殻と夢
HiraRen
殻と夢
最後まで悩んだ挙句に、僕は彼と撮った写真を捨てた。
スマホから消したのではなく、写真立てから抜いてくしゃくしゃにしてゴミ箱へ捨てた、という意味だ。
彼が死んだのは、つい二週間ほど前のはなしだ。
今年で二十七歳になる、どこにでもいる男だった。
僕と彼は中学生の頃に出会い、高校・大学と関係を絶やさなかった。もちろん、社会人になっても。
不思議なことだけれど、彼と同じクラスになった事は一度もなかった。常にべつのクラスとか、別の高校とか大学だった。
同じバトミントン部で仲が良かっただけのこと。
中学校のバトミントン部で僕はずっと彼と一緒にいたような気がする。ダブルスを組んで大会に出たり、池袋へ買い物へ出たり、初めてカラオケに行ったり、アダルトビデオを見たりした。
彼は文京区の高校へ、僕は豊島区の高校へ通った。
僕らは月に一度は池袋へ行って靴を買ったり服を見たり、たいして面白くもない映画を見て感想を述べ合った。
ここまでの話を聞いた人は、『彼と恋愛感情を持っていたのか』と冗談半分で聞く人がいる。だからはっきりと断っておくが、僕と彼は同性同士で、そういった感情を抱いた事は一度もない。もちろん、彼の事を想って自涜したことだってない。たぶん、彼もそうだと思うし、そうであってほしいと思う。
お互いの学力は均衡していたとは言い難いが、話題はそれなりに合った。
大東亜帝国と日東駒専ほどの学力差があったと言えば、わかってもらえるだろうか。もしかしたら雲泥の差があるではないかと指摘されるかもしれないが、僕と彼の間ではそうした格差は感じなかった。
僕は文化部に属し、彼はバトミントンのサークルに入った。
彼は彼女を作ったけれど、僕はこれといった異性を付き合う事はなかった。四年間で。
社会人になって、僕は一年と二カ月で最初の会社を辞めた。
彼は三年ほど勤めて、辞めた。人生には休憩が必要だ、と言いながらも、しっかりと三年間を務めた彼が羨ましかった。
きっと僕らは特筆するような特徴を持った友人同士ではないし、注目されるような実績を挙げたわけでもない。
この東京のどこにでもいて、いまもどこかで酒を飲んでいる友人同士――それが、僕と彼の関係だった。
彼が『夢』の話をしたのも、酒を飲んでいる時のことだった。
お互いがお互いの呼吸で働ける場末の中小企業に勤め、わずかな給料でそれなりに週末の酒が楽しめるようになったころの話だ。
「明け方に夢を見るんだ。不思議な夢でね、起きてる夢なんだ」
「なんだよ、起きてる夢って。寝ぼけてるんじゃないのか?」
「うん、俺も最初はそう思った。でも、そうじゃなかった」
彼は当惑しながら、首を傾げたり、苦笑いしたり、ときどき眉を寄せて困ってみたりしながら話した。
「昨日やった仕事の続きから始まるんだ。つまり、なんていうんだろう。『今日やろうとしていたこと』を夢のなかで作業しているんだ。これをやって、あれをやって、そうするとこういう問題とクライアントへの連絡が発生する……みたいにね」
「なんだか、不幸な夢だな。眠っているのに、働いている。まさか正夢になったとか言わないよな?」
先回りしたつもりだったけれども、彼は「正夢にはなってないよ」と断って。
「そういうんじゃない。ただ、すごくリアルなんだ。電話口の取引先の声も、商品の手触りも、事務方の無愛想な感じも、すごく現実的な夢なんだ」
「ふうん……。仕事に根を詰め過ぎなんじゃないのか?」
「そんなつもりはないんだけどなア……」
彼はそんな夢を明け方に見ると言った。
ふと目が覚めると、目ざましが鳴っている。
「夢なのか現実なのか、よくわからない時がある」
日曜日の朝、彼はそんな夢から逃れて現実の休日にたどり着く。そのときの徒労感といったらないのだとか。
「安心するんだ。今日は休みだった、ああ休みだったってな。そんなふうに胸をなでおろしてからの二度寝は、こりゃもう格別なんだ」
「二度寝したとき、夢は見るの?」
「見ないさ。見ずに昼過ぎに起きる。いい目覚めだ」
いい目覚め。
僕はその言葉の意味をちょっと考えてみた。
自分は毎日よく目覚められているのだろうか。彼からこんな話を聞くまで、あまり考えた事もなかった。
そんな僕に、彼はふと漏らした。
「子どもの頃は将来の事を想像しながら眠ったのに、いまは明け方に仕事を夢見て起きるんだ。まったく、睡眠ってやつは凶器だよ」
そういって彼は空になったビールジョッキを店員に渡して、新しいものを注文した。
「夢なんだよな、夢……」
ぽつりと彼が言った。
なにもかもが熱病にかかったみたいにぼんやりとしていて、それでいて奇妙な外形を保ったぐずぐずの世界――。それが僕にとっての『夢』だったのに、彼が抱く『夢』は異なる角度と質感を持っているらしかった。
写真をゴミ箱に捨ててから、僕はいちどその写真を拾い上げて、指先で丁寧に広げた。
彼との写真を捨ててしまうのは間違っているような気がしたからだ。
けれども、しわの寄った古い写真は『捨てられること』を望んでいるように見えて、僕はまた掌でそれを握りつぶした。
窓の向こう側で列車が鉄橋をかけぬけてゆく。
バルコニーの向こう側に広がる土手では、サッカーに興じる子ども達で溢れていた。
僕は網戸を開けてバルコニーに出た。
土手沿いの遠くに複数の煙突が小さく見えた。
彼が焼かれた焼場である。
昔からそこにある斎場なのに、彼が焼かれてから妙な見え方をするようになった。
鉄橋のさらに先に蜃気楼の如く浮かぶ焼場の煙突からは、今日も穏やかな白煙が昇っているように見えた。白煙なんて、本当はあがらないのに。
部屋に振りかえる。
広々とした5LDKのマンション。
薄給の僕が年齢だけを武器にして買った、5LDKのマンション。
独身にとっては、あまりに広すぎる。
築の古いリノベーションマンションで、内装は真新しいのに廊下やエントランスなどの共用部は古臭いままだ。なにより住んでいる人々が、どことなく辛気臭い。
この部屋を買うかどうか迷ったときも、彼が傍にいた。
土手沿いにあるマンションの一室が売りに出ていた、と僕が彼に話すと彼は小学生の頃の話を始めた。
彼は自転車に乗って複数人のグループで土手へやってきた。
目的はとある子との『決闘』だったというのだ。
「決闘なんて言えば聞こえはいいが、実際はもっとチンケなもんでさ。クラスで背の小さい、女みたいなヤツがいてさ。そいつがポケモンのカードでいいカードを当てたから、奪っちまおうっていう話さ」
「おまえが主導して、か?」
「まさか。小学生の俺は金魚のフンみたいなもんだったよ。リーダー格のやつらと一緒に自転車で土手へ行ったんだ。最初はポケモンカードの交換会とか聞かされてたっけ。でも、蓋を開けてみれば、その子のカードをごっそり奪っちまって、みんなで山分けする算段だったんだ」
「悪い思い出だな」
「どうかな。懐かしい思い出ではあるけどな」
いじめられていた女の子みたいなヤツにも問題はあったと彼は話した。けれども、同級生達に囲まれて、殴られたり、罵声を浴びせられたりして、最後にはカードを奪われてしまうのを見て、彼は良い気持ちはしなかったと言った。
「あいつらは目的のカードを手に入れて、レアカードを仲間内で山分けして……補助要員みたいな俺たちにはコモンみたいなケチなもんだけを押し付けたんだ。いらねえってんだよ、そんなもん」
そこまで言ってから、彼はふぅーっと長く息を吐いた。考えてみれば、この話をしたのは終電がなくなってとぼとぼと線路沿いを歩いて帰って来る途中だったような気がする。
「俺な、そいつにカードを返したんだ。『ほら』とか『返すよ』とかも言わず、ただ黙って差し出したんだ。したら、そいつは言うんだよ『こんなの返してほしくない』って。てっきり俺はコモンばっかのクズカードはいらないって言われたんだと思った」
「実際はどうだったんだ?」
「さあな。額面通り、クズカードはいらない、の意味だったのかもしれない。でも、高校生の時にそいつのカードを押し入れの奥で見つけたとき、思ったんだ。『情けなんてかけんなよ』って意味だったんじゃないかって」
「ふうん……」
「結局、高校の時にそいつのカードもまとめて全部売っちまった。大した金にもならなかったのに、どうしてあんなに必死で集めて、守って、泣いたり喜んだりしてたんだろうって思うよ。おまえはやってなかったの、ポケモンカード」
僕はそう言われて「やらなかった」と肩を寄せた。
すると彼は話を締めるように言ったのだ。
「あのときな、ずっと土手っぶちでガッタンガッタンやってたんだよ」
「なにが?」
「おまえが買おうとしてるマンションだよ。ガッタンバッタンって。衝立がしてあって中は見えねえんだけど、そりゃあもううるさくて『決闘』の『決め台詞』もなにも聞こえたもんじゃなかった。それに電車通るだろ、あそこ。だから、なおのことうるさくて、なにがなんだかわからなかったんだ」
僕はその話を聞いて妙な気持ちになった。
遠い昔に建てられたマンションだと思ったのに、あんがい僕らが小学生の頃に産まれた――僕らの後輩だったのか、と思った。
後日、僕は不動産会社にマンションの購入を断る連絡を入れた。
しかし、そのときに不動産会社はマンションの『告知事項』について話した。毀れた話だから、すべてを打ち明けてくれたのかもしれない。
売りに出した世帯の娘が、東の洋室で自殺したのだとか。だから綺麗に部屋も直してあるし『あなたぐらいの年収でも買える』破格の金額なのだ、と。
その話を聞いて、僕は「もう一度だけ、部屋を見ていいですか」と問うた。
相手の営業マンは電話口で「は?」と言ったが、後日ちゃんと見せてくれた。とてもめんどうくさそうであったが、見せてくれた。
だから、僕はこの部屋を買った。
僕ぐらいの年収でも買える、破格の5LDKだったから。
血の跡とか、人間が出す脂の気配とか、死の匂いとか、そんなものはまったく感じられなかった。幽霊も出なかったし、ものが勝手に動いたりもしなかった。
川沿いの穏やかな風と電車の音、そして広々とした5LDKの部屋と三十五年のローンが僕の手に入った。事実を述べるとすれば以上のような事だ。
僕は彼をこの部屋に招待した。
彼は「良い部屋じゃないか。人が死んでいるとは思えない」と陽気に話した。
僕らはピザをとり、酒を飲み、テレビを見て、リビングで眠った。男が二人で使うにも、広すぎる部屋だった。
彼は帰り際に、忠告するように東の洋室を覗いた。
「昔な、ある小説で井戸の中に入る話があったんだ。知ってるか?」
「わからないな」
「井戸の中に入ってじっとしてるんだ。水の枯れた井戸で、暗い井戸の中でじっと二日だか三日だか時間を過ごす」
「どんな意味があるんだ、それに」
「わからない。でも、その主人公はいつでも井戸から抜け出せるために梯子をかけていたんだ。縄梯子だ。でも、ふと目覚めたときには何者かに縄梯子が井戸の上にあげられてしまっていた」
「だから、三日も井戸の底へ?」
「そういうわけだ。娘さんが死んだっていう部屋をみたとき、よくわからないが井戸の話を思い出したんだ」
彼はそれ以上なにも言わなかった。
そして、ちょっとだけ首を傾げてから。
「やっぱり気味が悪い。人が死んだ家っちゅーのは」
薄々僕もそうは思っていた。
でも、不動産会社の営業マンも銀行の融資担当者も会社の同僚も、購入を報告した時の両親も――誰もそうストレートに感想を述べなかった。
それ以来、彼はこの部屋を訪れる事はなかった。
僕も特段に呼ばなかった。
なにより僕らは異なる職場で働いていて、会うとしたら居酒屋か中間点の駅だった。
接点としては弱いかもしれないが、僕らにとってはそれだけの接触で充分だったのだ。
彼の異常を知ったのは、それから三ヶ月とか四ヶ月とかした頃だったと思う。
お互いに決算期を迎えて妙に仕事が忙しかった。
偶然、僕はそのとき『片想い』をしていた。
大学時代の同期にひょんなことから再会し、二つ隣の駅に住んでいると聞いた。
僕は彼女を誘って池袋に出かけたし、食事にも誘った。
穏やかな週末は彼女のために消費され、彼に配っていた目は彼女の方へ向いていた。それは自然な事だったのかもしれない。でも、異性に慣れていなかった僕はうまく彼女に近づく事が出来なかった。
三度目の食事を誘ったとき、彼女は返信をしてこなかった。
どぎまぎして、どうしていいのかわからなくて、仕事で幾度か失敗を重ねた。
結局、僕はフラれたのだと気付くのに一週間近くもかかった。それは明確な断りではなく客観的な察知であった。
僕はこの出来事を彼に伝えようと連絡を入れたが、彼はその連絡に出なかった。
傷心していた僕は池袋の小さなバーで酒を飲んだ。
彼女は僕が5LDKに住んでいる事に眼を丸くしたが、それ以上の反応はなかった。東の洋室で娘さんが死んでいる事も話したが、彼のような明確な反応は示さなかった。なにより僕は池袋という街に彼女を連れて行った。もしかしたら、彼女にとって池袋はつまらない街だったのかもしれない。
僕は池袋しか『街』を知らなかった。
渋谷や恵比寿や表参道ぐらいを案内できなければ、いまの男性はいけないのだろうか。いや違う……。女性から見た僕のスペックでは、それぐらいの街に慣れていなければ査定の『土俵』に乗らないと言う事なのだろう。
池袋の小さなバーで僕は黙って酒を飲んでいた。
そのとき、店員の若い青年が声をかけてきた。
「ずっとお一人なんですね。待ち合わせですか?」
店主に倣ってスマートな黒い服装の青年に言われ、僕はなんと答えて良いのかわからなかった。
「失恋したんです、この歳で」
しばらく考えてから、僕はそう答えた。
二十七歳。
恋にすら発展していない、小学生のような片思い。
それすらも結実させられない僕の幼稚さに、自分で自分が嫌になった。
青年は僕の話を断片的にであったかもしれないが、よく聞いてくれた。
人当たりの柔らかい、懐っこい笑みを浮かべる青年だった。
僕の話がひと段落したとき、彼は「じゃあ、僕の秘密も教えちゃいます」といたずらっぽく言った。
「きみの秘密……?」
「ぼく、十六なんです」
「えっ……?」
「まだ、十六歳なんですよ」
その言葉を聞いたとき、第一に浮かんだのが「若いんだね」「若いなあ」「羨ましいな」という類のものだった。
でも、冷静に行きあたった感想は、
「えっ、良いのかい? こんなところで働いていて」
というものだった。
だから彼は唇に人差し指を押し当てて。
「しっー、だから秘密なんです」
そう続けたのだ。
僕は未成年の店員の前でしばらくきょとんとした。
熱病のような酔いがまわっていたからだろうか。失恋した影響からだろうか。自分の人間的な幼さに嫌気がさしていたからだろうか。
十六歳の店員は僕に「慰めましょうか?」と問うてきた。
それは僕よりもよっぽど人間と人間の関わりに長けた問いかけであった。
長い睫毛と切れ長の目、そして僕を見透かしたような眼光が――なんとも怖かった。
その日、僕は少年とふたりで過ごした。
彼は男性的でありながら女性的な柔和さを持っていた。
ケア、という言葉が男性を女性に変えるのだと知った。彼は女性的な肉体のために学校へ行かず、大人びた世界で理想のための技術を学んでいた。
僕は初めて男性を知った。そして男性としての役割も行った。
十六歳の少年は夜明けとともに消えた。
池袋の駅に人々が集まりだす前に、彼は「ひげをそらなくちゃいけないから」と言って消えた。
僕は自分の身体に残る甘い感じとずきずきする痛みを覚えながら、帰途についた。
病気だった。たぶん、病気だったのだ。
自分でもわかる。
自分が異常ななにかにとりつかれていて、どうしようもなくなってしまったのだ、と。
そのとき『明け方の夢』の話を思い出した。
少年は明け方に消えた。まるで夢のように。
でも僕は少年の感触を覚えている。これも夢のようだった。
ふとスマホを見たとき――彼が行方不明になったという連絡が、彼の親族から入っていた。
二日後に、彼は見つかった。
隣町の公園で警察官に保護されたのだと言う
誰かに誘拐されたわけではなく、自分の足で公園に来たのだという。
当人は「わからない。俺は普通に仕事へ出たんだ」と言い張った。
けれども出勤していない事は会社が主張しているし、駅の監視カメラなどもスーツを着て歩く彼の姿を捉えていた。
結局、警察は彼を厳重注意して――終わった。
事件性がない事は一安心だったが、彼の身に起こった異常な出来事は不気味な影だけを残していた。
三日ほど彼は入院して、仕事に復帰した。
それから一週間ほどして、僕らは酒を飲んだ。いつものように。
「どうにもわからないんだ。いつものように出勤して、仕事して、さあ帰ろうと思ったら公園で目が覚めた。それも警察に囲まれて」
「……覚えてないのか?」
「覚えているもなにもない。俺はただ普通に出社したんだ!」
どん、とビールジョッキを置いたせいで周囲の視線が集まった。
彼はそんな事に構わず、首をかしげた。
「覚めないのかな。夢から」
「……え?」
「最近、以前にましてよく見るんだ。現実的な、明け方の夢――」
「病院で話したんだろ、それ」
「話したよ。心療内科で先生に相談したし、検査入院もした。睡眠薬みたいな薬も飲んだよ。でも、特に異常はなかったんだ」
どういうことなんだろう、と僕は眉を寄せた。
結局、その日に僕は十六歳の少年との件は彼に話さなかった。
たぶん、それは現実での交わりだっただろう。でも、どこかで『明け方の夢』のような気もしていた。
鉄橋をかけぬける電車の音で僕は我に返った。
土手でのサッカーは未だに続いている。
穏やかな秋晴れの風が、今日も5LDKに吹き込んで……死の匂いを運び去ってくれているように思った。彼と娘の、死を。
あれから、僕は一度だけ池袋のバーへ行った。
そこには十六歳の店員がいた。
彼は僕を見ても特に具体的なリアクションを起こさなかった。
僕は彼をしばらく観察し、なにか反応があれば応じようと思った。けれども、最後まで僕と彼は店と客の関係に終始した。酒をたしなみ、料理を提供され、会計を支払った。
その帰り道で、ふと僕は中古のCDショップに入った。
どうしてそんなところに入ったのか、いまでも説明がつかない。
終電までまだ時間がある。
池袋を行き交う人の波から外れた先に、中古のCDショップがあっただけなのかもしれない。
僕はふと中古CDが並ぶ棚へ目を這わせた。
いつか彼が東の洋室を見て言った井戸の話を思い出した。彼はその井戸の話が何かの小説の事だと言った。僕は中古CDの中でカズオ・イシグロの事を思い出した。彼も作中でとあるレコードだかカセットを引き合いに出していた。
それを探してみたのだが、肝心のタイトルもアーティストもわからなかった。
「本末転倒じゃないか」
自分でも呆れてしまう。
カズオ・イシグロの、代表作と同じタイトルだった。でもそれが思い出せない。
そんなふうに立ち止まっていたとき、橋本一子のCDが目に入った。
いくつかのタイトルがあるなかで、僕は『Ichiko』を買った。
レジを通して盤面の裏に眼を向けた。
1984年のアルバムだった。
僕が買ったマンションより、そして僕よりも先輩のアルバム。
どうして橋本一子を買ったのかわからない。
でも、僕は無意識にこの一枚を買っていたのだ。
家について、橋本一子のアルバムを聞きながらソファで眠った。
広い5LDKの中で僕はリビングしか使っていないような気がした。
翌日、僕は盛大に寝坊した。
会社に連絡を入れなくちゃいけない。
でも、僕は連絡を入れる気にはならなかった。
スマホがガタガタと揺れる。
どうしようもない気分だった。
これが明け方の夢であればよかったのに。
そう思いながら、僕は冷蔵庫から水を取り出して飲んだ。納豆とチーズしかなくて、僕はそれに手を伸ばした。
それから、どういうわけか東の洋室に入った。
リビングからはかけっぱなしの橋本一子のアルバムがずっとずっとリピート再生されていた。それはまるで遠い竹林の向こう側で奏でられる独特な彼女のボサノヴァだった。
僕は何もかもから逃げ出したい気持ちだった。
薄給の中小企業は律義に出社することを求めていたし、大学の同期の女の子は僕よりもよい男性を求めて遠い彼方へ消え去った。十六歳の少年は淡々と働きながら、僕のはじめてをたくさん持ち去って行った。
考えなくてはいけないことがたくさんあった。
どうして娘さんは、この東の洋室で亡くなったのだろうか。
午前の朝陽が残っているハズなのに、洋室は思いのほか薄暗い。
僕はカーテンを閉め、空っぽのクローゼットを開け、閉めきった東の洋室の中に座り込んだ。
彼は言っていた。
暗い井戸の中でじっと二日だか三日だか時間を過ごすんだ、と。
その文章がどういう脈絡でもたらされたものか、いまの僕にはよくわからない。
けれども、なにか考えを整理したかったのではないかと想像できる。
危機的な状況ではないけれども、漠然とし過ぎている。
現実社会の中で僕は生きていくべきなのか。
この洋室で亡くなった娘のように、茫漠とした不安に耐えきれなくなりそうだった。
遠いリビングから携帯のバイブレーションが響いている。それを覆うように橋本一子のボサノヴァがかぶさる。
僕は開け放ったクローゼットの中で静かに目を閉じた。
右手に納豆を、左手にスティック状のチーズを持って。
どれだけ時間が経ったかはわからない。
誰かが激しくドアを叩き、チャイムを鳴らし、そして去って行った。
誰も彼もが去ってゆく。
そして再び眠り、夜の喧騒が窓の向こう側で広がった。
リビングから音楽が鳴り続け、熱病のようにぼんやりとした意識の中で尿意だけが明確に僕を苛めていた。
僕が明確な意識を取り戻したのは、東の洋室にこもっておよそ四十五時間後の事だった。
どうしてもトイレに行きたくなって立ち上がったのだ。
用便を済ませ、空になった納豆とチーズの容器を捨て、ときどき喚いていた携帯電話を拾った。
案の定、会社からの連絡がほとんどだった。
連絡を返さないと無断欠勤で解雇になる、という脅しのメッセージもあった。僕はそれも致し方がないと思った。このマンションのローンが三十五年ほど残っているが、仕方のない事だと割り切った。割り切れたのだ。
そのなかに彼の親族から連絡が入っていた。
サッカーの試合は終盤に近付いているのだろうか。
バルコニーから『一般的な生活』を送る人々を見ながら、僕はそう思った。
彼が亡くなったと知らされたのは、その電話に折り返した時だった。
しばらく僕は鉄橋と焼場の煙突を見つめていた。
彼は会社に出社し、営業車に乗って営業先へ出かけた。その営業車が暴走して橋から川へと落ちた。
警察は事件と事故の両面から捜査をしているというが……僕には、なんとなく意味がわかったような気がした。
彼は仕事をしていたのだ。
安全に運転していた。
信号待ちをし、歩行者を確認し、そして、アクセルを踏んだのだ。
夜明けの夢は彼の中で続いていたのだ。
永遠に、そして永久に。
殻と夢 HiraRen @HiraRen
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