だだだ君!

恵本正雪

第1話


 鏡の表面に足を入れてみると、足はゾワゾワとくすぐられた感じがしました。

 私は鏡の水面で足の指を曲げたり伸ばしたりして、歪んでしまった灰色の世界をぐるぐるとかき混ぜるのでした。


「鏡工場の工場長になった気分だね」


 ぐるぐる渦をまいた鏡をボーっと見ていると、ぐにゃぐにゃになった私の顔が至る所に散らばりまして、コーヒーにいれたミルクのように全部の細胞が撹拌されていったのです。

「これはおもしろい」と、私は得意になって、身も心もこだわりも恥じらいもすべて一緒に預けてしまって、みるみると鏡の器に溶け込んでいきました。


「すみませんね鏡さん、だっておかしくってたまらないんだもの。ホットケーキやてんぷら粉がかき混ぜられる気分はきっとこんな感じなんだろうね。ああ温かくなってきた」

 私はもっと意識のすべてを委ねてみたい心持になって、ドロドロの渦を自分のものにしてザブリザブリと鏡のプールを何往復もしていくうちに、今度は水あめのように感触がどんどん固くなっていくのでした。

「甘い、なんて甘いんだ」私はギラギラと鋭利に光る水あめの中をぐねりながら上も下もわからない所で水あめを味わっていました。


 鏡の入り口から光の筋がすっと道しるべのように降ってきましたから、「もっと冒険してみようじゃないか」という気分になって、私は一番深いところを目指して潜りはじめました。

 すると肌寒い秋風のように、ひんやりとした所にきますと、次は三温糖のようにさらさらになってしまいました。

 私はとうとう光も郵便も何も届かない冷たく固く暗いところに辿り着いたのです。

 私は突き当たった壁を力いっぱい押したり呪文か何かを唱えてみましたがなにも変わりませんでした。私はうんと唸っていますと、驚いたことに大きな目が現れました。


「よかった。君も迷子なんだね」

 大きな丸いギョロ目がこちらをチロチロと観察しています。その目の主は「だだだ」と私に言ってきましたから。「君はここの住人かい」と聞いてみました。


「だだだ」

「なんだいその言葉は、だだだって何だい」

「だだだ」


 私はその愛らしい眼球オバケと友人になることにしました。

「ようし、君の世界を案内してくれ」

 すると目の表面がズズズと音を立てて大きな門となって開きはじめました。

「ははあ、君の本体は中にいるのだな」

 私はなるべく、だだだ君の一番太い血管を探し当て、それを掴みながら、また奥へと進むのでした、中からだだだ君がたくさん出てきたらいいなと胸を躍らせながら。


「おうい、誰か。だだだ君を飼っているのは誰なんだい。誰もいないならこの可愛い目玉は私がすっかりと、もらってしまうよ」

 だだだ君の洞窟の中は新月の晩のように真っ暗で、紫がかった霧が小さいシャボンになって浮いていました。シトシトと湿った足元からは青い羽がたくさん生えておりました。

 だだだ君は不思議な体をしているな、と思いながらその羽根を一本もらいますと、体重がなくなったようになり、シャボンと一緒にふわふわと浮かぶことができました。

 私はだだだ君の力に恐れ入りながら、夜鷹になったつもりで広いドーム状の暗い天井を飛び回っていますと、何かにドスンとぶつかってしまいました。


「やあ、いきなしぶつかってすみません。君も空を飛べるのですか」

「つとむくん。どうすればいいの。わたしはどうしたら」

「僕はつとむくんではありませんよ。君は誰ですか」

「そんなことより、わたしはつとむくんを守ってあげられないのが悲しいことで心がたくさんなのです」

「そのつとむくんはどこにいるのですか」

「きっと遠い遠い宇宙のもっと遠いところにいるのです。わたしは一年生だから、なにもかもがだめなのです。つとむくんが転んでも、わたしは助けてあげられないでしょう」

「ではせめて祈ってあげればいいではないですか。君はきっと守護霊というやつでしょう」

「そうなのです。しかしこんなに遠くから祈っても、届くのは何年かかるかわかりません」


 あたりは満月に照らされていました。そうすると、つとむくんの守護霊の顔もみえてきたのです。


「ああ、たしか君は見覚えがあります。昨日夢に出てきた、チンパンジーじゃないですか。私の夢に出てこられるくらいですから、私の夢とつとむくんの夢をロープか何かを使って結んで、その道を作ればきっと助けてあげられるでしょう」


「わたしおさるさんじゃないわ。わたしはつとむくんを守る天使ですよ」


「いいえ、昨日たしかに君が窓の外にいる夢をみましたよ。立派な牙が生えているし、毛並みも黒くて立派で、それに裸んぼうじゃないですか。ほんとうに天使なのですか」


「最近の流行の天使はだいたい裸ですよ。ああ、もうお迎えのバスがきたようです。いっしょに行きましょう。心配しなくても、だだだ君はいつでもあなたの心臓を守っています。もちろん1円だっていりません。本当のことを言うと、あなたの魂は、ずっとだだだ君があなたの心臓と魂を接着剤のようにくっつけていますから、あなたは意識生命でいられるのです。それで、お願いなのですが、つとむくんの魂とあなたの魂を交換してくれないでしょうか。そうしたらもう一度だだだ君に合わせてあげられますよ」


「でも魂の種はひとつだけなんでしょう」

「早く、決めろ。ころすぞ」


 厚い雲が月あかりを隠すと同時に、天使は低い声で唸り、大猪のような牙を突き出し、私のみぞおちを突き上げました。

「最後に言い残すことはないか」と、黒い天使に聞かれた私は、息を詰まらせながら最後の言葉をどうするか考えていると、グサりと最後の一突きで息絶えてしまったのです。


 それから私は、ばらばらになった私の魂の粒の行き先を遠い遠い宇宙未来の終着駅で、たった一人で何年も観察していました。あの時、私が死んだあと、私はだだだ君に会えたのでしょうか。それとも新しい友達ができたのでしょうか。

 水あめで無限階段に印を刻みながら組み立てていると、だだだ君の声が聞こえました。


 時の列車は、私の駅を通り過ぎて、私だけが取り残されていました。

 列車の積み荷には、宛先の書かれた災いの箱がいくつもありました。




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