新樫 樹

 明日から始まるゴールデンウィーク。前半を帰省することにしている。

 リュックに着替えなどを入れ終えたあと、ふと思い立ってチタンのマグカップを手に取った。家でコーヒーを飲むときに使っているのは、みんなアウトドア用品のメーカーのものだ。

 一人暮らしを始めた頃は近所のスーパーで買ったカップやドリッパーを使っていたけれど、どうしても欲しくなって初めてのボーナスで買った。迷わずメーカーをスノーピークに選んだのは、父さんとのキャンプで手に馴染んでいたからかもしれない。

 マグカップをふたつに、コーヒーミル、僕の好きな深煎りの豆。少し考えて、コーヒープレスを選んだ。

 帰省したら父さんとキャンプに行くことになっている。

 これで父さんにコーヒーを淹れよう。

 実家にいた高校生の頃までは、ふたりでよくキャンプに行った。

 昔からキャンプが好きだったという父さんは、車のトランクに道具を一通り常備している。さして広くないトランクから、テントや寝袋や焚火台や……そういうものが次々と出てきて、コンパクトにたたまれたそれらがみるみる形になっていくのを眺めるのが好きだった。

 父さんの節くれだった大きな手を思い浮かべる。

 僕はひとつだけ、ため息をついた。




 記憶に残る本当の父親の手は、指がすらりと長くて白い。

 僕はその手が好きではなかった。

 好きになれるほどの思い出を持っていなかったせいもあるかもしれない。

 触れたことも触れられたことも覚えていない手。

 でも多分、冷たかったろうと思う。

 そういう気がする手だった。

 ろくに顔を覚えていないくせに、どうして手だけが記憶に色濃く残っているのか、そのことを深く考えたことはない。

 もう二十年近く会っていない父親のことを思い出したのは――父親の手のことを思い出したのは、一本の電話のせいだった。

 たまたま出張からの直帰で、帰宅時間が早かった日。

 まるで見計らったかのようにその電話はかかってきた。

 ディスプレイには見たことのない市外局番で始まる電話番号が表示されていて、聞こえてきた声は落ち着いた男性の声だった。

「突然お電話差し上げまして失礼いたします。こちらは岡町徹さんのお電話でしょうか」

「……はい、そうですが」

 男性は隣県の市の福祉課の者だと名乗った。

 僕には縁もゆかりもない地名。

 なにか、ざわざわとした予感がした。

「お父様の、立花壮一さんのことで、ご連絡させていただきました」

 思いもしなかった……というのは少し違う。

 心のどこかにざわざわとした予感と一緒にあったのは、やっぱりかという気持ちだった。

 けれども、息を吸い込んだまま、言葉が出てこない。

 しんと音のない時間が過ぎていく。

 電話の向こうの彼は何かを察したようだった。

「立花さんは生活保護を受けていらっしゃるのですが、現在、入院をされています。お世話をされているご友人がおられるようですが、私どもといたしましては、ご家族とご連絡が取れる場合にはご確認をさせていただいています……」

 僕の返事を待たずに彼は続けた。

 ときおり言いにくそうに、けれども淡々とした口調だった。

 するすると続く言葉が耳にさらさらと流れ込んでくる。

 父は、長くないらしい。

 黙り込んでいる僕に、彼は万一のときの葬儀のことを切り出した。

 葬儀を出す気持ちがあるかどうか、そういうことだった。

 白い手が脳裏をかすめる。

 触れたことも触れられたことも思い出せない手。

 冷たくきれいな手。

 その手が静かに年をとろうとしている。

「……すみません。あの……子どものときに両親が別居してからは、一度も会っていないので……どうしていいのか……」

 答えながら、僕は自分がひどく幼稚に思えた。

 小さな子どもが僕の中から顔をだして返事をしているような気持ちがした。

「そうですか。わかりました。こちらでさせていただくこともできますので、そのときにはもう一度ご連絡をいたします。ご確認するだけです」

「……はい」

 彼は口調を変えることなく言い、丁寧な挨拶をして電話を切った。

 事務的でも感情的でもない声色は、良いとも悪いとも言わない声色だった。それは職業柄なのかもしれない。親子という関係があるということが、そのまま絆をあらわしているのではないことを知っている声色に思えた。

 さっきまで聞こえていたその声をぼんやりとなぞりながら、暗く落ちたディスプレイを見つめる。

 父親の顔を、僕は思い出せない。

 数枚残っている写真の、その顔しかわからない。

 日常の、動いていた父親は、僕の中ではすでに死んでいた。

 そうか。

 この電話がもう一度来たなら、そのときが父親が本当に跡形もなくいなくなるときなのか。

 そう考えても、僕のなかにこみ上げてくるものはなかった。

 憎しみだとか悲しみだとか。そういう感情が生まれてくるのは、どんな形であれ心の繋がりがあってこそなのだと気付いた。実の父親の命があとわずかだというのに、僕には何もない。何の感情も湧いてこない。その現実に、僕は下を向く。

 ただ。

 そのとき。不穏で冷ややかな黒い雲が、僕の中にゆらりと波をたてた。

 長いこと深く水底に沈んでいた父親の躯が、波に揺られて音もなく浮上してくる。生々しく。そして。

 白く美しい手が――ぬらりと。




 あの電話から僕は父親のことを考えるようになった。

 母さんの言葉をそのまま借りるなら、僕の父親はロクデナシだった。

 大きなことを言いながら、結局は酒に逃げて母さんに暴力をふるう。そういう男だったらしい。

 もっとも、ただ暴力を振るわれているような母さんではないから、きっと取っ組み合いの大げんかになったことだろう。

 僕を叱るときの母さんの口癖は、「そんなところはお父さんそっくり!」だったから、ほとんど記憶のない父親は、僕がなってはならない人間のモデルとして存在していた。

 僕が小学生のとき、父親と正式に離婚した母さんはほどなく再婚した。

 マイペースで直情的なところのある母さんに似合いの、ゆったり大きな優しい男。それが僕の新しい父親で、サラリーマンのくせにやけに逞しい手をしたひとだ。体型に合った大きくてがっしりとしている手。山でのキャンプが趣味だと聞いたときには、まだ子どもだった僕は、どおりでクマみたいだと思ったのを覚えている。

 再婚するとき、母さんは僕の気持ちはあまり考えなかったようで、心配していたのは彼のほうだった。

「どうせずっといなかった父親のことなんて、覚えてもいないんだから」

 そんなことを言う母さんに苦笑しながら何度もキャンプに連れて行ってくれた。

 大きな手がテントを組み立て火をおこすのを眺めながら、まだ学校では習っていない星座の話をしてくれて夜空をさす節くれだった指を眺めながら、彼から僕へ流れ込んでくる温かな情をたしかに感じ取っていた。

 だから僕は早くから彼を「父さん」と呼べた。

 それは父親の代わりではなくて、彼だけに付けられた呼び名だった。

 僕はとても幸運だった。

 けれど。

 僕の手は日に日に父親に似てきた。

 高校生の時には、女子たちに綺麗な手だと騒がれて、冗談でマニキュアを塗られたこともある。

 指が長くて白くてきれいな手――。

 そう言われるたびに、僕はひどく気持ちが悪かった。

 美しいと言われることにではない。

 それも良い気持ちのするものではなかったけれど、それ以上に、父親の手を無理やり思い出させられるからだった。ロクデナシだという父親の。

 そして、まるで、おまえもそうなると言われているような気がした。

 消すことのできない遺伝子を思った。

 僕がどんなにすっかりと父親を忘れ去ることができたとしても、僕の体の中にはまるで種子のように遺伝子が存在していて、じわじわと育っていく。そしてこんなふうに手を作り、僕を作っていく。大人になるのが怖かった。

 大学を卒業して社会に出て三年目。

 相変わらず手が綺麗だと言われる。種子は僕の体の中にある。

 そしてその、僕の半分を作った人間は、死のうとしている。

 今もロクデナシのままなのだろうか。

 ロクデナシのまま、死んでいこうとしているのだろうか。

 かつては愛したはずのひとさえも傷つけて、憎まれ、自分の遺伝子を持つ息子にロクデナシと思われたまま、死んでいくのだろうか。

 そしていつか、そのロクデナシの遺伝子は嘲笑うように動き出すのだろうか。僕の中で。




「ゴールデンウィーク、久しぶりにキャンプに行かないか?」

 父さんが電話をしてくるのは珍しくないけれど、キャンプに誘われたのは数年ぶりのことだった。

 あの電話が母さんのところにも来ているものと思い込んでいた僕は、連絡をしてきた母さんについでのように話題にした。

 どう返事をしたのか気になっていたからだ。

『は!? なにそれ。なんであんたのところに、そんな電話……』

 驚いて怒り出す声が不自然に止まった。

 何かはっとしているようだった。

『……やだ。ごめん、徹……。前に役場から書類が来たことがあったの。あのひととは関われないって返事をしたけれど、連絡先の記入欄があって……わたしたちの連絡先を書いたような気がする……』

 何してるんだよ、とは思わなかった。

 むしろ、僕は少しほっとしていた。

 後から思えば、僕の電話番号が父親の住む土地の役場に知られているなんて薄気味悪い話だと思ったけれど、母さんに覚えがあるなら心配いらない。

 けれど、母さんのところには来なかった電話が、なぜ僕のところにだけきたのかはわからない。取り付く島のない母さんには連絡するだけ無駄だとでも思ったのだろうか。

 そんなことを考えていると、

『あんた、きっぱり断りなさいよ! あんなやつの見舞いだの葬儀だの、そんなのほっときなさいよ!』

 母さんがヒステリックに吐き捨てた。

 そう言うだろうと予想していた通りだったのに、それなのに、なぜだかカチンときた。本当に、なぜだかわからない。

『そんなのは僕が自分で決めることだろ。母さんには関係ない』

 それだけ言って、わめく声を途中で切った。

 その数日後だ。父さんがキャンプの電話をかけてきたのは。

 母さんから何か言われたからか、もしくは母さんの様子から僕を心配したからだろう。そういうひとだ。

「どうだ? もう予定、入ってたか?」

 いつもと変わらない優しい声。

 初めて会ったときから、父さんはずっと変わらない。

「……ううん。大丈夫だよ」

「そうか。よかった。じゃあ、どのあたりにしようかな」

 父さんなら、見舞いに行けと言いそうだと思った。

 悔いを残さないようにしろと。

 夫婦がどうでも、おまえにはたったひとりの父親だと。

 優しい、強いひとだから。

 でも、僕は父さんにそう言ってほしくないと思った。

 母さんにはカチンときた言葉も、父さんが言ったのならホッとするような気がした。それもまた、どうしてだかわからないけれど……。

「よし。それまでお互いに、しっかり働こうな」

「そうだね」

 行き先を、初めてふたりで行った場所にしようと言ったのは僕で、父さんはいいねそうしようとだけ答えたけれど、僕は自分が思っている以上にナーバスになっているのがわかって恥ずかしかった。父さんも気付いただろうか。

 僕の中の小さな子どもが、あの電話のときからずっと顔を覗かせている。




 リュックからスノーピークのマグをふたつ出すと、すぐに気付いた父さんが微笑んだ。

「自分で買ったのか?」

「そう」

「キャンプ、行くのか?」

「いや。普段使いだよ。コーヒー淹れる道具だけ」

「そうか」

 微笑んだまま、手際よくテントを張り火をおこす。

 僕は湯を沸かしながらコーヒーを淹れる準備をする。

「ほぉ、フレンチプレスか。いいなぁ」

 豆を挽いていると父さんが覗き込んできた。

「父さん、持っていなかったっけ」

「まだだよ。先を越されたな」

 うれしそうに目が細くなる。

「キャンプ道具は高いからなぁ。なかなか順番が来ないよ」

 不満げな口調で言いながらも、機嫌がいいのがよくわかる。

 自分がまだ持っていないキャンプの道具を僕が持っていたことが、父さんにはずいぶんとうれしいことのようだった。

 父さんのキャンプの道具は、母さんと結婚するまえから使っているものがほとんどだ。使い古されたそれらは隅々まで手入れがされていて心地いい。

 どれも僕には懐かしい道具たちだ。

「ちょっと濃いめだけど」

 持ってきたマグにコーヒーを注いで差し出したときだった。

「なぁ、徹」

 父さんは真面目な顔で僕を見ていた。

「徹は、俺と出会っていなかったら、スノーピークのマグやチタンのコーヒープレスなんて、きっと買わなかったろう?」

 僕の手からマグを受け取る。

 温度の高いざらりとした大きな手が、僕の手をかすめていった。

「……どうかな」

 何が言いたいのかわからなくて、自分の分のマグを手に取りながら答える。

「俺はね、ひとの人生は得体の知れない大きな流れに乗せられていくもんじゃなくて、目の前のひとつひとつを選び取る積み重ねでできてると思うんだ」

 お、コーヒーうまいなぁ。

 小さな呟きが聞こえて。

「徹はさ。百均のマグでも、マイセンやノリタケのマグでも、近所のスーパーのマグでもなく、スノーピークのマグを買った。それがいいと思って選んだ。もう徹の人生は、俺と出会って変わったんだ」

 森の緑に洗われた空気が僕の中に流れ込む。

 水の流れる音がする。

 鳥の声がする。

 高速に乗って、到着した午後の山。

 気温はまだ低かった。

 両の手のひらの中でマグが温かい。

 湯気がゆるく流れていく。

 チタンの二重構造は熱いものをいれてもさほど熱を伝えないと知ったのは、父さんと行った最初のキャンプでだった。金属のマグを生まれて初めて手にした僕は、おっかなびっくりそれに触れた。父さんは楽しそうに笑ったっけ……。

「だからもう、徹は完全に、俺の息子なんだよ。……俺の息子なんだ」

 思わず隣の顔を見た。

 力強い目と目が合って、僕はそのまま動けなかった。

「電話のこと、母さんから聞いた。……珍しく落ち込んでいたよ。自分のせいで、徹に迷惑をかけたって。母さんは徹の幸せをいつも考えてる。突っ走るところがあるけどな」

 いくら見ても、いつもの父さんだ。

 瞳が揺らぐことはない。

 だから、言葉は出てきたのかもしれない。

「……父さんは……見舞いに行った方がいいと思う?」

 じっと僕から目を離さずに、静かに口は閉じられていた。

 けれども何かを考えているようなふうではない。言いたいことはすでに決まっているように見えた。

 そして。

「俺は、おまえの選択を信じてるよ。自分自身をちゃんと幸せにする選択ができると信じてる。それが見舞いに行くことなら、俺や母さんのことなど考えずに、ちゃんと行った方がいい。行かないことなら、堂々と胸を張って行かなければいい。どっちを選んでも、徹は正しいよ」

 大きな手が僕の頭にふってきた。

 がしがしと、撫でているのか揺さぶっているのかわからないような手は、昔からおんなじだ。

 二十五にもなって親に頭を撫でられるなんてとは思わなかった。

 それがとても自然に思えたのは、僕の中の子どものせいだろうか。

 不安げに顔を覗かせていた子どもが、小さく笑う。

「今回のことで、徹が背負わなきゃならないことは何もない。全部、大人の身勝手だ」

 マグを包む両手に目を落とす。

 白い長い指。父親から渡された、僕の、手。

「……父さんは……何か変わった?」

「ん?」

「僕と出会って……変わった?」

 なぜこんなことを聞いたのかわからない。

 最近、自分のことなのに、わからないことが多いなと思う。

 父さんの手がゆっくり離れていく。

「そうだな」

 マグを傾けた気配がした。

 ひとつ、息をつく音がした。父さんの癖だ。

 これから大事なことを話すとき、大事なことをするとき。

 いつもこうしてひとつだけ息をつく。気持ちを整えるように。

 気付かれないようにそっとついているらしいけれど、なぜか僕にはすぐわかる。

「……聞いてくれるか?」

 目を落としたまま頷く。マグのコーヒーが白い光を散らした。




 初めて徹に会ったとき、じっと俺の手を見ていたんだ。

 ずっと、手ばっかり見てるから、もしかして俺の手が怖いんだろうかって思った。父親に虐待でもされていて、俺の手がどう動くかつい監視してしまうのかって。だから、頭を撫でてもいいかって聞いた。

 そしたら、徹は目をまん丸くして俺の顔を見たんだよ。

 どういう気持ちの表情だったかはわからなかったけど、何だかそれが俺にはやけに可愛く見えて、つい思い切り頭を撫でたら徹の頭がぐらぐら揺れて。痛いって言われて、そういえば子どもの頭なんて初めて撫でたって思った。

 小さくてあったかくて、それが俺の手のひらにすっぽり収まるんだ……。

 本当に、こう……大切にしなくちゃならないって思った。

 俺の親父は、本当にしょうもない親父で、デカい手で子どもを叩いては憂さを晴らすような男だった。その挙句、ひとりでふらっといなくなって音信不通になった。今でもどこで何をしているのかわからない。元気でいるのかさえも。思えば、かわいそうな人間だったのかもしれない。

 俺の手がひとより大きいのは、親父似なんだ。

 俺はこの手が大嫌いだったよ。

 手が大きいって言われるたびに、もしかしたら俺も、親父みたいに子どもに暴力を振って憂さを晴らすような人間になるんじゃないかって思った。

 手が似ただけで人間性まで似るわけないけどさ、それでも、俺にとってあの親父の手は、そういう……なんていうのかな……そうだな、象徴みたいなものだったんだと思う。

 まぁ、さっぱりモテもしなかったし、結婚や家庭に夢もなかったから、一生独身でいいと思ってた。

 でも、母さんと出会って、世の中にはこんな……太陽みたいなひとがいるんだなって感心した。そばにいると自由になれる気がした。

 結婚を考え始めたとき、子どもがいるって言われて、正直、最初はどきっとしたよ。いきなり父親になることにっていうよりも、自分も親父みたいになるんじゃないかってことばっかり考えた。

 不安だった。

 なのに、実際に会ってみたら、俺の手がひとより大きいのはこの子を守るためだったんじゃないか、なんて、ガラにもないこと真剣に思ってさ。

 俺はね。

 徹に出会って、新しい意味っていうか……価値を与えられたと思ってる。

 しょうもない暴力親父ゆずりのデカい手を、もう不安に思わなくなった。

 徹の頭を撫でるたびに、俺の中にこいつを叩こうなんて気持ちなんか全然湧いてこないってわかって、それが本当にうれしかった。

 いつもソロで行ってたキャンプに、徹と一緒に行けたのも楽しかったし。一人ならすぐに終わるようなことが、小さな子どもと一緒だと全然うまく進まなくてさ、でも、それがなぜだか無性に楽しくてな。

 俺は、それを楽しんでいる自分が幸せだった。

 徹といたら、俺は絶対に親父みたいな人間にはならないって思えて、それが心底幸せだったんだよ。

 俺は、お前と出会って、自分自身に怯えなくなった。

 自分を信じてやれるようになったんだ――。




 遠くで子どもの笑う声がする。

 四月の終わり。

 広々としたフリーサイトが人気の、このキャンプ場は、子どものころの僕が気に入って何度も連れてきてもらった場所だ。僕も父さんと一緒にたくさん笑った。

 本当の父親の手のことを、誰かに話したことなど一度もない。

 何も知らないはずの父さんが、僕の中に淀んでいた不穏で冷ややかな黒い雲をまるで突風のように蹴散らしてくれた。

 身体の芯から熱いものが込み上げてくるようだった。

 心の中ではいっぱいになっている言葉たちは、とうてい口から出てきそうにない。父さんも、何も言おうとしなかった。

 親子というのは不思議だ。

 DNAなんていう、自分の意志ではどうにもならないほどの深いところで繋がっているくせに、心が離れたまま別れ別れになることもあれば、ある日初めて出会った何の繋がりもなかった人と、本当の親子であったかのように心を結び合うことができたりする。

 親も子も。

 理不尽を、矛盾を、幾度も乗り越えながら生きていく。

 みんな。みんな……。

 不思議な、業のようなものを思う。

 そんな業で結ばれるのもまた、親子だからなのかもしれない。

 長いこと黙って並んで座っている僕らの向こうで、暮れ始めた空が赤くなっていくのが見えた。

 遠く連なる山もシルエットを濃くしてゆき、木々の緑も深く沈み始める。

 ぱちぱちと鳴る炎の中の薪。

 澄んだ湖の水底のような空気に、木の焼ける匂いが躍る。

 空はよく晴れている。

 今夜は星がきれいだろう。

 父さんはまた、星座の話をするだろうか。

 大きな節くれだった指で天空を差しながら。

 そんなことを思ったとき。

「徹、一番星だ」

 父さんの声がした。

 見上げた先に、白く瞬く光がある。

 たった一粒の星なのに、その光は射るような強さをたたえていた。

「汝の運命の星は汝の胸中にあり……ってな」

「え?」

「シラーだよ。あいつはうまいこと言うなぁ」

 有名なドイツの詩人を友達のように言うのがおかしくて、思わず僕はふっと笑った。

 ちらりと僕を見た父さんも、再び星を見ながら同じようにふっと笑った。

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新樫 樹 @arakashi-itsuki

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