鳴箭を射る

「ごめんくださりませ」

 あたりが夕闇に染まる中、紅琳は護衛1人を従えて寂びた庵の前に立った。

 目の前には寂びた庵。壁となっている板の隙間から僅かな明かりが漏れているので、訊ね人は在宅しているようだ。

 扉を一つたたいて声をかければ、小さな応えがあった。

 程なくがたがたと音を立てて扉が開き、年老いた老爺がわずかな明かりをもって現れた。

 随分と小さな印象だ。だが、細い双眸には確かな力が宿っている。

 紅琳は居住まいを正すと、丁寧に頭を垂れた。

「私は王世子、佐敷王子朝昌様のご下命によりまかり越しました、女官の紅琳と申します。夜分遅くに大変申し訳ございませんが、暫しお時間をいただきたく」

 言い切って頭を上がれば、老爺はじっとこちらを見据えて。

「王世子には面識がありませぬな」

「…老師のご経験を伺い、是非にと。こちらを」

 懐より取り出した書簡を手渡すと、老爺―――菊隠は体をずらして紅琳を庵の中へ促した。

 庵の中は、畳が10枚程度の大きさだ。寝具を1人分敷けばそれだけで足の踏み場がなくなるだろう。

 今はまだ休む準備はしていなかったのだろう。囲炉裏には小さく炭が燻っている。

 菊隠は囲炉裏の前に座ると、受け取った書簡を開く。

 その様を紅琳は戸口からすぐの所で立ったまま見つめた。護衛は外だ。

 ゆっくりとした動きで、文字を追うその視線は読み進めるたびに渋面になっていく。

 程なく読み終わると、丁寧に書簡を畳んで視線を紅琳へ向けた。

「この老僧には身に余るお言葉だが、拙僧は既に隠居した身。お役に立てるとは思えぬが」

「ご隠居なされていることは王世子もご承知の事。ですが、老師の知識とご経験をもって、ご教示いただきたいことがあるのだと、わたくしは愚考いたします」

「拙僧の知識と?」

「恐れながら、王世子は大和の知識があまりにも乏しいと仰せで」

 王世子と言えどもその地位についてまだ数か月。それより前は金武にて父親について政務を行っていた。

 大和の知識を得るより前に、学ぶことが多量にあったのだ。学んではいたが、あまりにも基礎的な部分のみ。

 菊隠は顎を撫で摩ると、徐に。

「王世子は御年おいくつか」

「御年15歳におなりです」

 左様か、と呟くと、菊隠は暫し沈思して。

 ゆったりと、首を左右に振った。

「首里には知識豊富なお歴々がおろうに、何故拙僧か」

「老師は今も島津とのご縁がおありかと。実際、薩摩の地を踏んでいらっしゃる」

「確かに島津の義久公ご兄弟とは面識があるが、内情に詳しいわけではないぞ」

「お人柄をご存じと言うことは、そのお考えもある程度お判りでしょう。…わたくしの愚考でございますが、王世子には大和のもろもろをご教示いただける方がいらっしゃりませぬ」

 言い募る。

 実際、直接島津を知る者は王城にも少ない。尚寧や尚宏、三司官とて直接の面識はないだろう。

「…島津の何を知りたいと仰せか」

「近く、この国は島津と刀を交えることになる。その際の対処法について、王世子はお知りになりたいとお考えです」

 まっすぐに。

 まっすぐに、紅琳は菊隠を見る。

 菊隠は細い双眸をわずかに見開いた。

「戦をすると仰せか」

「戦をせねばならないとお考えです。そのうえで、被害を最小限にとどめつつ講和を行いたいと」

 どこまで手の内を見せるのか。

 紅琳は頭を働かせながら口を開く。

「王世子は老子とともに王の侍従でいらっしゃる喜安殿を招聘しております」

 その名を菊隠も知っていたのだろう。

 彼は再度沈思すると。

 一つ、膝を叩いた。

「…そのような重大事、この老体がどこまで役に立つかわかりませぬが」

 叩いた膝を、一撫で。

「お呼びに参じましょう」

 重々しく、言葉が落ちる。

 紅琳は静かに頭を垂れた。




「まさか王世子が直々にいらっしゃるとは」

 わずかに慌てた様子で喜安は尚豊を迎えた。

 突然、たった一人の護衛を連れただけの王世子が自室にやってくるなど、仰天するだろう。

 近習詰所の近くになる小さな建物で侍従の一部は生活している。

 その一室。寝具と小さな机を置いたら一杯になる部屋で、尚豊は喜安と向き合った。

「お呼びいただければ馳せ参じましたものを」

「いや、そなたにはこの後色々と助けになってもらいたいと思っている。

故に、こちらから礼を尽くすのは当然だろう」

 むしろ、仕事が終わったところに押しかけて申し訳なかったと、尚豊は軽く頭を下げた。

 それにますます慌てて。

「どうか、どうかそれだけは」

 王世子に頭を下げられては立つ瀬がございませんと、喜安は言う。

 己の半分しか生きていない年若い子供に向けて、彼は本当に心底困ったという表情を見せた。

 それに、少し笑って尚豊は。

「こちらに参ったのは他でもない。そなたに我が師となってもらいたいのだ」

 単刀直入に、告げた。

 ぽかんと喜安が目を見開く。

「そなたも知っていると思うが、私は王より対大和の対応を任された。だが、私には大和の知識があまりにも乏しい」

「…それは…致し方ない事かと」

「その通りだが、乏しいままではどうしようもない。故に、大和の出身であるそなたに色々と教示を願いたいのだ」

「それは、そのぅ…荷が重いと申しますか」

 しどろもどろに喜安は。

「私は王の侍従とは申しますが、お恥ずかしながら茶人として喫茶をお教えしているにすぎません。そのような政に関われるような知識は…」

「風俗も習慣も文化も。あらゆる大和の知識が欲しい」

 そなたを借り受けること、王にもご許可いただいている。

「許可はいただいているが、それでも私はそなたの意思で教えてもらいたいと思っている」

 無理強いするつもりはない。だが、それでも。

「大和の要求をすべて飲むことはできぬ。だが、最初から交渉を排除してはなるまい。そなたと同時に、私は菊隠和尚にも同じことを頼んでいる」

 どうか、受けてくれまいか。

 ゆっくりと頭を再度下げれば。

 やはり喜安は慌てたようにそれを止めて。

「ご下命とあれば、喜んでお仕えいたします!ですから、どうか頭を下げるのはやめてください!」

 本当に困った風に、彼は叫んだ。

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月に咲く花 桜緋夕貴 @yukioh

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