、愛するっていう意味では成功していて。
でも、だからこそ兄貴は自分を呪いたくもなっただろうし。
生きることに、そう簡単に判断をつけれないから。
「俺さ。日記抱いて寝てるんだわ……」
「うん……。兄貴……大丈夫?」
大丈夫なんて、なんで訊いてしまったんだろう。
後悔した。
「それがさ。思ったよりも大丈夫なの。すっかり、自分を幸せに生きる事を軸にしててさぁ。大丈夫なの。寂しいよ。だけど。大丈夫なの……」
「すげーな。本当に来んじゃないの?子供として」
「うん。多分な」
二人でクスクスと笑った。
笑い合うぬくもり。通じ合ってる。美咲さんを介して。
高速を降りた。車が減速する。
「そろそろ家です」
「ほーい。今日はありがとうございました。美咲さんに会えて、元気もらった」
「そうね。そうだね」
兄貴が、車を丁寧にガレージに駐車する。
「俺さ、美咲さん好きだわ。次、会ったら、絶対結婚しよう」
「ふふふ。はいはい。頑張ってね。大変ですよ。飽きないけどね」
*
夏の夕方。
まだ明るいのに、玄関には灯りがついていた。
チャイムを押して、ドアを開けて入っていく兄貴の後ろ姿を見て、なんだか、帰ってきたんだって、やっと思った。
「ただいま~」
玄関では、母さんが猫を抱っこして待っていた。
「一緒に行ってきたの?美咲さんところ?今度は私も誘ってよ!……ずっちー!」
母さんが、強めの口調でそう言って、くるっと背中を僕らに向け、キッチンに歩いて行った。
「何? ずっちーって……」
見たことのない母さんにうろたえた。
兄貴が、
「美咲の口癖、ずっちー。ずるいっていう意味ね。アイスとか食べててもすぐ、ずっちーって言って横取りすんのよ。その話、母さん気に入って」
と言いながら家にあがって行く。
「ふふふ……母さん美咲さんと会ったことあるの?」
「ううん、ない。でも美咲の話は沢山して笑って。父さん海外出張多いだろ。だから、母さん一人多いし。で、ここに戻って来た」
「あ……。そっか~」
*
夕食後、一人、ベッドに座り、窓の外を見ていた。星が見えない夜空。光の見えない暗闇を見ているのに、どこからか勇気が湧いてきた。
「未来なんて……。大丈夫かもしれない。理由なんてわからないけど」
「ミュア~」
開けっ放しにしてあったドア。
いつの間にか兄貴が猫を抱っこして立っていた。
「そういえば、猫の名前、何?」
「はちみつ」
はちみつが、こっちをまん丸な目でじっと見ている。
「おいで! はちみつ!」
はちみつキス AKARI YUNG @akariyung
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