煙草

鹽夜亮

第1話 煙草

 死のうと僕が思うのは、必然であったのかもしれない。

 愛車のハンドルを左右に振りながら、漫然と僕は考える。僕は、軽度の鬱と回避性人格障害に永い事苛まれ続けていた。それが行き着く先は、どのみちここにあったのだろう。

 静岡へと続く国道は、トンネルをこえていよいよ曲がりくねり始める。坂道の抵抗に合わせて、ギアを落とす。カチリとピースがはまるように、回転数の合うのが心地よい。ハンドルを左右に振れば、愛車は思い描いた通りに動く。それは手足というに近い。運転は、いつでも僕の救世主だった。泣き喚き、雨に降られながら飛ばす会社からの帰路。気ままに出かけた目的も無い峠道。恋人を乗せた近くのラーメン屋までの5分間。初めて、このエンジンに火を入れた瞬間の心の昂り。全て、大切な僕の思い出だ。そして、それは死へとひた走る今でさえ、脈絡と続いている。

 僕に何か、やり残したことはあるだろうか。死のうと思いはじめたのはもう、かれこれ数ヶ月も前からのことであるから、今日に至るまで出来る限りのことはしてきたつもりだ。遺書はパソコンに残してある。要らないものは処分もした。借りたものはなかったから、特に何かを返す必要はなかった。欲しいものは特に…思いつかなかったから、今日までこれといって手に入れようとしてはいない。職場には迷惑をかけてしまうかもしれないが、そこまで気を回せるほど、僕は出来のいい人間ではない。

 窓の外を過ぎ去っていく景色を視界の端で浪費しながら、僕は考えることをやめた。すでに、答えは出ているからそれはただの無駄だ。

 考えることをやめたのなら、懐古主義にでも浸ってみるのもいいかもしれない。そう思いついた僕は、出来る限り過去の事を思い返してみようと、脳裏の乱雑に放置された埃まみれの引き出しに手をかける。

 僕が、人として崩れはじめたのはいつからだったか。…母と父が離婚した時からか、不登校になった時からか。それとも、生まれつき欠陥品だったのか。今まで幾度も問いかけ続けたが、答えはでない。きっと僕は僕の最期まで、その答えを知る事はないだろう。だが、どうしても、どうしても弱い僕は、一つの原因として母と父との離別を考えずにはいられない。

 父とは、僕にとってほとんど形骸化した曖昧な言葉の塊だ。母との離婚の後、父とは一度も顔を合わせていない。まだ幼い時分だったから、父に関する記憶はほとんどない。それを、悲しいと思ったこともない。そもそも知らないことを、懐かしむことも悲しむこともできやしないのだ。それでも、何か断片を探そうと、僕は当ても無く記憶の引き出しを片っ端から開け放つ。

 曲がりくねった峠道が一旦の終息を得る。西日に照らされたコンビニの看板が、信号機の奥で佇んでいる。眼前の青看板は、知らない地名への道筋を無機質に提示している。どこかで鴉が鳴いた。赤信号に塞き止められた車の群れが、青に変わった瞬間にそろそろと動き始める。

 引き出しは、僕の思っていたよりも多くの物事を隠し持っていた。無論、それは埃まみれであったことに違いないが。

 父の、男性にしては華奢な手が僕の頭を撫でている。僕は、父を見上げている。その顔は、モザイクで塗りつぶされているようで、判然としない。父の手に、暖かさを感じる。母とは違う、ざらざらとした肌質の荒さを感じる。…。

 僕は、ふと父の肌が浅黒かったことを思い出した。今になればわかることだが、それはもしかするとアルコールのせいだったのかもしれない。肝臓かなにかを病んでいたのだろう。母は、父と離婚した後に僕に何度か言って聞かせたように、父はアルコール中毒の気があったのかもしれない。

 もう一つ、父に関して思い出したことがある。その最後の一つが、どうしても僕の心に爪をかけた。

 父が、ベランダで煙草を吸っている。母は何かの用事だろうか、家にいないようだ。僕は、父に遊んでもらおうとベランダへと歩いていく。父は…煙草を右手にもちながら、何も言わずにまた、左手で僕の頭を撫でた。

 ただそれだけだ。それだけの記憶が、僕に一つのやり残したことを思い返させた。

 僕は、まだ煙草を一度も吸ったことがない。

 死の旅路に、ちょっとした花を添えてみるのもいいだろう。僕は、さっそく県境近くにあるコンビニの駐車場へと愛車を滑り込ませた。

 自動ドアをくぐると、軽快な音楽が耳をつく。レジの前で家族連れの子どもが、何やら駄々をこねて母親にしかられている。雑誌の置いてあるコーナーに目を向けると、作業着姿の男性が面白くもなさそうに青年誌をぺらぺらと捲っている。コンビニに入店すると、喉の乾いていたことを急に思い出した僕は、足早にコーヒーを手に取った。新しい銘柄が増えているのも気になったが、いつも通りの物を選んだ。大体、あくまで経験上の話だが新発売の商品を興味本位で手に取って、当たりだった試しがなかった。保守主義といえば、ちょっと大げさに過ぎるかもしれない。コーヒーを選んだ後、100円ライターを手に取ると、他に買いたいものも思いつかない僕は、そのままレジへと向かった。

 さて、いざ煙草を選ぶわけだが、ここでどうも困ってしまった。ご存知の通り、コンビニに置いてあるだけのものであっても煙草の種類は膨大だ。今まで煙草に全く興味も関心もなかった僕は、銘柄の知識など生憎持ち合わせていない。レジの前で困り顔をする僕を見て、店員が訝しげに、少し手持ち無沙汰な居心地の悪さを漂わせながらレジの奥で右往左往している。

「あ、すいません。ちょっと煙草を…。」

「ええ、どうぞ。銘柄は?」

 銘柄、銘柄。そう言われても…。

「ええとですね…。」

 言葉に詰まる。店員はまた、居心地悪そうに待っている。持っている記憶を総動員する。確か…祖父はメビウスだっけ。でも祖父と同じというのも…。悩みながら煙草の並ぶ棚を見回していると、一つ気になる銘柄が目に入った。

「あの、143番、一つお願いします。」

「マルボロのゴールドでお間違いございませんか。こちらになります。」

 マルボロ。名前だけは聞いた事があった。

「それでいいです。」

 会計を終えると、僕はそわそわした気分で外に出た。マルボロのゴールドを選んだのには、理由があった。父だ。父が吸っていたのは、確かこの銘柄だった。というのも、名前は知らなかったが、幼いころの記憶の中に、テーブルに置かれたこの箱を見た覚えがある。母は煙草を吸わないし、祖父はメビウスしか吸わないはずだ。そう考えると、あの記憶の煙草は父のものだろう。

 なぜ僕が、父と同じ銘柄をとっさに選んだのかは、自分でもよくわからない。祖父と同じものは避けたはずなのに、僕はあえて父とは同じものを選んだ。知識がないからと言えばそれまでだが、恐らく、僕の中になる一片の父への憧れがそうさせたのかもしれない。

 マルボロのビニール包装を開ける。悪戯をする前の子どものように、心臓が高鳴っている。ボックスタイプの蓋を開け、銀紙に四苦八苦する。破り方がわからず、何やら不格好になってしまったが、ともかく煙草を引っ張りだす事ができた。

 慣れない手つきで、火を点ける。

「…っげほ。」

 案の定咽せた。濃厚な煙が肺に蔓延する。わけがわからない。味も何も、わからない。ただ煙いだけだ。…。こんな物を世の人々は吸い続けているのか。理解ができない。

 しかし、一方の僕は、理解したいと思った。今ならば、なぜかその心持ちが理解できる気がした。相変わらず、吸い込む煙は味もしない。喉にへばりつく煙が、痛覚を刺激する。それでも、なぜか僕は不慣れな右手を口に運ぶことをやめられなかった。

 数本のマルボロを吸い終わり、車へと戻る。身体中からタバコの匂いがする。そうでなければ、鼻腔にタバコの煙がこびりついているのだろう。常にマルボロの香りが傍を離れない。僕は、それに一種の安心を覚えていた。それは、体臭を隠すために強く香水をつけることに似ているのかもしれない。さもなければ、もしかすると記憶にも薄れた父の匂いを思い返したのかもしれない。僕自身にも正しいところはわからなかった。

 車を再び走らせる。目的地は変わらない。運転の合間に、慣れない手つきでタバコを吹かす。国道は、県境を越えても尚、曲がりくねりながら鬱蒼とした森を抜けていく。この景色には、いつになっても飽き飽きさせられてきた。

 国道は、海に突き当たる交差点で終わりを告げる。海であればどこでもよかった僕は、なんとなしに右折することを選んだ。バイパスではなく、旧道を走る。両脇には宿場町らしい面影を残した、寂れかけた商店街が軒を連ねている。

 商店街の歩道には、ちょうど学校を終えたらしい小学生や中学生が、それぞれ数人ずつ楽しそうに歩いている。僕はその光景に、ノスタルジックを感じた。夕日が彼らを照らしていることも、僕を感傷的にする理由の一つであるかもわからなかった。否応無しに、自らの幼少期を思い返す。雨に濡れた長靴、水たまりで跳ねる友人。黄色の小さい傘。濡れた公園のモニュメント。…通学路の匂い。排ガスを感じさせる生ぬるい風。記憶が、五感を刺激した。妙に惨めな気持ちだった。気がつけば、涙をこらえることに必死になっている自分がいた。

 僕は、懐からマルボロを取り出し、また火をつける。

 走馬灯のように今までの出来事が脳裏を駆けていく。窓越しに流れる景色のように、次々と記憶の波は移り変わる。それぞれが重要な意味を持つようにも、何ら意味など持たないようにも思える。ただ、そのどれもが僕にとっては胸の奥底を掻き毟られるような、切なさとも悲しさとも、懐かしさとも言い表しがたい複雑な感情を呼び起こした。結局、当て所もなく彷徨った挙句に、僕はある海岸の公園にたどり着いた。

 日はすでに暮れた。夜風が肌を叩いて通り過ぎていく。沖ではカモメが啼いている。ざあざあと、海がひっきりなしに音を立てる。寂れた公園の駐車場には、僕の車以外何も見当たらない。僕はここまできて、ついに完全な孤独だった。

 空に星が見える。空気が澄んでいることを、目にも、肌にも感じる。マルボロの味には既に慣れ始めていた。否、味わうことができるようになってきたとも言える。

 海岸に佇み、海を眺める。暗い暗い海は、油絵のように沈んでいる。眼下に見えるゴツゴツした岩の群れは、死を直接的に連想させる。頭から落ちれば、瞬く間に絶命することができるだろう。…。

 マルボロを吹かす。煙が肺を汚す。口腔と鼻腔を若干の酸を含んだマルボロ独特の香りが満たす。箱には、まだ半分ほどの本数が残っている。

 もう一度海を見る。飛べば、終わる。死は遠くはない。目の前にある。確実に、誰にも邪魔されずに、完璧に。先ほどまで望み続けた死が、そこにはある。

 踏み切る足を何かが邪魔する。踏み切ろうとする脳を、心が拒否している。足が動かない。鼓動が速まる。額に冷汗が浮かぶ。僕は、死が恐ろしいのか。それとも、今更生き永らえたいと思っているのか。生と死の間で右往左往する僕の脳裏は、まともな答えをかつぎ出さない。

 また一本、マルボロに火をつける。ふと、残りの本数をこのまま吸わないのは、もったいないと思った。

 そう思うと同時、途端に涙が溢れ始めた。足が崩れ落ちる。視界が全て涙で埋め尽くされる。心が、悲しみと辛さに押しつぶされる。僕は、僕がこれほど悲しみ、辛いと思っていることに、このとき初めて気が付いた。

 数時間後。僕は、自宅の庭に車を止めていた。戻ってきてしまった。日常に帰還してしまった。それは、辛さに他ならなかった。だが、僕が望んだことにも他ならなかった。車から降りる。家の扉の鍵を開けて、玄関に入る。日常の空気が、戻ってくる。

 僕は、眠る支度を整えると、眠りにつく前に一服をする。

 明日の朝も、また次の一本に火をつけることを、心に決めて。

 

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煙草 鹽夜亮 @yuu1201

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