終 《季節》は循環する

「待ってください!」 


 振りかえると、杖をついたハルビアがいた。

 生まれてから立ちあがることさえできなかったのだ。脚に体重をかけられるようになってもまだ、歩きまわれるようになるまでには、練習を積まなければならない。町を移動するにはしばらくはまだ車椅子に乗るべきだと、ヨウジュから言いつけられていた。

 慣れない様子で足を踏みだしながら、ハルビアは橋までやってきた。


「いって、しまわれるのですね」

「ノルテ地域の季節は滞りなく循環を始めました。後はあなたがたが季節に呼吸をあわせて、あるべき暮らしを取りもどしていかれることを願います。僕の役割は終わりですねぇ」


 ハルビアは淋しそうな表情をしていたが、それを振りきり、微笑んでくれた。緑の髪をなびかせて、彼女は懸命に頭をさげる。


「ありがとうございました。春を甦らせてくださって」

「いえ、春を甦らせたのはあなたがたです」


 季節を殺した町が、時を経て、季節を甦らせた。

 それは美しいことだ。とても美しいことだと、セツは信じる。


「これからは春に償えるよう、季節に寄り添い、暮らしていきます。どうすればいいのか、わからないことがたくさんあって、ほんとうのことを言えば、まだ不安が残っていますけれど。できるところから始めていこうと、みなさんと話しあっていました。まずは雪に埋もれたなきがらを棺に葬り、とむらいたいと考えています」

「それはよいことですねぇ」


 あそこは寒すぎますからねぇと、セツは遠くに視線を流す。


 凍りついた骸は町の業だ。

 町は人を殺めて、季節を殺めた。その業をとむらう。それは町が新たな季節を迎えるにあたって、終えなければならないことだ。雪どけの雫に血潮がまざっていてはならないのだ。死者を暴くことはためらわれるだろうが、暴かなければ、ともらえない。

 真実とはそういうものだ。


「セツさんは、どちらにいかれるのですか?」

「冬の砦を越えたら、取りあえずは東に。後は季節の声を頼りに、旅を続けていきます」

「季節が滞っている地域があれば、また季節の循環を甦らせるのですね」


 セツは頷いた。微笑を絶やさず、されど瞳は憂いを帯びていた。


「僕は季節を護りたい。季節が傷つくのはたえられません。僕の故郷のような悲劇は、繰りかえしてはならない。だって季節は生きています。争いが続けば悲嘆に暮れ、不条理に曝されれば怒り、傷つけられれば血を流す。人に愛され、人を愛することもある。だから僕は、旅を続けます。季節の為に」


 言葉を結んでから、彼はひとつだけ、言い添えた。


「そうしていつかは、故郷を甦らせることができれば、と」

「きっと、かないますよ」


 ハルビアが言った。

 驚いて、顔をあげれば、ハルビアは綺麗に微笑んでいた。


「あなたの願いが果たされることを、私は祈り続けています。あなたの故郷がいつか、穏やかな季節を取りもどせるように」


 桃染ももぞめの瞳を輝かせて、彼女は胸もとで指を組んだ。

 春に愛された娘の言葉は、どこまでも暖かかった。祈りの言葉を胸に留めて、セツは町を後にする。ハルビアは最後まで手を振ってくれた。


 町はずれの道を進んで、崩れかけた雪の壁を登る。

 壁を登り終えてふり仰げば、雪嶺の稜線から光の帯がたなびいていた。

 透きとおった緑の光の帯は本繻子サテンの艶を帯びていた。端だけが微かに紫がかっている。光の帯は冬の星の群を霞ませて、緩やかに揺らめきながら星空に拡がった。帳が燃えている、いや帳がほつれて、すきまから光が差しているのか。


極光オーロラですか」


 セツが瞳を輝かせた。


「綺麗ですねぇ」

「ほんと、きれいね」


 寒い地域で観測される現象だが、なぜ光の帯が現れるのかはあきらかではない。

 季節の影響によらないこの現象を巡り、「星の神が祝福している」あるいは「緑に輝く竜が舞っている」など、地域ごとに様々な伝承が残された。この地域では果たして、この光の現象をなにに例えたのか。尋ねられる相手はいないが、きっと祝福に違いないと彼は考えた。

 季節の循環を甦らせたことを、空までもが祝福しているのだ。


 セツはふと、故郷のことを想いだす。

 故郷の季節のことを。


「ねえ、クワイヤ……あなたの季節は、ほんとうに綺麗でした。僕はあなたの季節をみて、季節が美しいものだと気がついた。それまでは、季節を愛でるこころも、僕にはなかったから」


 幼少期の記憶を遡れば、彼のまわりには争いと策謀さくぼうが満ちていた。父親の失望に濁った視線も、母親の沈黙も、また領地が減った増えたと言い争う群衆も、記憶のなかでは黒く染められて曖昧だった。あの時までは、彼は季節という拠りどころも持たなかった。


 彼は眠れない晩は窓から身を乗りだして、取りとめもなく地平線を眺めていた。ここから落ちても、誰も悲しまないのだと思いながらも、窓を乗り越えるのはこわかった。窓枠を握り締めて、外を眺めていると、地平線から光が湧きあがってきた。彼は一瞬、朝がきたのかと思った。だが違った。虹の氾濫はんらんだった。光が紫に青に緑に輝きながら、大地に満ちていく。

 それは彼が経験した、はじめての《光季こうき》だった。

 光季のあいだは日が昇らない。だが地平線が暗黒に落ちることもない。延々と薄明だけが続く。夢のなかのようにぼやけた大地に満ちるのは、かぎりなく透きとおった虹の帯。天地の境がなくなり、福音のように光が満ちた。建物や樹木、森や湖の輪郭が浮かびあがり、闇に覆われていた大地にいま、それらが産まれたようだった。

 光あれと、創世されたのであれば、そのときの光景はこんなふうだったに違いない。

 彼はそれをみて、綺麗だと想った。なぜか、涙がとまらなかった。


 幼い彼を取り巻くものはきたなかった。

 欲望と策謀。打算と失望。だが、綺麗なものはあったのだ。

 それは、救済にも等しい感動だった。あの季節が、塞いでいた彼の魂を救いあげ、季節を愛するだけのこころを創ってくれた。そうしてそれが、最後の《光季こうき》の循環だった。

 この季節の循環は不定期だ。夏を眠らせ、巡ることがあれば、冬に訪れることもあった。幾年も巡らないこともある。だが冬や夏が息絶えてからは、まったく巡らなくなった。


「そうして、産まれたばかりのあなたと逢い、僕は季節を護りたいと想った。僕は季節を愛していたつもりだったけれど、風景を愛でるだけでは愛とは言えなかった。ほんとうに愛するようになったのはあなたと逢ってからだ。あなたは、僕を愛してくれた。僕を地域とさだめてくれた。なんにもなかった僕を、あなたが救ってくれたんです」


《冬》の言葉を思いかえしながら、彼は喋り続けた。


「けれどいつかは、あなたを大地に還したい。季節は、循環するべきものだから」


 人を地域にさだめても、季節は大地を巡ることはできない。あの景象はもはや、この地平線のどこにも残されてはいないのだ。

 季節かりは難儀だと、《冬》は言った。それは、人の身を案じての発言だったが、彼は懸かる季節のほうを思慮していた。息吹に満ちた季節の魂が、せまく浅い器に宿る。生きながら棺に身を横たえ続けるような。それはどれほどに息が詰まるものだろうか。まして、彼は華冑かちゅうの季節に人の振りをさせている。季節のちからを抑制する外套をかぶせて、美麗なかおを覆い、言動まで縛っている。契約で隷従させるのと変わらないのではないかと、彼はなやんでいた。

 クワイヤは驚いて、怒りを漂わせた。だがふっと息をついて、頬を緩める。「あなたはそうだった」とため息まじりにつぶやいてから、彼女はセツの頭を抱き締めるように腕をまわす。


「わたしは、ほかでもないあなたを選んだのよ。大地になんて還りたくもないわ。愛しているものから愛されて、それが幸せじゃなかったら、なんだっていうのよ」


 銀糸の髪をなびかせて、季節の姫君は微笑んだ。


「わたしという季節は、絶えず、あなたのまわりを巡っているのよ」


 雫が頬をつたい、セツは驚きながら、みずからの頬に触れた。濡れている。涙だった。凍りかけた雫のあとをなぞり、彼は声をあげて笑った。素の表情はずいぶんと幼かった。


「僕は、すべての季節を愛しています。季節に捧げている。けれど」


 彼は最愛の季節を抱き寄せて、額に接吻くちづけを施す。


「なによりもあなたに」


 委ねて、捧げて、循環する。

 季節はいのちと一緒だ。そうして愛とも。


「いきましょうか」

「ええ、あなたとなら、どこまでも」


 クワイヤが舞いあがった。

 セツは白絹しろぎぬを敷きつめたような大地を進んでいく。静かに燃える光の帯が、雪の大地を果てまで輝かせていた。何者にも踏まれずに幾年も積もり続けた雪は、星くずを模して瞬き、あまのがわを渡っているかのようだ。足跡はきっと春が終わるまでは残るだろう。




 季節は循環する。季環師もまた、大地を巡る。

 綺麗に環を象って。

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季節殺し 夢見里 龍 @yumeariki

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